東京難民事件 (集英社): 1990|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
カバー・中渡治孝 扉写真=西村昭廣 1983年三省堂から書下し単行本刊。文庫化にあたり、あとがきを文庫のための前がき「私流開国論・一九九〇」とするなど、若干手入れしたとのこと。
これもアマロー師の本で、表紙は、例の髪の生え方によって出来る人出来ない人にわかれる髪形の男性ではないです。残念閔子騫。
本書の表紙が台湾とタイのパスポートなのは理由があり、撮影した人も難民支援の人のような感じです。入管に面会に行く場面で出て来る人です。本書とアムスの本で著者近影写真撮ってる人も関係者で、パリでカンボジア難民を追っかけてた人で、それで帰国後もそうしたムーヴメントに身を置いてるんだとか。
アムスの本の『72時間の祖国』にも出て来る、本牧の横浜入国者収容所に行ってみようかと思って検索すると、昭和38年か40年に横浜に来て、平成5年に牛久に転居したとかで、跡はどうなってるかな~と検索し出して、「入管 長期収容」なんかでちらっと検索すると、わーという感じで記事が出て、
そんでまあ、今日が入管法改正の国会審議だそうで、偶然読んでるのに、またマンの悪いこと、と思いました。法改正するからと言ってこの日記が「バズる」可能性はゼロですが、アマロー師の本書は冒頭、1976年(サイゴン陥落の翌年)から書き始めてますので、その頃からもういろんなことあってんねやと思いました。
上の、アフロの写真検索結果の、左上の写真(読売新聞社より)の裁判と、それにまつわるほかを中心としたルポルタージュふうの、何かです。本書は。
日付:1980年4月23日
アフロ検索結果右から二つ目には、人権の観点からこの問題に深入りした、上智大学で教鞭をとる帰化日本人の神父、安藤勇さんが写ってます。もともとスペイン人のアンドレアスさんだから安藤(アンジョンファンのアンではなく)で、勇ましく生きよう、ブレイブハートだから勇だとか。
日付:1980年3月13日
下は、昭和56年5月27日の第94回衆議院法務委員会の議事録。小林進委員ちう、たぶん野党の人と、大鷹政府委員と奥野国務大臣の、この裁判絡みのやりとりも収められています。
https://kokkai.ndl.go.jp/simple/dispPDF?minId=109405206X01619810527#page=12
で、この時の焦点は21世紀の難民認定を巡る法改正とはぜんぜん違う話で、当事者たちが、第三国のパスポート持って入ってきてて、そんならそのパスポートの国に庇護を求めりゃいいじゃん、なんで日本なのさという非情のパスポート作戦で、表紙のとおりタイと台湾のパスポートなのですが、タイのは金で買ったやつで、正規だけど実態がない。台湾のパスポートは、中華民国は当時華人だったらだいたい発行してくれて、発行の意図は、
頁255
「彼等にパスポートを発給したのは、あくまでも台湾以外の国へ難民として辿り着けるための便宜を計ったにすぎません」
という杉原千畝作戦の一環で、でもその作戦に日本が最終目的地として絡んでしまうの?という疑問が出る前に、日本は一つの中国として北京を選んだはずなのに、どうしてチャイニーズタイペイの「国」に保護を求めりゃいいじゃん、と言えるわけなのさ、と、外務省と法務省が縦割り行政で違うルールになってるところをズビシ!とついてきて、さらにまた当事者たちが、共産主義はお金を稼げないからヤです、と、反共だから逃げてきたとネトウヨのこころをちょこっとくすぐるようなことを言い、しかし返す言葉で、中華民国だと徴兵制で兵役の義務があるから、戦乱はこりごりなので台湾はカンベン、とか、支援する人権パヨク弁護士サンたちをうれしがらせるようなこともいい、どちらも本音でしょうし、生きるためなのですが、それをまた作者はわりと冷たくて、
頁25
ついに、彼女はこの日本に根を下ろすことはできなかった。(略)当局の頑迷さは、彼女にチャン・メイランとして生きることを許さなかった。ソムシー・セロなる変てこな名前のままで生きていかねばならなかったことは(以下略)
ソムシー・セロというのは、当時の金で約十万円(五百米ドル)払って旅行業者からゲットしたタイのパスポートに記載されている名前で、入管はそれで入国したんだから、まちがいがあったら困るので、彼女はわずか17歳で空路東京に来てアルバイト生活を送るタイ人のソムシー・セロで、ラオス難民じゃナイデスヨ、ということにしたいのですが、変てこってこともないよなと思いました。
当時の国会議事録にも新聞週刊誌にも、本書とそのグループが提唱した、「流民」ということば(もともとは当事者が自分たちをそう呼んでいたそうで)が使われてますが、おそらく中国語の<流氓>(リウマン)に同音忌避で負けたのか、現在では死語と思います。本書では政治難民をレフュジー(レフュージでなくレフュジーと書いてる)とし、経済難民ということばは当時なかったようで、それで「流民」ということばを用いているのですが、なかなか。
頁92
現れた流民を相手に、ボランティアの学生が「日本語教室」を開いた。将来のために日本語を、というのがスローガンだったが、当初は二十名近くいた生徒は、一人減り二人減りして、最後は自然消滅してしまう。教え方にも問題はあったが、それ以上、彼等の心情をつかむことのむずかしさに、その原因があった。
なんか他人事みたいに書いてるなと、とても気にかかり、その思いは読み進むにつれどんどん加速するのですが、同時に、17歳で来日した陳美蘭(チャン・メイラン)が北京語話者で、ラオスのタイ国境のまちパクセーで一家は商売を営んでるが、もとは南ベトナムのチョロン(サイゴンのとなりのチャイナタウン)で商売を営む一族で、母親は広東語話者で、娘とはほとんど会話が通じないという個所で、そんなんあるわけないやろ、パクセーの華僑公学では北京語で授業が行われるとのことですが、だからといって、なんで家庭言語の広東語忘れて学校で習う北京語オンリーになれんねん、周囲の環境はラオ語やから、そこまでその人の人格形成、思考言語に北京語が浸透するのはおかしくないか、と頭がこんぐらがりはじめました。
陳を「チャン」と呼ぶのはアグネス・チャンやケリー・チャンのように広東語で、北京語だと「チェン」です。ホーロー語だと「タン」かなというのは関係ないとして、チャン・メイラン、チャン・メイラン言ってて、陳を「チャン」と読んでる時点で、法廷通訳も、名前は出ませんがNHK中国語会話の人だそうなのに、名前は広東語読み、話す言葉は北京語の矛盾になんで気づかない、どういうことだと思ったです。
パクセーという町もメコン沿いのタイ国境の町だそうで、ここに南ベトナム、サイゴンのとなりのショロンから逃げてくる(たぶん空路でしょう)というのは、それなりに理解出来ます。でも現地のラオス社会に同化はもちろんしてないわけですので、それでラオス人を名乗って固執する意味が分からない。
パクセーのアンド検索単語を見ると、現在は現地邦人がナイトライフを楽しみたいそんなとこなんだなと思いました。ヴィエンチャンよりかなり下流です。
下はパクセーのあるサバンナケットの地理。
サバナケット県における参加型農業振興プロジェクト | 技術協力プロジェクト | 事業・プロジェクト - JICA
で、下がサイゴンのお隣のチャイナタウン、ショロンのウィキペディア。ホーチミン市は、サイゴンとショロンを管轄する上位の呼称です。さいたま市が大宮と浦和と与野を統括するような感じ。
で、ベトナム、サイゴンのチョロンですが、やっぱり検索すると、広東語が強いと出ます。
在越南聚居的華人當中,以廣府人為主,潮州人居次,而客家人和閩南泉漳人則長期處於弱勢地位,故此堤岸城內廣東食肆成行成市,而且區內最通用的主要語言是粵語[3]。
ベトナム華人は特に華族と呼ばれるとか。で、思い出すのが、中公文庫『ベトナム難民少女の10年』のトラン・ゴク・ラン。彼女もチョロンの出身で、なので当然ベトナム華人で、で、ベトナム語では陳はトランになるので、それでトランです。そこから出てラオスに行った少女がチャン・メイランてのが、どうにもへんでならないです。ベトナム語のトランと名乗らないのはラオス国籍になってるからですが、どこかでひとことくらい、「トラン」と書いてもいいじゃいか。ホンマに幼少期ショロン育ちであるならば。
ベトナム難民少女の十年 (中央公論社): 1990|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
頁93に陳美蘭の母親、謝少珍サンがが第五回公判に出廷する場面があります。この人は広西チワン族自治区の北海(裁判でもベイハイ等と漢語で読まず、通訳はホッカイと日本語読みします)出身で香港在住なので、証言は広東語で行われます。シェ・シャオツィンとルビが振られていて、これは娘さんが広東語読みの証言北京語の反対で、名前は北京語読みで証言は広東語です。広東語でよく使う「多謝」はドオジエですから、ジエと読まねばいけないのに、北京語のシェーシェーのシェとルビが振られる。母親自身は1976年香港に不法入国(本書では「請負人」と書かれるブローカー経由)後、難民認定と七年間の特別在留許可を得、それだから日本の裁判にも飛んで来れるという状況で、ほかに長男がフランスに無事逃亡成功していて、で、ここが不思議ですが、共産党が来て商売がダメになったからベトナムからラオスへと転々とした、共産党が憎いと語るわりに、夫の陳錶(チャンピャウ)サンは下の子供たち連れて中国に住んでるんだそうで、その中国が中華民國なのか中华人民共和国なのか分かりませんが、なんか後者だとしたら辻褄あわないようと思いました。そもそも出発点として、1938~9年に抗日戦争の戦乱を避けて出身地の北海からベトナムのハイフォンに逃げたそうですが、日本軍、北海まで来たかなあと最初はふしぎで、しかし検索すると、チャンと南寧攻略作戦してました。ベトナムに逃げたということは、その後仏印進駐でけっきょく日本軍とバッティングするのですが(北越はかなり兵糧供出などで苦しめられたと聞いています)そのくだりの恨み節はありません。
う~ん、検察側は、そもそもその人が母親である証拠がないと発言したりしたそうで、今だったらDNA鑑定してたと思います。
なぞの濁点ボード・ピープル。ボードビリアンなどと混同したのか。私が物語を構築するに、「恐々」「兢々」とタイポをはめた文選工がゲラチェックで、わしが書いたのは「恟々」やろっ!、日本人が日本語間違えんなや、と作者に怒鳴られ、意趣返しでわざと「ボート」を「ボード」にして、気づけへんやろ、ざまあみそらーめん、と舌を出したのではないかと。
あーもうこんな時間です。後報
【後報】
本作は、アマロー師がすばる文学賞をとってから二冊目の著書で、だからなのか、ルポルタージュのお約束の基本のキがないように思います。毎回の法廷の場面など、ほんとにその場に著者がいたんだろうか、誰かのノート、メモを写してるだけじゃなかろうかというくらい、著者の存在が希薄です。著者が業界関係者に読書感想を求めたとしたら、十人中二十人が沢木耕太郎と立花隆の著書をドン、とアマロー師の目の前に置いて、まあ読みなはれ、話はそれからや、と言ってギロリと睨みつけるような気がします。第三回公判の朝は曇り空であったが、私はなぜか、今日のこの日がなんらかのターニングポイントになるような気がしていた、みたいなオカズの文章がまったくないんですね。
頁207に朝日新聞記者と、かつて本牧にあった収容所(現在は牛久に移転)に行く場面があり、珍しくいろいろアマロー師がしゃべるのですが、新聞記者からもらいタバコを平然とふかす描写だけが印象に残ります。ここで、アマロー師は、入管の態度には、東南アジア差別があるのではないかと述べてますが、21世紀には南アジアのスリランカ人で問題が起こってますし、トルコ人男性(クルド人だったかな)などの話もアムネスティ絡みで知ることが出来ますので、東南アジアダカラーというわけでもないのだろうなと思いました。
本書は、インドシナ難民問題に先行してながらく日本の不法入国問題、不法滞在問題のほとんどを占めてきた、朝鮮半島からの人の流入には一切触れてません。そのへん、後発の『じゃぱゆきさん』が、大村で隠語で「みっちゃん」、密入国だからみっちゃんと呼ばれていたと、韓国人をきちんと書いているのと対照的です。
アマロー師は出家後に書いた幻冬舎新書の最新書籍でも、「華僑」とは書くが「華人」と書かないのですが、その姿勢は、本書でも貫かれていて、本書が原点なのだろうかと思ったりします。
頁198
タイの中国系の若者で、中国人の名前を持ち、かつ北京語を自由にあやつれる者など皆無に等しい。いや、ゼロであると断言しても、異議を唱える者はいないだろう。彼女ほどの年齢だと、タイの中国系は華僑の子供もしくはその子孫という意味で、華裔とまで呼ばれ、中国人としての属性は消え入るばかりである。混血は進み、タイ人としてのプライドと郷土愛に目ざめている。私のタイ人の友人は、中国人の両親を持つ男で、台湾へ一年間留学して北京語を学んだが、帰国後はすっかり失念して、今は、ぎこちない手つきで漢字を少しばかり書ける程度だ。タイ文字と漢字の違いは、たとえばひらがなとアルファベットほどの距離がある。つまりタイでは、チューゴクは遠い国なのだ。裁判での経過に加え、タイに関する私の知識と実際の彼女を照らし合せてみると、どこを突っついてみてもタイ人のタの字も出てこないのである。
これだけタイ華人について饒舌に語れるのに、ラオス華人の十代少女が北京語ペラペラなのを毛ほども不思議と思わない、思ったとしても「インドシナ流民と連帯する市民の会」に忖度したのか、何も書かない。へんですよう。ベトナム華人についてもしかり。で、タイ華人についても、ヤジ研等でお馴染みだった、雲南からタイ北部に逃げ込んだアヘンアーミーの中国人兵士はまた違ってて、タイ政府に同化に苦心してたはずですが、そこは書いてません。
このくだりもむなしく、結局彼女は、金で買ったパスポートに書いてあるとおりのタイ国籍のタイ人「ソムシー・セロ」としてなら特別在留許可を出すという司法取引に応じて(頁196)入国管理局収容所の長期収容を解かれ、シャバに出ます。その後、こうした難民たちは、パスポートの国に庇護を求めなさい、それは日本じゃナイデスヨ、との方針に基づいて、収容されるようになっていったとか。
で、台湾中華民國が、杉原千畝作戦で、とりあえず華人っぽかったら、タイ国境の町の在外公館などでバンバン「回台可簽」の一時旅券を発行し、そののちに、国外出国のための七種類の旅券、移民の「台忠」探亲の「台愛」在外華僑と暮らす「台信」コック等特殊技能職「台義」流民の杉原千畝作戦の「台孝」学生の「台仁」のうち「台孝」を使って日本に来た場合、それは日本じゃないデスヨ、ズバリ庇護は中華民國に発生するでしょう、となったそうです。
その台湾が外省人と本省人にわかれて字幕スーパーがないと何が何やらで、ほんまもんのラオス難民にとって異国であると頁256に書かれている(事実上の杉原千畝作戦である旨の台湾僑務委員会の証言も同頁記載)わけですが、ラオス人がそうだからと言って、北京語話者のチャン・メイランや、ビーガンと同じビーさんたちは台湾暮らしにくいかなあ、とは思いました。
チャン・メイランサンのラオス名は、ギンナワン・ウォンタビーだそうで、彼女は十二歳でラオス王族の養女になっているそうです。でも、王族といっしょに暮した実態が、それこそないという。そもそもラオスに王族がいると知りませんでしたので検索し、仏領から独立後、パテト・ラオにほろぼされるまで、二代続いたとのことです。二代というと、イランのパフレヴィー朝と同じくらいの存続期間でしょうか。彼女が養子になったのは、ウィキペディアに日本語の項目がある首相経験者の「ブンウム殿下」の末弟、「チャウ・イアン・ナ・チャンパサック氏」で、本書の裁判当時は、ウボンの難民キャンプにいたそうです。で、二人の関係性をぱっと書類見て把握したのが、ユニセフ・バンコク事務所の長島という報道担当補佐官。この人、のちにベトナム大使館の一等書記官になって、私がラオスに不法入国(オールフランス語&ラオ語で書いてあったので、ビザの入国期限切れに気づかなかった)した時助けてもらった、ような気もします。
有田ほうせいのテレサ・テンの伝記には、テレサ・テンがインドネシアのパスポートとか自在に使いこなして結局捕まったり(入国拒否だったかな)のエピソードが書いてありますが、旅券なんてそんなもんで、まあ、GPSいかしたソフトかつスマートな管理が、コロナ入国でもカルロス・ゴーンでも求められていることには変わりはなく、そこ抜きにゼロワンで、野放し入国か入国拒否かの二者択一で、長期収容ばっかしててもなー、との私の思いは変わりません。
でも、著者は、福建省からの偽装難民という黒船出現以降まで、文庫は1990年刊行ですので、追加してほしかったなーと思います。解説は石川好。ストロベリーロード。日本で山手線で仮眠しながらバイト掛け持ちで不法就労するより、カリフォルニアの青い空を目指せよ、とは書いてません。以上
(2021/6/1)