これも、相鉄瓦版 第270号 特集:相鉄線沿線 文学さんぽ「小説でめぐるヨコハマ」アナウンサー・ライター 北村浩子 に出てくる小説です。
読んだのは単行本ですが、表紙はおんなし。文庫本はタイトルヨコ書き、単行本はタテ書き、の違いだけ。装丁 山田満明 装画 ワタナベケンイチ
初出は田村セツコが毎号表紙の小学館の文芸誌「きらら」で、2011年11月号から2012年8月号連載『津々見勘太郎』と、2012年12月号~2013年9月号『そびえ立つ大路の松』を、大幅加筆修正して再構成して単行本化したとか。別にくっつけなくてもよかったと思うのですが、大人の事情なのでしょうか。連載は読んでませんが、パーツごとの感想として、『津々見勘太郎』部分は西村賢太の北町寛太ものを彷彿とさせますし、『そびえ立つ~』は、川上健一『雨鱒の川』テイストだと思います。何故味わいが違うものを統合しようとしたのか。糖質ゼロ。新宿西口の「けむり」というキーワードで括れるものがたりを紡ぎたかったみたいなインタビューを下記読みましたが、新宿西口のそれって、ずばり、バス放火事件じゃないのかって気がします。
あれであやしいひとには絶対石油売らなくなったと勝手に思い込んでいたので、京兄事件には大層驚いたわけですが、閑話休題。執筆中に東日本大震災が起こって、それが作品の方向性にもだいぶ影響を及ぼした、ようで、なんか、悪い方向にドライブした感があります。どうもね。ゼータガンダムのカミーユって主人公は、最後、イデオンのフォルモッサ・シェリルみたいになるそうですが、そういうオチはいりま千円。
検索で出た写真は、けっこうゴツいオッサンでした。
たった八件のレビューなのですが、このように褒貶がハッキリ分かれてると、万人向けの作品ではないのだなと改めて思います。どうにも破綻している。『ピアノの森』の一色まことは、かって小学館では原稿落とす常連でありながら新連載をつぎつぎさせてもらえる謎の人物だったわけですが、それが講談社で『ピアノの森』をちゃんと完結させてもらえてよかったなあ、くらいの知識しか音楽方面にはありませんので、本書の、音楽関連の場面についてはそれくらいの感想です。のだめは読んでません。あっ、あと、私は映画のアマデウス見てますが、砂川しげひさ(故人)が音楽古典コテンで、この映画はあまりにサリエリを無能に描きすぎてる、サリエリだって実際にはいい曲それなりに書いてるのに、こういうストーリーの都合にあわせた歴史改変は許さん、みたいな評を書いたのも読んだデス。
というか、この時代だとDATとかMDだと思うのですが、誰も演奏録音しなかったのだろうかと不思議です。楽譜が燃えてまったのは分かりますが、生録がない理由が分からない。本書はこういう穴があちこちにあるので、それで、読んでてどうも、はにゃーとなります。
いちばん分かりやすい「説明」は、島崎哲は津々見勘太郎の別人格で、二人は同一人物、です。音楽家の家系で挫折した、という当初の設定が後半ウソのように活かされませんし、小学校の同級生との初恋もまるで伏線にならない。だいたいいつ小説家になったのかさっぱり経緯が書かれないので不明。ゆえに、勘太郎の脳内妄想で、いもしない人物にせっせと医療刑務所から手紙を書き送っているという設定なら、理解出来るし、悲惨な結末も、うなづける。
与謝野樹里亜の強烈なキャラクターが悪で、永沢小梅(小海コウミが正しいらしいのですが、サンズイより木偏のウメのほうが人名として自然なので、この人が出てくると脳内変換してコウメと読んでました)が善のように見えますが、それは、小学校からホモソーシャルな設定で物語を書き進めてきたことから起こる齟齬で、ナガサワサンだって、勘太郎との付き合いを何故か周囲に秘密にするよう勘太郎に要求するし(当時の流行語の「キープ君」として勘太郎をあしらってるのかと思いました)せった君に一目ぼれするや否や、北島先生にせった君とはどういう関係なのか面と向かって問いただしたり(頁210)、勘太郎君にハッキリ別れを告げるでもなく、いきなり大学を退学してしまう。かなりエキセントリックです。私の職場のオナクラクンは初体験が15歳だそうで、永沢さんみたいな女性が相手だったのだろうかと思いました。オナクラクンは天才ではありませんが、ふいんきは、似てるかもです。彼女の結末は、そういう女性に対するマッチョな作者のロジカルな帰結なのですが、でもこれ、安直だ、です。
書いてないけど、作者が切り盛りしてたシモキタの店なら、こういう展開の時、スリクでおかしくなった可能性も考慮すると思うのですが、どうだろ。危険ドラッグが、合法ドラッグなどと、噴飯ものの名前で呼ばれていた時代ですし。青春ダイナマイトスキャンダルなみにごまかしてはいけない。
あえて津々見勘太郎の最初の手紙など、聞きかじりの難しい単語を並べていて、悪い印象を強く書いてますが、同タイプの青年は多いと思います。五十歩百歩。やけに津々見の肩を持つと言われそうなので、ついでに書くと、彼は女性をイカせるテクに関しては抜きんでたものがあったようなので、AV男優の道を目指してもよかったかもしれません。そんな甘いものでなくまたもや挫折して、作品だけが残る。
それから、本書は、バブル時代の自分探しがうんざりするほど出ますので、ロスジェネ世代とか就職氷河期の人の中には、読んでて苦虫を噛み潰したような気持になる人もいるかもしれません。全員内定の場面など、あくまで時代の軌跡でしかないのですが、それなら、勘太郎君も派遣雇用を経験して見たり、あるいは、バブル期でも中小は安月給だったという事実や、サビ残が当たり前だった時代から、ブラック企業という呼称がにおいたつまでの価値観の変遷も書き込めばよかったと思います。
頁171、せった君の父親が、新潟の柏崎原発視察中に体調不良で倒れる場面、なんで柏崎なのと思いました。
せった君のお兄さんが、葬儀の際、島崎哲に、雪踏家との絶縁を告げた理由も私にはさっぱり分からず、かろうじて、島崎哲は津々見勘太郎の別人格でしか説明がつかないと思いました。夏彦氏は後日法廷で会うであろう津々見勘太郎が葬儀にあらわれたので、裁判員裁判で裁判員への心証をよくしようとする戦術と考え、お引き取りを強く言ったのではないかと。あと、横浜の、金持ち子弟が通う私立のバカ高校でイニシャル「T」ってどこだろうと思いました。抜いても抜いてもたちバナ…、否、桐光学院、否、どこでしょうか。「検索すれば分かるんじゃないスカ」と言われたので検索しましたが、分かりませんでした。
本書の地名、ドカベンスタジアムの桜が丘は別にいいですし、固く張ったパイオツの与謝野樹里亜嬢の二俣川はまったく描写がないのでこれもどうでもいいですし、横浜駅東口地下街の書店も思いつかないのでいいのですが、藤沢と鎌倉の距離感として、あいだに大船が挟まってこそ、という感覚がないのが多少残念でした。行政的には大船は鎌倉に属しますが、京都の桂みたいなもんで、べっこと考えたほうがしっくり来ます。JRであれば、その大船を経ないと藤沢に行けないので、江の島が出ないのはどうでもいいですが、大船出せばいいのにと思いました。鎌倉の銭湯は大船にあります。
以上