台湾にポテヒという人形劇があることは知ってますが、一度も見たことありまへん。私は大陸中国で人間の役者が演じる京劇昆劇川劇越劇をそれぞれ一度見て、せりふが分からないのであまり楽しめずすごすご退散するという行為を繰り返してきた人間です。なので、この映画も、どうだかなあと思って観たら、瓢箪から駒みたいな感じでとてもいい映画でした。越劇なんか、窓口のオバハンに、アンタら台詞分かんのと笑われましたですよ。実際分からないし。川劇は横浜で見て、これは変面が面白かった。アクロバチックでしたし。
父から受け継いだ赤い小箱の中には、戯劇の神さまがいる 候孝賢監督の常連俳優で布袋戯の巨匠・李天禄の息子・陳錫煌を台湾ドキュメンタリー映画界の巨匠・楊力州が迫った注目作!!
何故に厚木で二週上映したかつらつら考えるに、厚木にもさがみ人形芝居という伝統芸能があって、響き合う何かが得られると考えたからではないかと。五人しか観客はいませんでしたが(そのうち一人は白人男性)、後ろで立ち見してるスーツの関係者が何故か三人もいた。併せて八人。
邦題はとっつきやすくしすぎた気がします。原題"红紅盒子"は赤い小箱の意味で、中には田都元帥という、東急田園都市線とは何の関係もない神さまの像が入っていて、母方の姓を名乗る李天禄の長男にとって、実在の父以上の父性をそこから得ているというレトリックです。だっから副題がファーダー。
このウィキペディアの写真の右左どちらが監督か分かりませんが、映画の最後に、男は二度生まれる、一度目は母の子宮から、そして二度目は父親との決別、みたいなことを力説するのがこの貌の人だと思うと、ほのぼの、じんわりあったか~い気持ちになってきます(棒
これ、原文が、多分この文章だと思うのですが(各サイト、字幕を目で追って記憶したのをテキトーに再現してるので、差異がある)なんで"啊"がついてるのかが、私自身の永遠のナゾです。
每個男孩一生都要出生兩次啊!一次是從母親的子宮,另外一次是離開父親的國度。
同性婚も認める国タイワンで何故にいまどきこんな男根主義的エディプスコンプレッサーな言い回しをするのかは謎ですが、親子の相克をこう書かざるをえなかったのか、台湾もパラサイトやひきこもり中年が社会問題なのか。いずれにせよ、ナゾの多い映画だ。李天禄劇団〈亦宛然〉は次男の李傳燦が引き継ぐのですが、本ジールーピエン(記録片)には全く登場せず、劇中死んで葬式する場面だけがあります。死後動揺する劇団員たちの多くに顔ボカシが入っていて、劇団のゆくえがその後ようとして知れないので、画像使用許諾がとれなかったのか、伝統文化継承出来なかったハズカシー人々として晒されるのを嫌がったのか。この映画はナゾばかり。
劇場にあったチラシのはずですが、ジャック&ベティのハンコ入り。ジャック&ベティでもチラシとってるので、混ざったかな。この金色の辮髪の小僧さんが、田都(DT)元帥。
下の、たけしが藤竜也主演で撮った映画の出演者みたいなふたりが、リーティエンルー(國語読み)と息子のチェンシーホワン(國語読み)悲情城市の元ヤクザの好々爺、戯夢人生で「シラサギ、シラサギ」と日本製煙草の銘柄を連呼してた老人(若い頃は酔って立ちションばっかする日本軍将校を「汚い」と、田んぼの畦道から突き飛ばす)と同一人物とは思えないくらい若っぽい遊び人風の父で、息子は父親に精(extract)を吸い取られ、若くして老成というか諦念諦観に駆られているような風情。
右上がルーシーとかいう、フランス人のお弟子さん。こういうアジアの伝統芸能は、かっならず白人のお弟子さんがいるものだと。ベンディーレン(本地人)だと、食える食えないの問題があるから、何処かよその世界の高等遊民が継承したほうがおゼゼ的にもよいのかも。ローゼンタールという男性白人のお弟子さんもいて、こないだセシリア・チャン、否、シルヴィア・チャンの映画の脚本書いた日本人俳優の人もそうでしたが、このローゼンタールさんも國語がうまいです。北京語、普通話でなく、國語がうまい。某翻訳者なんかからしたらうらやましいのだろうか。私はうらやましいです。
右下の子供たちは聾唖学校の子たちだと思います。海外公演の観客の、華人の子供たちも登場しますが、この写真は聾唖学校だと思う。海外公演の華人のヨコに、混ざってくるその辺の子は、白人やヒスパニックはいても黒人はいなかった。この映画はラスト数分、ノーカットで聾唖学校向け上演を流します。閩南語のセリフが聞き取れる人が減っているので、映画はサイレント上演のほうを切り取った方がよいという判断か。あとこのように海外展開も踏まえて、セリフに頼らない動きの妙を見せたかったか。
字幕の最初に説明があって、台湾語以外のセリフは<◯◯>で記されています。台湾語とここで言ってるのは、第一のお弟子さんが國語で「ミンナンユィー」と言ってる、閩南語。第二のお弟子さんは客家らしく、台語のセリフ回しに苦戦しています。基本的に國語が<◯◯>で表現されているのですが、北米公演のホテルでのやりとりなど、英語も<◯◯>です。タイ公演は國語通訳のみ。日本での一部観客が期待する、日本語はゼロです。一個も日本語の単語ありませんでしたよ~ん♪ てへぺろせんべろ。
でも、台湾語のセリフでも、私が聞き取れたのは「グワンジョン」(观众=観衆)一個だけでしたが、北京語≒國語のボキャブラリーが、他にも混ざっていたかもしれません。李天禄劇団〈亦宛然〉なんか、國語会話の中では「イーワンラン」とルビが振られ、台語会話の中では「イッワンレン」とルビが振られていて、こまけーなー、サスガ、と思いました。逝去した継承者である弟の李傳燦は、リーツワンリャンとルビが振られていて、これは倦舌音をより明確に出す大陸のアナウンサー式はっちょんなら、リージュワンリャンとルビを振ると思います。楽師の、朱青松という名前でいいのかな、その方のルビが、台湾語なのですが、ツーチンションとなっていて、松は北京語だとソンですが、台湾語だとションになるのかと、ひとつ賢くなった気がしました。
台湾版預告片だと、手の細かい動きがよりよく分かります。公式のコメントに一青窈が書いていて、幼少時台北でしょっちゅう見て、ありふれていたポテヒが、大人になったらあたりから消えていて、えーみたいに書いていて、関係ないのですが、元住吉の川崎市国際交流センターに行った時、図書室に一青窈のお姉さんのエッセーが置いてあって、人格形成期前に来日した妹は葛藤もなくすんなり日本社会に溶け込んだが、既に人格形成の済んでいた自分は来日後それなりに苦労した、と書いていて、フーンと思ったのですが、それは閑話休題。布袋戯と書いて台湾語ふうカタカナでポテヒと読むのでなく、國語で<ブーダイシー>と読む場面が多いだけでも、私にとってはこの映画は画期的でした。
で、私も、別に台湾でポテヒ衰退してないと思っていたので、この映画で、継承者難で消滅の危機とかバンバン言ってるので、なら、「台湾、街かどの人形劇」なんてヌルいタイトルでなく、ケサル王映画の「最後の語り部たち」みたく、「台湾、最後の布袋戯操儡師たち」としたほうが、今見とかないともう見れへんで、ソンやでぇ、みたいな物見高い人が大挙して来るだろうので、観客動員上とてもよいのではないかと思いました。なんでこんな平板なタイトルにしたんだろう。
確かに、中華民國の振興中華、正統中華時代に、ポテヒに國語が強制され、台湾語で演じることが禁止された時代もあったそうですが、それが即衰退につながってるとも思えず。
https://www.bilibili.com/video/av14709211/?spm_id_from=333.788.videocard.1
上は國語布袋戯のヒーロー「中国强」の主題歌。どういうアレか分かりませんが、つべでは見つかりませんでした。史艶文というヒロインが窮地に陥ると助けに来るそうですが、検索すると、そう単純なものでもないようで。だいたいこの時代、じゃあ台湾が中華人民共和国だったらとすると、文革期がありますので、ポテヒもオール白毛女一色になってたんじゃいかと。白毛女白毛女白毛女バイマオニュィバイマオニュィバイマオニュィバイマオニュィ。「幸福路のチー」(未見)もそうですが、強制されたにせよ、國語世代はもう後戻り出来ないわけで、同族なので、ケサル王みたいに、中国共産党(この場合は國民黨?)による弾圧を声高に叫べばいいってもんでもないだろうと。だから、この映画は、滅びゆくポテヒへの哀悼の念、みたいなムードは出せても、それをシリアスに描くことにはためらいがある。躊躇がある。
なんとなくアレですね、インドシナ難民定住化についてのセミナーに行くと、当事者が講演で、本国政府と今は良好な関係を保っているので、「難民」と云うと大使館が気を悪くするから、あまり言わない、みたいな心理に似てるのかどうか。
陳錫煌さんは、父が叩いて教える時代の人だったからか、叩かない人なんだそうで、しかし一番弟子さんとの歳の差を考えても、叩く時代もあったんではないかと。そしてその時代のお弟子さんは、チリ交列伝のように、みな商売替えをしたのか。あるいは。
そもそも私がポテヒ衰退してないと思ってたのは、モーニングで下記のようなニトロプラス原作ポテヒの漫画をやってたのを見てたりしたから。大人気だっていうのに、どこが衰退かと。
Thunderbolt Fantasy 東離劍遊紀(1) (モーニングコミックス)
- 作者:虚淵玄(ニトロプラス),佐久間結衣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2016/09/23
- メディア: Kindle版
この映画公式にもニトロプラスという人(検索してないので、どういう人か知りません)のコメントが載ってますが、こういうのがあって、どこが衰退かと。
しかし、映画を見ると、こういうテレビ向けポテヒは、國語台語とかいう話でなく、そもそも動きが人形術師の手わざでなく、クレイアニメというか、CGなんですね。スーパー歌舞伎と歌舞伎以上に差が大きい。映画の中でも、「人間はあんな動きしない」という陳錫煌の呆れたようなセリフがあります。NHKが「笛吹童子」「紅孔雀」「三国志」を今でも続けていたらこうなっていたのか。プリンプリン物語。わたしーのーそーこーくー。ルチ将軍。ヒゲよさらば。
じゃー、伝統ポテヒ、武松打虎とか那坨太子とか西遊記とかは、日本の人形浄瑠璃や文楽のように、文化財として文部省的なところがお金出して保護すればいいじゃん、というと、そこもまた、助成金の少なさを声高に言うと、身内の恥、台湾の恥を海外に曝すことになってしまうという…
ポテヒもユネスコ無形文化遺産、世界遺産とかを狙ってゲット出来る実力はあると思うんですが、やってないのか、ゲットしてこうなってるのか、どうか。この映画でも、國語化した台北がダメで、台南高雄だといいかというと、逆に南部は壊滅状態だ、みたいな、信長の野望的セリフが飛び出したりしています。
最後、字幕に、なんの役付けのないその他大勢のなかに、ウェイダーション(魏徳聖)の名前があったのですが、なんかしてたのか。他にもいたかもしれませんが、気づきませんでした。ホウシャオシエン監修は、エンドロールでやっと気づきました。戯夢人生。字幕の「亨菲」という人に、「フェイ」とルビが振ってあったのですが、誰なら。もう一人の日本名の方とともに、字幕が力作だったと思います。素晴らしい。
台湾語以外に<>をつける字幕で、台湾語は<>なしの字幕なのですが、李天禄は一貫してリーティエンルー、陳錫煌チェンシーホワンと、ふたりの名前が出る場面は一貫して國語ばかりで、???と思っていたのですが、これがこの映画最大の仕掛けで(略)リテンロッ(略)陳と書いて「ダン」(略)怒濤の攻撃で、一気にカタルシスが来ます。これが素晴らしかった。
以上