জলসাঘর『ジョルシャゴル』"Jalsaghar" (The Music Room) (アジアの現代文芸 INDIA[インド]③タラションコル短編集)তারাশঙ্কর বন্দ্যোপাধ্যায় by Tarasankar Bandyopadhyay. Translated by Kyoko Niwa. THE DAIDO LIFE FOUNDATION

ジョルシャゴル | 公益財団法人大同生命国際文化基金

アジアの現代文芸の翻訳出版|翻訳出版|事業紹介 | 公益財団法人大同生命国際文化基金

装幀 山崎登

白水社の『その他の外国語文学の翻訳者』に登場する、世界六位の話者人口を誇るというベンガル語(七位だったかもしれない)訳者の人の、バングラディシュ文学を読んで、面白かったので、インド側のと交互に訳してるということでしたので、これを借りてみました。前世紀出版の本で、図書館の棚で手に取ることはこれまでにもあって、それで、今まで手にとっても、読んでなかった本ですので、どうかなあと思いつつ。

bn.wikipedia.org

en.wikipedia.org

タラションコル・ボンドパッダエ - Wikipedia

書いた人はタゴールの後継者の後継者レースで大外から一気に詰めてきたみたいな人で、表題作はこの訳者さんの本の推薦文にひょいひょい出てくるサタジット・レイが映画化してるそうです。

ja.wikipedia.org

Satyajit Ray - Wikipedia

সত্যজিৎ রায় - উইকিপিডিয়া

Jalsaghar - Wikipedia

জলসাঘর (চলচ্চিত্র) - উইকিপিডিয়া

訳者による解説ではサタジット・レイをベンガル読みでショットジット・ラエと書き、タゴールをロビンロナド・タクルと書いてます。また、どの作品も「秀作」としていて、そんな点が辛くてインカ帝国と思いました。私なら佳品と書くかな。

『ジョルシャゴル』1934年は、歌舞場、舞庁のようなところと理解し、作者はインドの芸妓とか芸事に詳しかったそうなので、インドの永井荷風が、没落お大尽とプロ芸妓というか、花街の粋筋のプロとの、おとなのこころの機微を描いたような作品でいいのかなあ、と思ってます。妓生と両班物語のベンガルバージョンとでもいいますか。その前章である『ラエ家』は、その三代前、没落前の剛毅なジョミダル(ザミンダール)時代を描いていて、「ラエ」はショットジット・ラエ監督の姓のラエを指す内輪受けのジョークかなと思いましたが、分かりませんでした。

ベンガル文化を日本へ:丹羽京子教授インタビュー | TUFS Today

東外大インタビューでもショットジット・ラエ。

著者の日本語版ウィキペディアでは、タラションゴルという人の邦訳は、本書しか書いてませんが、めこんからも出ていました。

現代インド文学選集7 船頭タリニ

丹羽サンは、モハッシェッタ・デビというインド側作家の小説も共訳で邦訳してるのですが、こちらの作家も、めこんから別の本が出ていました。これも、「秀作」だそうです。

本の紹介 ジャグモーハンの死

まあ、一部のベンガル学者によるめこん隠しというわけでもないでしょう。

頁206「ラエ家」

「ええ、あの、こんな上等のコメは何だか水っぽく思えて、我々はあの脱穀してない米でないと食べた気がしないんですが」

 ラエは思わず笑い声をあげて、そばにいた者に命じた。「聞いたろ、脱穀してないほうの米を持って来なさい」

この箇所だけおかしくて、脱穀は、稲束から籾粒を落とす作業ですから、脱穀してないというと、稲わらのまんま米を煮て出せと言っているに等しくて、籾殻を落とす作業はもみすり、その後、精米というか米搗きをして、玄米を白米にするわけですので、米つきをしてない玄米でないと食べた気がしない、と言ってるんじゃいかなと思いました。大地の歌が代表作のサタジット・レイならなんというか。

ここは、代々ザミンダールに反抗的な集落群が売買で主人公のもちものになったので、領民と初めて会食する場面。パール・バックの『大地』でも、反抗的な領地に強制的に徴収に行って、領民に返り討ちされて首をはねられる領主(主人公一族)の場面があったなあと思いました。この話では、この後、村に入った徴税人は釜で焼き殺され、仕返しにジョミダルは配下の暴力装置を用いて村を焼きます。

訳者のバングラ側の話は、なんとか原題のアタリをつけたりしましたが、この話はかなり無理で、表題作以外、どの単語をベンガル語に訳しても、ベンガル語ウィキペディアの短編集のところで、該当単語がヒットしません。短編それぞれの題名でないからか、邦題が原題の直訳でないか、どちらでしょう。

魔女জাদুকরী
笛বাঁশি
草ঘাস
花ফুল
池পুকুর
女মহিলা
蛇সাপ
剣তলোয়ার

花輪পুষ্পস্তবক

魔女は、ベンガル語のアルファベット表記でjadukariと出て、同名の短編集があるように英語版では見えるのですが、ベンガル語版ではフィットしないです。

『女と蛇』1934年は、新・ちくま文学の森にも収められているのですが、21世紀からすると、「なんでこれ入れたの?インドのヘビ使いのヘビがヘビ使いの女房に嫉妬する話なんて、オリエンタリズムそのものじゃないデスカ」と批判にさらされるかもしれません。

筑摩書房 新・ちくま文学の森 2 奇想天外 ─奇想天外 / 鶴見 俊輔 著, 安野 光雅 著, 森 毅 著

巻頭に作者の息子さんからの「日本の読者の皆様へ」と、当時の駐日インド大使プラカーシュ・シャーのメッセージ、東外大教授田中敏雄先生の訳者紹介。巻末に大同生命と作者をつないでくれた鈴木斌先生(同シリーズパキスタンでマントーなどを訳した人)と、ケショブ・ショルカルさんというベンガル人への謝辞。

とりいそぎ以上。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

本書に、ラーマーヤナ隠しやマハーバーラタ隠しはありまっせん。とほほ。

Roshan Kumari - Kathak - YouTube

【後報】

上の動画はサタジット・レイ/ショットジット・ラエの映画の踊りの場面。ふたり踊り子がいるはずなんですが、映画ではひとりはシタール弾きにしてるのかもしれません。原作では、すでに没落したひとりものが主人公ですが、映画では現在進行形で没落中で、嫁の嫁入り道具にまで手を付けてる感じ。

宇能鴻一郎が、横浜南部の、三島邸か宇能邸かみたいな西洋屋敷で、夜な夜な夜会服でダンスパーテーィを催している話を思い出しました。で、本書の、踊り手の年上のほう、成金があれこれ主人公のメンツを潰すようなことをすると、ウルドゥー語で粋じゃないとかなんとか擁護するせりふをぼそっとつぶやく女性、韓国の何かを連想して、それで上でも書いてたのですが、誰か具体的に人名が思い出されず、鏑木清方も絵にして、鎌倉で見れる女性、とか、梶原季之だか五木寛之だかの半島回想コラムに出てきた女性、とか、さんざん検索して、崔承喜だと思い至りました。

ja.wikipedia.org

『ジョルシャゴル』『ラエ家』の感想はそれでよくて、『女と蛇』もオリエンタリズムガーと上に書きまして、それで、ほかの作品はというと、たぶん、いろんなタイプの作品を入れて、解説にあるように、ベンガルの民衆のさまざまな暮らしを読者に見せたかったからだと思うのですが、それで逆に、この作家さんの、芸事に詳しい、遊び人ではないんだけど、おうちがそういうことに触れることの出来る、ジョミダルの末端だったから、という特質がもっと読みたい向きには、不満が残るかもしれないセレクトになっています。階級ガーとかそういう作品を入れたほうが第三世界好きな読者のお好みにかなった時代と、現代との差分でしょうか。『魔女の笛』は農村で魔女のレッテルを張られるタイプの家族のない女性の話、『草の花』は、容赦ない炭鉱のガス充満やら取り残されるやら少数民族の女性やら(作業着でなく民族衣装のまま坑道にむぐる世界)の話、『アクライの池』はダコイトの話で、日本でもまま聞く、おいはぎ村が、それと知らず親族を殺してしまうモチーフ、『剣』は魯迅の鋳剣でも読んだのか、そんなような神話的世界を描いてみますた、的な話、『花輪』は、うれし恥ずかし新婚生活が、ハズの花街通いで狂う話だったか、ぜんぜん違う話でしたか。

後年のバングラディシュ作品のチョイスに比べると、なんしかアジアの人民をお勉強的な散漫さを感じてしまい、訳者自身も、奥歯にものがはさまったような感じがあったのかも、と思ってしまいました。以上です。

(2022/8/23)