上の英題は相変わらずグーグル翻訳。カバーイラスト=おおば比呂司 カバーデザイン=池田雄一 解説は小松伸六
この男性が著者に見えてしかたありません。おおば比呂司の遊びかな。
解説を読むと、『昭和おんな仁義』や、『黒幕』『あこがれの人間』『罪な女』『ろくでなしはろくでなし』も読んでみたい気がするのですが、蔵書があるかどうか、よく検索してません。図書館蔵書を検索して、ぱっと目についたのは、ここに書いてません。
解説
戦後間もなくの頃の生活を、新宿紀伊國屋書店店主で粋人作家である田辺茂一氏との対談『作家のうらおもて』(行政通信社)でこう語っている。「学生のころはリルケ、ボードレール、ヴァレリー、ロマン・ローランの『ジャン・クリストフ』、梶井基次郎などを読んだが、そのうちリリカルなものがプチブル的に思え、それを克服しようと思って、いろいろくるってきましてね」。
『病葉の踊り』の黒岩重吾みたいと思いましたが、だいぶ書くものはちがう。
わが国おんな三割安 (徳間書店): 1970|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
徳間書店から1970年出たものを1982年文庫化。その間にも二度ほど出版されているようです。 正直、ストリップものは、別に私がそれを研究しているわけでもないので、もういい気もしてます。読むと面白いのですが、獅子文六と違って、この人は再発見されないかもです。面白いと思うひとが今はスマホで課金ゲームやってる気瓦斯。上の左頁は頁78。
頁197「あら、学生さん、遠慮しなくていいわ、触りたいンなら、もっとお触りよ」なんて、山手線と思われる混んだ国電で、和装のこまたの切れ上がった女性がからかう場面はよかったですが、これは、時代。今なら、鉄道警察に突き出した上で、撮影送信の有無をチェックするのかな。各話タイトルは「美少女ぽち」「名器まめ子」「あおかん星子」「いただき初子」「またたび笠子」「さかまき万子」「ちゃりんこ浮子」「あれあれ幾代」「ぽち、結婚しなよ」で、おのおのの説明は後報します。最後の話のタイトルが、ジャニー某さんのよう。
各話の人物の周りに、レギュラー陣がいて、すごいおしゃべりな少女歌劇上がりのベテランや、広瀬錫のなかに職場のオナクラクンを入れたような人物(ちがいますが)や、事務所を切り盛りする、二十歳程としの違う夫妻(男性の持ち家が新宿の、再開発前のごみごみしたところにあって、バラック時代に、木材を地方から運び込んで25坪ほどのところに頑張って作った)が出ます。初期は関係のあるヤクザも出るのですが、段々出なくなります。かわりに医者や、ゴト師の親玉みたいのが出る。フィリピンは東南アジアというよりラテンアメリカでとらえたほうがいいとはいいますが、中絶が可能な社会だったら、女性の負担等から、やっぱり社会全体の発展も変わっていただろうなと思ったり、自分のことを考えてみたり。
頁96 あおかん星子
「星子!」
板ばりのたたきで、竜子が、胸いっぱいになって声をかけると、それでやっと星子は竜子に気がついた。
ぱっと蘇ったようになり、
「かあさん」
と感極まった声で叫ぶと、ばたばたと竜子のほうへ、もがくように這ってきて、そこで両掌をついて、もう涙を流しながら、
「かあさん、かあさんの顔へ泥をぬって、すみません」
心をしぼりだすような声で詫びだした。唇も頬っぺたも、ぶるぶるふるえている。それで竜子は、篠乃崎でのことをすぐ思いだした。星子は、きっとまた追い出されると、ただただおびえていたにちがいない。
「なに言ってんだい、さあ、帰るンだよ。なにもわるいことしたわけじゃないだろ。さあ、荷物もっておいで」
とたんに、うわあんと大声をあげて星子は泣きだし、竜子の首っ玉へかじりついてきた。照れて竜子は、
「星子、かあさんの一張羅だよ」
と恰好よくいこうとしたが、中途で、涙声にころりとなってしまった。たとえ一張羅がしみだらけになろうと、これが竜子の倖せいっぱいの時なのである。
あおかんでタイーホされた女性を警察署から受けだす場面。母さんといっても、職場の話なので、十歳前後しか年はちがいません。作者は人情芝居や漫才の脚本台本もやってたのかと思うくらい、こういう場面が決まります。夫婦漫才など、後半のルーティンです。今は、関西なら、吉本新喜劇をテレビで見れば、まだ容易にこういう場面が見れますが、それ以外、関東などでは、あんましプッシュ型の情報を受け取れないかな。自分で探すのなら、つべにいくらでもありそうですが、探さない気瓦斯。
下の、ドサ回り巡業の話は、どっかで読んだ気もします。とてもよく出来ているので、同じシチュで別の人も使ったり、いつか伝説として事実化したのかもしれない。でもこの場面は、ほかにはさすがにないです。こういう場面を挿入出来るのが、腕なのでしょう。旅先で車中泊から目が覚める場面。
頁170 またたび笠子
こんな月をみるのは、生まれてはじめてだった。
山の奥での月はきれいだったが、 ただの一度も泣かずに笠子はつきを仰いだためしがなかった。それから東京へきたあとは、もっとひどかった。つきをみてると、むしょうにかなしくなるばかりで、だんだん月をみなくなってしまった。月にはもう人間が行くようになり、ただの土くれにすぎなくなったのに、笠子は、月の光に誘われてふらふらと起きだした。そっとバスから下り、海辺の松の林までさまよい出た。
そこから海の上の月の光の帯のような道を眺めていると、笠子は、いまが一生でいちばん幸せなときにちがいない気がした。
まがりなりにも自分の家が出来たのだし、人が好い照夫もいた。
このままこの光の道をすたすた歩いていけば、必ず天国にいける気がした。
ほんとうにそんな気がした。
以上
【後報】
職場のオナクラクンに、「昨日広瀬錫のなかにオナクラクンが入ったような小説読んで、おもしろかったですよ」と言ったら、「なんて名前の小説ですか、読んでみたいです」と言われ、さすがに、小田原の板橋で、養父から、ここまで育ててあげた恩返しをしなさいと以下略を皮切りに、石原慎太郎の小説的な見目良い残酷な良家のおぼっちゃんや、ヒモ青年が、いれかわりたちかわり、とか、そういうことを言えるわけもなく、「昔の小説だから、今はもう古いかもよアハハ」とか言って、ごまかしました。トホホ。
この小説は、酒や薬物はさほど出ませんが、盗癖が出ます。そして、掏摸の隠語として「チャリンコ」という言い方が出て、それは知らなかったので、自転車以外にそんな意味もあるんだと思いました。
(2021/7/15)