『酒呑みの自己弁護』読了

酒呑みの自己弁護 (ちくま文庫)

酒呑みの自己弁護 (ちくま文庫)

上はちくま文庫ですが、図書館で借りたのは新潮文庫版。
内容、表現表記の違いがあるかどうかは分かりません。あってもおかしくない。
あとがきに、書名を巡るいきさつが明記されておりました。抜粋。

頁350
 この読物は『夕刊フジ』に「飲酒者の自己弁護」というタイトルで連載された。本書では「飲酒者」を「酒呑み」に変えた。そのいきさつについて書く。
 連載をひき受けて、数日後に、タイトルを「酒の害について」と決め、担当の人には諒承してもらった。チェホフの「煙草の害について」の真似であるが、そういうタイトルで、酒の楽しさだけを書くつもりであった。
 ところが、広告部のほうで、それでは酒関係のスポンサーにさしさわりがあるので変えてくれと言ってきた。酒関係のスポンサーといえばサントリーのことだろうから、私はサントリーの宣伝課長に会って承諾を得てきた。
 いよいよ予告を発表する段階になって、『夕刊フジ』の大阪のほうの広告部からクレームがつき、朝、学芸部長の平野光男さんが私の家に来られた。昼までに別の題名を考えてくれと言われる。
 私は非常に苦しんだ。たとえば「余ハイカニシテ大酒豪トナリシカ」という案もあった。ぎりぎりのところで自己弁護という言葉を思いつき、上に飲酒者をのせてみた。

当初の案だと、
断酒関係者やアル中専門病院が、まじめに酒の害について書かれた本かと手に取り、
中身が飲酒礼賛一辺倒で腰を抜かしてクレーム、あるいは引き込まれて再飲酒病状悪化、
なんて事態も考えられますので、現題でよかったと思います。
イラストの山藤章二さんは酒が飲めないことを本書で知りました。そうだったのか。
もちろん、この本に酒の害が書かれていない、ということではありません。
梅粼春生。

頁90「作家の自殺」
 梅粼さんは肝硬変で亡くなった。その病気は亡くなる一年前からわかっていた。肝硬変の人が酒を飲むのは自殺行為である。梅粼さんは書棚の書物の箱のなかにポケット・ウイスキーをかくしていて、夫人にみつからないように、夜中に飲んでいた。しかし、それを飲まなかったとしても、あと半年も生きられたかどうか。
 そうして、それを飲まなかったら、『幻化』という戦後文学の最高傑作を書けなかったと思う。どちらがいいかは誰にもわからない。梅粼さんの死も、間違いなく、一種の自殺だった。

山本周五郎

頁96「うまくない葡萄酒」
 仕事部屋へ行く坂道でころんで怪我をされたことがあった。私は、シメタと思った。なぜならば、怪我をすれば病院に行くだろうし、そうすれば内臓のほうの病気も診てもらうことになるだろうと思ったからである。
 しかし、山本さんは、そっちのほうは拒否してしまって、あいかわらず酒を飲んでいた。最後の最後まで、『朝日新聞』日曜版の小説を書きつづけていた。
 山本さんの死も、一種の自殺である。

川島雄三

頁108「川島雄三さん」
 十日後の朝、東宝の市川久夫さんから電話が掛ってきた。
「山口さん、お酒をやめてください」
 突然だった。叱りつける声だった。
「どうしたんですか」
川島雄三が死んだんです」
 私は声が無かった。

梶山季之

頁262「直木賞の頃②」
 伊豆で療養中の梶山季之さんから電話が掛ってきた。何とも心細い声である。来てくれという。急に言われてもどうにもならぬ。
 禁酒のショックは、私より梶山さんのほうが遥かに大きいはずである。彼は毎晩遅くまで飲むという生活をずっと続けていた。朝はビールを飲んで原稿を書きはじめる。大衆作家の生活なんてイイ気なもんだと言われれば、これを甘受しよう。そうでもしなければ梶山さんも私もやっていかれなかった。彼は酒をやめたら蟻走感に悩まされたという。それは私にはよく分かる。

川端康成

頁88「書について」
 川端康成先生は、私に、小説を書くときは、酔ったような気分にならないと書けないと言っていた。川端先生は酒の飲めない方である。

頁89「作家の自殺」
 川端康成先生が睡眠薬を飲まれなかったら『眠れる美女』とか『片腕』とかという小説を書くことはできなかったろう。また、先生が睡眠薬を常用されなかったら、自殺されるというようなことにはならなかったろう。

作者には、暗い情念というか、ルサンチマンがある。それが飲酒に結びついている。

頁16「はじめての酒②」
 だいたい、こんなに酒が飲まれるようになったのは、戦時中の配給制度のためでもあった。配給されるのだから飲まなければ損だということになった。それではじめて酒を飲むようになった人は大勢いるはずである。煙草も同様だった。

麻井宇介先生の血のメーデーの記憶とも重なる文章。

頁46「天に昇る電車」
 銀座で飲んでいて、外国製の自動車が駐車しているのを見ると、自動車の横っ腹を下駄で蹴るのである。そうすると、少し、へこむ。運転手に追いかけられて、何度逃げたことか。私は銀座の裏通りの細い路地に精通していたから、つかまることはなかった。
 当時の私の感覚からすると、外車に乗っている人間は悪い奴であり、悪いことをしている人間だった。そういうと正義派のように思われるかもしれないが、実際は、金持ちや羽振りのいい奴が憎くてたまらなかったのである。

頁78「鬱屈の頃」
 昭和二十七年の頃、私は、ただこれ一箇の酔っぱらいだった。困った奴だった。心中にあかあかと燃える理想などはまるで無く、勉強もせず、小説家になりたいとも思わず、なれるとも思っていなかった。
 私は焼酎を飲み、後楽園球場の外野席で暴れているところの破落戸(ならずもの)だった。折あらば大量の酒を飲み、交番の前へ行って、直立不動の姿勢で、大声で「赤旗の歌」を歌うという男だった。
  高く立て赤旗
  その影に生死せん
  卑怯者去らば去れ
  われらは赤旗守る
 私は右でも左でもなく、ただただ鬱屈していて、世を拗ねていたのである。

頁154「国歌吹奏」
 数日後に、同じ有楽町の大きな酒場へ行った。その店はアメリカ兵が多く、彼等は飲んだり踊ったりしていた。
 私たちは前回の泥酔を詫びに行ったのに、またしても、イタズラを思いついた。柳原さんが軍楽隊のマーチのLPを持っていた。その最後の曲がアメリカ国歌になっている。
 そのレコードを掛けてもらった。国歌が吹奏されたとき、アメリカ兵たちは、一瞬、自分の耳を疑うという姿勢で立ちつくした。
 ずいぶんひどいイタズラをやったものだ。しかし、その頃(昭和三十年代の初め)までの私は、陽気に騒ぐアメリカ兵たちを見ると腹が立ってならなかったのである。

頁208「酔っぱらい②」
 私が酒場で喧嘩になるときのひとつのキッカケは、相手が、戦争中に、いかにして徴兵を逃れたのかということを得々として話しだす時だった。当時の私は、それだけはどうしても許せなかった。徴兵逃れに成功したのはインテリに多かった。
 私は知らなかったのであるけれど、実に巧妙な方法があったのであり、そのために命ながらえた人が案外に多いのである。

このような作者の女房について触れた個所。

頁281「女房の父」
 女房に言わせると、自分が酒呑みに理解があるのは父が酒乱であったからだという。これは、逆の言い方もできるのであって、父が酒乱だから酒呑みは嫌いだとなっても不思議はない。そうならなかったのは、私にとってラッキーだった。
 どんなに貧乏していても、焼酎を買ってこいと言えば、女房は、アイヨと言って出て行く風情があった。男は酒を飲むものであり、晩酌は行われるものだと思いこんでいるようだ。
 私は、若いときは無口であり、仏頂面の男だった。それが、酒がはいると饒舌になる。陽気になる。それで女房が酒をすすめるということもあったようだ。

現代人がここ読んで、ACとか共依存とかのキーワードでワクにはめて考えるのは簡単。
作家は、昭和四十年代に、じぶんひとりで真実に到達している。

頁259「直木賞の頃①」
 ある人に、きみは死相があらわれていると言われた。ただちに酒をやめないと死んでしまうと言う。それでも飲み続けていた。家にいても、午前三時、四時まで電話が掛ってくる。どうすることも出来ない。
 それでも、私は、いわば酒の勢いで暮していた。酒の勢いをかりなければ書けないようになっていた。原稿を書くときに、ウイスキーのストレートをがぶがぶ飲まなければ頭が動きださない。

この本、「真面目な話」という個所が一番長く、
筆者が一番親しんだ文壇バーの衰亡、
筆者が育て、世に広めたトリスバーの衰退について大きく触れています。
社用族による価格上昇、酒より女給の風潮、それを後押しする阪僑の台頭…
面白かったです。鷲尾洋三さんのエッセーの引用部分、横光利一のセリフが秀逸。

頁233「いまから酔うぞ」
『酒を呑んでいて、いまここから酔うぞという、その境目ぐらいのところが、何とも云えない……実に面白いですなア』

私も酒が弱いので、このタイミングがベストだと思います。
至福の瞬間が一瞬で通り過ぎ、
つまらない「酔い」が前面に現れてしまうのは残念でならない。