チベット漫画の感想を書こうと思ったのですが、予想以上に自分の知識不足が露呈されたので、今日は書けず、どうしようかと思ったところで、本屋で本書を見つけたので読みました。
book designed by akihito sumiyoshi + fake graphics ヤンマガ'19年4・5合併号、7号、10号、13号、15号、17号、21号、24号、26号掲載。
巻末に作者のプロダクション?名とスタッフ、スペシャルサンクス一覧がありますが、作者のスタジオ含め、株式会社になってるのが三つもある。0円起業出来た時代もあったわけですが、今もそうなのかな。資料提供が共同通信イメージズというところで、どこから画像を持ってきたかで作者も編集者もヒヤヒヤしなくて済むようになってるのかなあと。次巻予告は実に花沢健吾っぽい絵柄のキャラが描いてありました。その後ろのページが『たかが黄昏れ』一巻の告知で、こっちはまだ二巻出てないんだなと。
これだけスタッフがいるのでそうなるのか、頁29下のコマなど、花沢健吾っぽくない人物画だと思いました。フツーに絵を描くだけだと、この角度からよく描こうと思うなと思いますが、カメラを鴨居にセットして、そこに映った人物を絵に起こすのならこうなるかなと。
全然関係ないけどこの主人公、10代の設定ですが、知人の、女がいないと生きていけない40代男性に似てます。向こうから寄ってくるように見せかけて、水面下でものすごい水かきしてる男性。不眠症。で、捨てるスピードもすごい。
で、このまんが、格闘シーンを細かく書き込んでゆく漫画だなと改めて思いました。佐々魔元一等忍尉はあの腹で動いて、スタミナが切れないのが意外。ロシア語は、忍者が"ниндзя"であること以外分かりませんでした。グーグル翻訳でも同じスペル。
頁84あたり。思弁SFということばを知らなかったので検索しました。これで食えるものなのか。
半村良の伝奇ロマンとは違うんでしょうか。違うんだろうな。ディックの歴史改変ものとかを指すのか。名もなき忍者たちも皆、スラダン的に「歴史に名を残せ/刻め」たいと思っているんですね。20世紀後半から21世紀前半にかけての人類の心情かも。死んだあと誰からも忘れられるのは寂しすぎる。でも墓すら守りはいない。せめてブログでも(笑)
今のヤンマガって、デジタルデバイドの問題もあるのか、相当殺伐としてる印象があって、この漫画も、小学生が出ればDV、高校生が出れば不登校、単身中年が出れば母親からの仕送りと、判で押したように荒涼としてるのですが、青年漫画誌はそも少年漫画誌から分家したもので、マンガ誌は、セルフィッシュな苦悩に満ちた文芸誌とは何か決別して、ここでない何処か明るい未来、スカッとする爽快感を描かなければならなかったはずで、上忍がアポ電強盗を瞬殺しまくる場面が出た時、そうだよなーせっかく忍者なんだから、桐野夏生みたいに陰惨な現実に立ち向かえないとかばっかでなく、超人的なフィジカルを駆使して惡をやっつける場面がないとダメだよ、と思いました。しかしこのカタルシスは漫画中年より上の世代しか持ちえないものかもしれず、若い世代はもっと簡単な解決や簡単なカタルシスでないとだめなのかもしれない、だったらいやだなあと思いました。
帯裏。スケボーに乗った猫のカットは、本編で見た記憶なし。マスクしきれなかった。帯表は絵がいっぱいあるので載せません。左下の女性が再度出なかったら笑います。
たぶんこの漫画も思わせぶりな大量の謎を次から次へと垂れ流して、半分も回収せずいい雰囲気でおわるんではないかと予言しますが、主人公が何故アパートの敷地内から出れないのか、それは早晩明らかにしてほしいと思います。意味が分からないので。以上