『台所から北京が見える 36歳から始めた私の中国語』東京ジャーナルセンター版3刷読了

積ん読、というか家に転がってた本。
タイトルだけ見て、
主婦留学の本かと思ってましたが、
おそろしく違いました。
昭和八年生まれ、
平成十九年他界の作者が、
牛乳瓶底の眼鏡で、
・25歳。育児後の人生について
 讀賣新聞人生相談に投書。
(3歳と1歳の男2児子育て中)
 回答の本旨とは関係ない
 末節の部分で語学学習を
 薦められ、開眼する。
・36歳、子供が
 手を離れる迄伏竜。
 旦那(のちのサッポロ
    ビール取締役)
 の大阪転勤を機に、
 日中国交回復/
 日華国交断絶以前の
 中国語学校に通い始める。

頁65
 とくに上手な生徒が名指しでほめられるくらいならかまわない。
「長澤を除いて、他は皆いいです。あなた、耳悪い、ちがいますか」
 といわれたとき、私は一瞬、「もうだめだ。やめよう」と思った。いわれなくても、私自身、痛いほどそれがよくわかっていたから。
 若いころの私だったら、翌日から学校には行かなかったと思う。しかし、十年間の歳月は、私をいくらか変えていた。とにかく、すぐやめるのだけは思いとどまった。
 こんなわけで、中国語文学院での学習は、はじめから、すこしもおもしろいものではなかった。

 死ぬほどの反復練習を繰り返し、徐々にモノになってゆく。
 いたるところにテープレコーダーを置き、とにかく音読を続け、
 あちらの当代文学、古典を原文で読み漁る。
 『葉聖陶童話選』『林家舗子』『魯迅作品選』『老残游記』『巴金全集』『紅楼夢』朱自清…
 長恨歌と琵琶行はほとんどそらで詠唱出来る迄になったとのこと。

頁81
「それはほめられたのではない。気をつけなさい。成語は会話の最後の切札、軽々しく使ってはいけない。私からいわせれば、日本人の中国語は全部、“半路出家”なのだ。なにもあなただけのことではない」

頁82
「ほめられているうちは、下手な証拠。考えてもごらん、幼い子がまり投げをすれば、上手、上手とほめるけれど、プロ野球選手にむかって、あなたは野球が上手ですね、というか」
 私はかっと顔があつくなってしまった。
「よし、私はいつか、中国人にほめられなくなるような中国語を話せるようになろう」
 そのとき、私はひそかに心に誓った。

 みんなそこでもがくんですね。本当に大変。私は挫折組。
・その傍ら、自由になるお金を稼ぐため、看護学校に入学。
 十五やそこらの子に交じって、準看の資格を取る。だけでなく、働き出す。

頁112
 私はいまでも、ピーポーピーポーという救急車のサイレンの音を夜中に聞くと、はっとして目が覚めることがある。当直のときのあの音はおそろしかった。どんな患者が運ばれてくるかわからない。
 ぜんそくの発作の患者には、それこそゆっくりと息を殺して静脈注射を打つ。自殺未遂のときは、直ちに胃洗浄をする。なぜかお産は夜中が多い。胃けいれんの男性は、何人かで押さえこまなくては注射もできない。
 当直明けの朝、仕事の申し送りを終えて家路につくときは、体は疲れていても、なんとさわやかだったことか。私は仕事が好きだ。精いっぱいやった、という思いがあるとき、生きてるという実感が湧いてくる。病院勤めは私のもう一つの緊張の場であった。

・その生活を続けつつ通訳の資格を取るまでに打ち込む。
 次男の反抗期は犬を飼うことで乗り切る。
 母の痴呆と徘徊が始まり、その死後、彼女もまた、母と娘の相克を回想する。
 新聞投書からの自己実現ということで、その後を取り上げた新聞効果で、
 関西では彼女を囲む会が発足、発展する。語学は和光大学紅楼夢の卒論を書くまでやる。
・そして日中国交回復、直行便就航。

頁119
 いまでも「一番機のとき」ということばが残っているくらいで、これは日航と交通公社にとっては社をあげての大仕事であった。
 そのとき、日航側の総指揮をとったのが、直木賞作家の深田祐介氏であった。深田氏はこの仕事にたずさわる全員をまえにして、次のような訓示をされた。
「いま、日本中の右翼が続々と羽田周辺に集まりつつある、というニュースが入りました。警備は万全を期しておりますが、みなさんも一人一人が盾となって、中国からの先生方をお守りするよう、お願いします」
 私たちはそのひとことを聞いておそれをなした。ある人は、「私、おりる」といいだした。

これのどこが、台所からの政治感覚とか主婦とかお茶の間なのか。
タイトルは、執筆当時、サラリーマンにならない宣言をして欧州留学してた次男が、
名づけの親だそうなので、作者とは目線やなんかが違ってて、それがよかったのかと思います。
ルーみたいな次男だと思いました。
中検のヒアリング問題で、あまりにトンチンカンな選択肢があると、
吹き出してしまうので正解でないと受験者に分かってしまうアルバイト試験官留学生の昨今と、
まさに隔世の感がありますが、ジッサイ20世紀と21世紀で隔世だから仕方ない。
左は東京ジャーナルセンター版
第三刷の裏表紙。ウォークマン
ヘッドホンステレオは
本編にも登場する語学学習の
小道具。装幀小松久子。
万里の長城の表紙と、
第一刷?の天壇の表紙は、
ほかの方からお借り出来ないか、
依頼中。⇒【後報】前者は、会話の上、
自分でスキャンすることにしました。
後者は、打診にお返事なし。
(2016/1/1)
講談社単行本は下記。
http://ecx.images-amazon.com/images/I/31FqC%2BV9uTL._SL500_.jpg
前世紀末に出た、
講談社ナントカ文庫は下記。

台所から北京が見える―主婦にも家庭以外の人生がある (講談社プラスアルファ文庫)

台所から北京が見える―主婦にも家庭以外の人生がある (講談社プラスアルファ文庫)

頁135、中国の針麻酔を見学に、文革終了前の広州を訪問した際、
膀胱結石と甲状腺腫瘍の手術を見学する予定が、最初の膀胱手術で、
針だけでは患者が痛みを訴えて麻酔薬併用のオペに切り替わり、その後、なぜか、
甲状腺手術の見学でなく脳腫瘍手術の見学になり、針を打ちこんだだけの患者が、
頭蓋骨を開いて手術中の状態で、しかも意識があって会話する場面があり、
作者は一切のコメントを消して見たままの事実だけを淡々と書いていますので、
それだけに笑いが止められず、大爆笑で読了しました。面子潰れたので、
大々的なヤラセを打った、なんてひとっことも書いてない作者の潔さ。
遠藤誉も、毛沢東の本*1を書かずにはいられなかったんでしょうが、
もう少しなんとかならなかったのか。下記は上海蟹。目のつけ所が違う。

頁235
 おもしろいのは、食べ終わったあとのフィンガーボールだ。小菊の花がいっぱい浮かべられている。花びらをつまむことによって指先がきれいになり、カニのにおいも消えるというわけである。ほのかに菊の香りもただよい食後の満足感がいっそう深まるのはこのときのようだ。

確かに上海ガニは食べでがない。細い身をせせり続けるのは面倒。
頁19、トルファンのカレーズを坎儿井カルチンと書いているので、あれっ漢語使う?と思ったら、
頁28ではカレーズと書いていた。

この人は、時代もあったと思いますが、リアルチャイナと漢文の差異について、
最後までブレなかった幸福な人ではなかったか、そう思います。
毎年十回以上ツアコンやりながら、メイヨウ攻勢と戦いながら、まだこう言い切れた。

頁24
私にとって、中国への旅は、とりもなおさず、漢詩の国への旅立ちでもあった。

以上

*1:

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書)