『ラジオの戦争責任』 (PHP新書)読了

ラジオの戦争責任 (PHP新書)

ラジオの戦争責任 (PHP新書)

積ん読シリーズ

本書ははじめから、
「学術的に十分高度で、なおかつ商品として売れるもの」として企画された。
(頁252)
コンセプトはじゅうぶん実現出来たと思います。
実際に売れたかどうかは別として。
すべからく新書は、ためになる勉強になる部分がなければいけないと思う。
それがなきゃ文庫本との区別がつかない。
で、つまらなければ、意味がない。

戦前ラジオが浸透し、ラジオを通じてデマゴーグと「集団的誘導作用」が昂進したことが、
序章と終章のロジックのページと、三章を除く各章のアジテーター紹介で分かる仕組みに
なっています。三章は本書執筆のきっかけとなった松下幸之助についての章。

なんで昔の人は、仏典読んでるわけでもないのに仏教に馴染んでるのかなあって、
ずっと思ってたんですが、この本でなぞが解けました。
仏教雄弁家がラジオ時代大活躍してたんですね。
彼らの仕事として本書が特筆したのが、聖徳太子の逆賊から偉人へのパラダイム・シフト。
これは確かにすごい。

頁42
それまで、聖徳太子を批判する人々は、崇峻天皇崩御を問題として取り上げていた。蘇我馬子は、崇峻天皇を暗殺したが、聖徳太子は摂政のとき、蘇我馬子を大臣としている。これが「聖徳太子は逆賊だ」という理論の根拠とされていた。しかし高嶋は、当時の大臣は世襲制であって聖徳太子が特に馬子を重んじていたわけではなかったこと、聖徳太子が摂政のときの馬子は決して逆賊としての活動をしていなかったこと、また聖徳太子は仏教を普及させ、十七条憲法を制定し、遣隋使によって外国の優れた文化を取り入れたという、今日ではおなじみの議論を雑誌や講演でくりかえし説いたのであった。

仏教に批判的な水戸学を学んだ渋沢栄一聖徳太子を逆賊だと思っていたが、
回心させて法隆寺修復に積極的に協力させた、のくだりに、あっと思いました。
そら儒教儒教の親孝行の部分ぱくった偽経を持ってる仏教嫌うわな、
その儒教を取り入れたんが明治維新の原動力の水戸学やったのに、
廃仏毀釈もなんのその、いつの間にかじりじり仏教が巻き返したはったんや。
しかもインドの原典にない、支那仏教の精華のひとつとも言える孝行関連の偽経もコミで。
原典求めてチベットに行かはったミスタ・カワグチはんお気の毒やわあ。
耳で聞く仏教やさかい、読んだら気にしはるニセやらなんやら気にならんにゃわ。
ほんま門前の小僧やで。ラジオ仏教さまさまや。

頁251
松下は小学校中退のため、生涯にわたって文字の読み書きが苦手であり、特定の師匠もほとんどいなかったとされている。しかしなぜか難解な言葉を多く操り、思想家のように語ることができたのである。

日本の場合、都市部はペラペラの木造建築で音が筒抜け。で、大音響でラジオ聞く。
さらにチャンネルがNHKしかないので、ルーシーショーやドリフがやったような、
笑い声の挿入などしなくても、まわりの声や笑いが同様の効果を生み、一体ムードが生まれる。
大家族の田舎も同じ。デマゴギーにとっては願ってもない状況がラジオのまわりに
現出していたということだそう。
話し言葉と書き言葉の違いはみなうすうす理解してますが、
それが戦争イデオロギーと化学反応起こして、ああなったとか。

頁257
 話に脈絡がなく、深く考えないということは、たとえば文字に比べて話し言葉は定義があいまいだということと関係している。「大東亜共栄圏」という話し言葉は、地理的な範囲も意義も拡大されたり曲解されたりした。これを言い出した松岡にも厳密な定義はなかった。「大東亜共栄圏」は内容があいまいであるため、深く考えられないまま何度でもくりかえし説かれた。「お国のため」という言葉も、ほとんど脈絡なく使われた傾向が強い。そのあいまいさは、太平洋戦争とは何なのか、この戦争の意義はどこにあるのか、まったくもってあいまいであったことと、強くつながっているのではないか。
 保守的で伝統を重視する割には、歴史や伝統を都合よく解釈する傾向は、太平洋戦争の特徴をよく表わしている。一例をあげてば「撃ちてし止まん」「八紘一宇」などの『日本書紀』の言葉は、大戦中に盛んに唱えられたが、これらは『日本書紀』とは別な文脈で使われた。「武士道」も、かなりいい加減に解釈され、日本は武士道の国だと言われたものの、江戸時代を通じて武士が国民の圧倒的少数であったことは、まったく無視された。松岡が多用した「日本精神」という言葉も、何を意味するのかほとんど不明であった。


鹿島神宮にて

この本は宣戦への扇動家を松岡洋右終戦工作(玉音放送)を下村宏に
大胆に集約してるので、おおいに異論もあるかと思います。
頁216の歴史のたられば定食とか、異論がないわけない。
ではありますが、下記の作者のスタンスには、うなづかれる所多し、
と思えるようになりました。

頁233
 鈴木貫太郎内閣が恐れたのは、アメリカ軍というより「一億玉砕」を叫びつづける国民であった。阿南惟幾陸軍大臣が最後まで戦争続行を主張したのも、この国民の頭をどうやって冷やすのか、その手段がないという理由からであった。下村は、国民をそれほどまでに熱狂させているのはラジオだと見破り、その力をこの上なく強力にする方法として天皇による放送を考案した。その計算のとおり、天皇による放送は劇的な効果を発揮し、世論を一気に終戦へと変えた。マッカーサーは、「最後の一人まで戦う」と絶叫していた日本人が、急に戦争をやめた様子を見て、世界史上まれに見る見事な終戦だと絶賛した。

頁233
終戦後は、特高警察の拷問を受けてもひたすらに戦争反対を主張しつづけた人が一部で賞讃されたが、こうした人々は実際の終戦にはまったく貢献できなかったと言ってよい。実際に終戦を成功させた人は、軍部に妥協しながら権力を手に入れ、その権力を有効に使った人である。一度でも軍部に妥協したことがあるかどうかはあまり重要ではなく、実際に終戦を成功させたのかどうかに注目するべきであろう。

そういえばチニルパってどうなったんだろ。浜の真砂は尽きるともですよ。
まあでもそんなに簡単に、
死に切れなかった想いとか燃え尽き症候群とかが精算出来るわけもなく、
戦後も燠火のようにちろちろと燃えてたわけなんでしょう。情念。

地には平和を (新風舎文庫)

地には平和を (新風舎文庫)

お子ちゃまだから、ガミラス本土決戦が男のロマン風立ちぬ

頁196
 一九〇一(明治三十四)年、下村は初代の郵便局長として勤務するため、北京に赴任した。前年の義和団の乱で、北京は荒廃しきった様子であった。このとき、清朝の外交を処理していたのは李鴻章である。まだ二十代だった下村は、単独会見を申し込んで会うことができた。
「二十七歳の若造が、七十九歳の宰相にやすやすと接見ができる。まことやそこに敗戦国の悲哀がある」
 李鴻章と握手をしたが、手が氷のように冷たかった。下村は身にしみて感じた。
「戦争はめったにやるものでない。負けた時はやりきれぬ」

こういうのがランバ・ラルとしか結びつかないのも、
それはそれで楽しけれ。体験しなくてよいことは体験しなくてよい。