『私は生まれる見知らぬ大地で』(角川文庫)読了

 積ん読シリーズ カバーデザイン 松岡史恵 カバーイラスト 山田勝誉

1997年に同社刊行の上下巻単行本をカドカワ文庫化。巻末に訳者あとがき。 

私は生まれる見知らぬ大地で (角川文庫)

私は生まれる見知らぬ大地で (角川文庫)

 

 エイミ・タン - Wikipedia

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原題は上記"The Hundred Secret Senses" だいぶ離れた邦題をつけてます。同じ訳者による前二作は、『ジョイ・ラック・クラブ』『キッチン・ゴッズ・ワイフ』と、原題をそのままカナで書いてるのに、突然の路線転換。前二作とか、その映画とか、読んで観てるはずなんですが、思い出せません。文庫本を整理してたら出てきた、ブッコフ百均本。百均なんだな…

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オリヴィアはサンフランシスコで生まれ育った中国系アメリカ人。六歳のとき、中国から十二歳年上の異母姉クワンがやって来る。幽霊と話せるという彼女に夜ごと前世の物語を聞かされて育ったオリヴィアは、信じないつもりでいても、クワンの考え方に強く影響されていく。大人になったオリヴィアは、死別した恋人にこだわりつづける夫を信じることができず、離婚を決意しようとしていた。だが、そこには時を越えた不思議な力が隠されていた…。ノスタルジアを越えて永遠の愛を描いた女の大河ロマン。

上記の文章は、カバー裏を目視で手打ち入力したものでなく、同文のアマゾン商品内容をコピりました。作者の漢語名は譚恩美だそうで、譚璐美と一字違い。韓国なら族譜がどうのという話になるかもしれませんが、中国ではそういうものは明とかの頃にもう廃れていったように記憶しています。広いので。

中国移民の両親(父はバプテスト教会の牧師)のもとに生まれた作者ですが、本書ではそれをまず分割してるように感じます。白人の母が、中国系の男性と結婚することで自らのリベラルをともすると強調するような環境で生まれた主人公と、その中国系の男性が共産中国に遺してきた先妻との子どもを、男性の死後、えっらい苦労してアメリカに呼び寄せて、それが姉。18歳まで大陸にいたので、もうそこで人格形成は完璧に出来ていて、中国人としてブレてない姉と、ダブルの妹。ふたりに価値観や考え方を分けて考えることで、自在に伝統中國とアメリカンのあいだを行き来出来るようになります。

さらに言えば、小説は、姉の前世、太平天国末期に故郷の桂林近隣で生きる女性の物語とクロスオーバーします。姉は「陰の人」と呼ばれる死者と会話が出来る人だそうで、つまりただの中国人ではないし、共産中国人でもないという…文革直前に中共脱出成功。台湾ならタンキーとかになるのかな。そうした重層的な構造で何を解き明かそうかというと、妹の白人ステディとの冷え切った夫婦関係の有り方とか未来。過去への遡行してみたり、夢を見たり。

訳者あとがき

 ところで、エィミ・タンの小説の翻訳にいつもつきまとう難題がある。中国の人名や言葉がアルファベットで表記されていることだ。もちろん英語の説明がついているので意味はわかるのだが、カタカナ表記する場合に北京語と広東語のどちらに統一すべきか悩んでしまう。今までの二作品は北京語の発音に統一したが、今回はアルファベット表記の中国語を漢字に変換して北京語のルビをふる、という画期的な方法をとることができた。これが実現できたのは、中国人作家の葉青ようせいさんに全面的に助けていただいたおかげである。彼女は陳凱歌監督の『花の影』の小説版を手がけたほか、著書『螢降る惑星』などでご存じの方も多いだろう。

この後葉青女史や角川の編集さんへの謝辞へ続きます。中国の舞台が広東語圏でありながら普通話も比較的普及してるであろう桂林近郊で、前世が客家だったりするので、このルビの振り方がどこまで画期的か、私はよく分からないです。前世の姉の名前の「ヌヌムー」は、巫呪に関連することばで、たぶん地元の方言だと思うので、葉青(ウィキペディアはない)さんにも翻訳不可能なので「ヌヌムー」なんだと思います。あとは、頁34、陰嚢がインナンとか、頁239、脚板皮ジャオバンピー(訳注 足の裏の皮のこと)とか、そういう北京語。故郷の地名がチャンミェンで、近くの街がジンティエンで、漢字表記はないのですが、北京語と思いました。頁351に、チャンミェンは"唱绵"もしくは"長眠"と説明があります。地元でも避けられてる黄泉の世界への入口の村だとか(あんまりおどろおどろしい描写はないですが)ジンティエンは、"今天"としか思えないのですが、そんな地名はまさかないだろうと。

頁122、死者と会話出来る姉に、妹がアメリカのこっくりさんであるウィジャ・ボードを送って、母のボーイフレンドであるその時の義父にたしなめられる場面があります。実は私はここを読んでいて、英語版こっくりさんをまだ英語がままならない一世に贈ることが意地悪で、アメリカの良心に反するという価値観がよく分かりませんでした。姉のクワンもそこはチンプンカンプンだったようで、喜んでいます。

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その姉は、妹の名前「オリヴィア」をうまく発音できず、「リビア」と呼びます。

頁33

トマト・ジュースのリビーでもない。ムアマール・クァダフィの国リビアだ。(中略)「ア」の部分がいちばん嫌だ。中国語で「ちょっと」と言うのと一緒だから。「ちょっとリビー、こっちにおいで」みたいに。(後略)

カーネルカダフィの国と注記しなかったのは何故だろうと思いました。

頁340、姉は禁酒主義の女王だそうで、その彼女が、くにの村でアメリカ人たちにふるまう酒が、「ピックル・マウス・ワイン」ねずみを漬け込んだ酒だとかで、私は飲んだことないです。検索すると、まあ、中国人も、"廣東特產「鼠仔酒」 你敢喝嗎?"てな具合でした。

頁349、姉が百年前の宣教師の話をするくだりで脱線して、めん類を発明したのはイタリア人でなく中国人、数字のゼロを発明したのも中国人、と言い出す場面。なぜここにそんな長広舌が入ってるのか分かりませんでした。頁364、故郷の村で、姉妹の子どもの頃の写真を知己親族と見る場面。アメリカのお誕生日会の帽子を、「反動分子を懲らしめる帽子」と地元の人が間違えていて、'90年代でもまだ広西の農村はこうなのかどうか悩みました。桂林の近くでこれはないんじゃいかと。

頁410、姉が、妹に、不可思議なさまざまなことを説明する場面。わざわざことわりがきして、彼女の母語である広東語と客家語でなく、北京語で語りかけます。成長後に姉は北京語と英語を後天的に学ぶわけですが、ロジカルな思考を言語化する際に選択する言語が北京語であることが分かります。まーそんなもんなんだろうなーと思いました。私のこの文章は、あまり論理的でない気配が濃厚で。

葉青という方の日本語小説は知らなかったので、読んでみます。劉燕子や毛丹青、楊逸、いろんな人がいて、葉青さんもいると。以上