店の前に貼紙があったので、食事ついでに買った本。
帯の左部分は人物写真です。そこまではここには出さへんだ。
カバーデザイン 川村香奈子
書籍詳細:私とティアンとイーサン食堂 | 書籍案内 | 文芸社
1989年の3月。スキーばかりしていて将来の目標もなかった私は、大学卒業を前にして、東南アジア放浪へ旅立った。その後、シドニーで日本食レストランや免税店などで働くうちに、さまざまな国の仲間と知り合い、夢を見つける。そしてタイ人のティアンと出会い……。神奈川県でタイ料理店を経営して28年の著者が軽快な筆致で明かす、「イーサン食堂」開店までと、それからのお話。
かなり赤裸々な本で、吃驚しました。元カノの話から自伝を始めていいのは、富野由悠季だけかと。在日タイ人界にもじょうほうがツーカーになるよう、タイ語版は出さないのか尋ねましたが、今のところ出す予定はないそうです。『インド夫婦茶碗』や『トルコで私も考えた』は内容がパートナーに全開に近いと思いますが、本書はそうではなさそうなので、筒抜けになったその時には、『中国嫁日記』の存在がゲツにばれた時に似た事態が起こる可能性もゼロではありません。頁71の同姓同性からの評価のくだりなど、数日口きいてくれないかも(私の勝手な妄想です)
しかしそれを補っておおいにあまりあるほど、本書の、街中華ならぬ街エスニック料理店舗の歩み、如何にして斯く歩んで來たか、の記述は魅力的でした。ライフプランシミュレーションの達成。もちろん、書いていない、横道や危機も多数あったのでしょうけれど、書いてないことは知らなくていいこと。
①まず資金稼ぎで、ちば県内陸部の運送業、流通で朝五時半から夜十一時まで働く。一年十ヶ月で走行距離200,000km。ペーパードライバーで始めたが、初日に同僚の車に接触した以外は無事故、荷物紛失等もゼロ。
②次に飲食店のノウハウを得るため、田都周辺で、日本の食品企業がバックのタイ居酒屋チェーンで十ヶ月ほど働く。店長が親企業の正社員で、店長を歴任した飲食業のプロ。棚卸の仕方、月別売上目標の制作、日別の目標、前年比較、広告のやり方、社員アルバイトの管理、税金の仕分けなど、飲食店経営に必要な様々な事柄を学ぶ。
③今の地(南林間)に平成六年(1994年)開業して爾来28年。店が当たる条件「わかもの」「よそもの」「ばかもの」をすべて満たしていたので(頁139)今に至る。開業当時28歳と32歳で、新潟出身大学入学で上京のひとと、タイのひと。ばかものかどうかは知りません。一浪なので、あやのみやと同期なのかな。さーやは学食でカレーばっか食ってたそうですが、それはまた別の話。冒険をおそれない、くらいの意味でしょう。
これだけで、うまくいくわけがないだろう、もっと秘訣があるはず、と思っても、企業秘密ですといなされるのか、それがないんですよ、運です、とはぐらかされるのか。だいたい、どこでタイ料理を学んだのか。その部分は空白です。お店を見てると、手際よくスピーディーにお客に出せるべく下ごしらえされたものや配置が各所に見て取れるのですが、プロのコックを雇った時代もあったとか、そういう記述はありません。自分たちでやれるので、その分コスパはいいですし、味はべつにひけをとらない。いや、前川健一が、タイ料理は宮廷料理も屋台料理も変わらないと言った意味とは別に。そして、名店で修行したとかホテルシェフとかの肩書には、中国で金コネでゲット出来る特級厨師のライセンスを前面に出したレンチン中華にあきあきしてるので、タイは中国のような実態のない特級はいないでしょうが、家族経営の街中華ならぬ街エスニックが非常に新鮮で、その成り立ちや収支バランスという意味で、とても興味深く読みました。
確かに、1994年ごろでしたか、その少し後でしたか、相鉄線沿線など、タイ料理店がない駅がないくらい、そこにもここにもタイ料理店やタイ居酒屋があって、タイ人のチャンネーや、プロダクトオブタイランドの、串に刺す加工をバンコクでやったヤキトリを出したりしてました。今ではどこもベトナム人に取って代わられてるのかもしれませんが、あっちにもこっちにも、タイ人がいた。牧場の農業実習生にも、住み込みのタイ人夫婦がいたり。
今もタイ料理店はあっちこっちにありますが、ホールの日本人スタッフと厨房のタイ人の分業がきれいな店はともかく、客が多くなるとさばけなくなって料理も荒くなるような店は、けっきょくその店のキャパを越える客が来ることはなく、ほそぼそと常連が、パタヤやプーケットの、あるいはバンコクやチェンマイの思い出を思い出しに来るだけで、それでいつか無尽が尽きて畳んでしまうのかなあという店もあります。それではなぁ。
本書を読んで、タイ料理店が過熱した時代のふいんきを、また別の角度、別の視点から見ることが出来ました。代々木のタイフェスティバルや、葛飾のソンクラーンにこっちからわざわざ行くだけでなく、こっちにもそれなりにコミュニティがあって、そのオリジンが、おそらくは定住化センター関連で働き口を得ている永住ラオス人から、バブル期に手が足りなくなって文化の近いイサーンの人間が呼び込まれ、オーバーステイしたりなんだりだった、という理路整然とした説明。
本書の出だしはバックパッカーなので、タイのバックパッカーといえば沈没で(著者は英語の言い方を使いますが、私はその単語知りません)マレーシアなどに出てはまた入る繰り返しで、帰国前の数日程度のオーバーステイならその分罰金払った方がいちいち出入国するより安い、てな感覚の持ち主が多かったのを覚えています。今そういう感覚をネットで開陳しても、ガーとマウント取りに来る人が来そうなのでめんどいから云わない人も多いかと。
さらにいうと、本書の1989年当時の記述で、既にしていっさいがっさいタイに持ってって、老後をタイでという海外年金生活者や(アマロー師の先駆)職人や現場で稼いだ金をタイで使う男たちが登場します。私も、ベトナムでそういう人に会いました。日本で半年ミキサー車ころがして生コン運んで、残りの半年をタイで暮らす人。ただ、毎回の契約のタイ女性がせせっこましくてカネカネカネでいやになったので、ベトナムはすれてないかと思ってベトナムに来たとのことで、ベトナムは当時ドイモイで開いたばかりでしたが、要するに南越では、アメリカ撤退の1975年からの空白が埋まっただけの話で、漢字のない中国ですから、タイのような微笑みの国では考えられないくらい「ユー、ナンバーテン!!!」で手切れ金をバカスカ要求されて、しょげてヤケ酒してました。
それが、後年、就職氷河期から一億総派遣時代に、私も室橋裕和サンのGダイアリーの本などで勉強したのですが、Sierなどがバンコクに来るようになり、私が派遣に行った某ITゼネコンでは、黄金町の川向こうの街のタイ人御用達のディスコなどに詳しい、タイ人の配偶者がいる男性だけで構成される早朝野球のメンバーがいました。その人は、ITゼネコンの派遣では妻子を養えないので、離職して、どこか別のIT関連に飛び込むのかなあと思ってましたが、佐川急便で走って配達する姿を目撃されたそうで、しかし、こうしてはてなブログを見てますと、IT業界で転職しましたっつー記事がいっぱいあるので、宅配便やってる姿は、みまつがいかもしれないです。
本書は柏のH物流という会社とその下請けが登場しますが、そこは、ITゼネコンで展示や据え付けがある際に、結露防止などをしながら運送搬入する人たちという認識で、本書のように、赤帽的業務をしていた時代があったとは知りませんでした。養生とか転倒角とか実に厳密で、よそのIT企業、デルなんかTシャツにGパンのシステムエンジニアの兄ちゃんたちが直接設置作業していて、日本ってITゼネコンだよなあ、と実感してました。それだけ厳格に安全第一に搬入するのに、広報が打ち合わせや手配でミスして、電源200V用意してないとか、L6-30の口径がまちがってL6-20だったり、信じられないことが起こる。ふぁ、ふぁ、ふぁしりてぃー。
その頃よっぱらってお店に来たこともありましたが、ずっと分からなかったのが、タイ東北部は「イサーン」なのに、このお店と、あと、関西の某都市にも「イーサン」を名乗るタイレストランがある(たしか以前のオーナーは神奈川出身)ことで、本書では、「イサーン」だと、同名の店がありそうだから、ひねって「イーサン」にしたとあります。他の店もシンクロニシティで、やはりひねって「イーサン」にしたのか。そして「イサーン」を店名にしたレストランがもしなかったら、とてもおもしろいです(でもたぶん「イサーン」という店はあると思います)
表紙に日本とタイと、そしてオーストラリアがある時点で、えっ、オーストラリア出るんですか、と聞いて、出ます、とのことで、要するにワーホリなのですが、ワーホリ先が韓国人の日本食レストランや爆買い日本人目当ての免税店で、そこも興味深く読みました。私は、本国の韓国人や日本の韓国人とはそんなに軋轢ないのですが、白人の気をどっちがひけるか、どっちが英語うまいかみたいな、白人世界のなかのどんぐりの背比べみたくなったときの、韓国人にはあれ?と思ったことがあります。中国では別に、どっちの漢語がうまいかなんか問題にしませんでした。著者は、マレー華人の名税店オーナーだかの台詞をわざわざ書いて〆ていて、うーん、そこで気づけたから(あと結婚したから)①②③なんだなあと。
お子さんの話は、はらはらしました。よかった。また、観光ビザから配偶者ビザのくだり、たんたんと書いてますが、一度帰国して現地で申請しろ、と入管に言われても、ガンとしてアレで、日本で書類揃えて査証を変更しています。ここはたんたんと事実や、そろえた書類をつらつら書いてます。本書は、日記やメモが残っているのか、かなり随所で記憶鮮明で、勉強になります。
著者は、高校大学とスキー部、体育会系だったそうで、筋トレ魔という感じではないのですが、泉麻人が実は青学サッカー部で上下関係のケジメに厳しい、的なソリッドな感じを持っていて、それが、時としてウェブの口コミであらぬ評価を受けつつ、地元の客は切れない、仮想評価だけ見ていると分からない、リアなんとかワールドで安定した評価を得ているという結果につながっているのだと思います。私も、南林間の住人から、この店の本心からの高評価を聞き、どうとらえたものかと思ってましたが、本書を読んで、人となりを少しばかり知ることが出来、とても納得したです。タイ語版を出すか否かは別の話で、読めてよかったです。以上