『石を放つとき』"A TIME TO SCATTER STONES" AND "THE NIGHT AND THE MUSIC" by LAWRENCE BLOCK 読了

カバー写真 Getty Images カバーデザイン ヤマシタ ツトム

2018年に発表された、マサカの須賀田さんシリーズ新作と、2011年に未発表作2点のボーナストラックを入れて刊行された須賀田さん短編アンソロジーの、合本邦訳。

訳者の田口俊樹さんは、「80歳で3P!」しか言えなくなってるし、単行本なのに堂場瞬一が解説つけてるし、字が大きくて読みやすいし、アンソロジーのほうのローレンス・ブロックあとがきも訳されてるし、ブライアン・コッペルマンという、アメリカのプロデューサーというかディレクターというか制作進行というかの人の序文もついてます。

Brian Koppelman - Wikipedia

ショーランナー - Wikipedia

堂場瞬一さんによると、須賀田さんシリーズはもう四十年選手とのことで、訳者によるとシリーズ(長編?)は17作あるそうです。巻末の二見書房の既刊を見ると15冊で、『暗闇にひとつき』と『八百万の死にざま』はハヤカワ。田村隆一の名にかけても、早川は『八百万の死にざま』を手放さない、かもしれません。

私は、『八百万の死にざま』までの須賀田さんシリーズを、あらかじめある程度進行が決まっていたと考えていましたが、アンソロジーのブロックサンあとがきによると、そうでもないかったようです。失見当、ブラックアウトの時間が巻を追うごとに増大し、酒でしでかす所業もエスカレーションしていき、『八百万の死にざま』でカタストロフを迎える進行が見事だと考えていたのですが、わりと諸事情込みコミの、神の手による産物だったと。まず登場する短編を書き、次に最初の三作は注文があったので何とか書けたが、ペーパーバック冬の時代だったので、『暗闇にひとつき』『八百万の死にざま』を書くまでが大変で、で、『八百万の死にざま』でいったん燃え尽き、ソーバー須賀田さんは、その時点であらかじめ想定していたわけでなく、徐々に、時間をかけて再度、構築していったそうです。十分の一税といったひとり遊びから、分かち合いへ。

それも、私から見ると、ソーバー須賀田さんは、スピーチしたり、ステップコールというか、電話応対のボランティアは時折してますが、サービスはそれくらいで、あとは外野との係わりで生きてきた感じがします。TJとか、ミック・バルーとか、途中から消えますが(死んでて私が忘れてるだけかも)アルピノの黒人で、キンキンに凍らせたウォッカばっかり飲んでる男とか。スポンサーはいたのですが、自身はスポンサーになってません。ないはずです。お酒のミーティングといっても、ニューヨークなので、薬物等さまざまな問題を抱えた人間が集まってきていて、深夜のミーティングなど、「むずかしい」と書いています。詳細は書かれない。エポックメイキングは、スポンサーが須賀田さんと誤認されて銃殺される事件と、アル中でもなんでもない殺人狂のサイコが須賀田さんをつけ狙うためアル中のふりをして自助グループに潜り込んで次々親しい人物を手にかけてゆく、連作さいごの事件。日本では、自助グループは死ぬまで出るもので、本場でもそうかと思ってましたが、

頁342『石を放つとき』

 今でも集まりに出席していることを話すと驚かれる。

です。スポンサーの死後、徐々に、身の回りの人たちとの時間を大切にしてゆくようになっていった、ので、両立させていることに皆驚いた、のかもしれません。というか、誰に話して、驚かれてるんだろう。

ジュリア・ロバーツの薬物依存映画「ベン・イズ・バック」で、アノニマスをいいことに、売人が依存症者を装って新規顧客開拓目的でミーティング会場にいて、終了後の雑談タイムにビギナーをカモろうとする場面がありますが、さすがに須賀田さんシリーズのような、猟奇犯罪目的は現実にはそうそういないかと。個人的には、須賀田さんがスポンサーと会う場所が毎回チャイニーズレストランで、これがさっぱり分かりませんでした。ローレンス・ブロック夫妻自身は親日家だそうで、来日もしてるのですが、なんで毎回チャイニーズレストランだったんだろう。ミステリー不毛の地だった中華圏で、ミステリーが普及する過程で、須賀田さんがスイートサワーポーク食べる場面などが、寄与したのかしてないのか。たまには日本食も食べて欲しかったです。たぶん一回も食べてないはず。

てな具合で、誰もが言いたいことがひとつふたつあるのが須賀田さんシリーズで、訳者も解説者も序文の人も、もう完全にそれなりでした。愛されてる。二見はローレンス・ブロックのほかの作品で、殺し屋ケラーシリーズも出してるそうで、ケラーは少し読みましたが、もうひとつの、怪盗バーニーシリーズは、短編集に入ってるのを読んだくらいで、長編は完全に読んでません。人生お気楽で毎回酒飲みながら仕事する泥棒主人公の話を読んでも仕方ない。

これまでに訳されてる話は、特に新訳をつけたわけでもないようで、むかし読んだなーという読者の思いに寄り添ってるとも言えます。ヘタに新訳で、あれ、と思ったりしない。『バックレイディの死』頁89で、「スペイン系」と書いてるのは、今なら(当時も)ヒスパニックと書くべきではと思いますが、そういうところも特に直さじ。で、次の『夜明けの光の中に』では「ヒスパニック系」と書いていて、特に今回訳語を統一しようといじってないことが分かります。誤記も一箇所そのままでしたが、どこか忘れました。

頁99の「ポート・プリンス」は、マレーシアかどっかの港の旧名かと思いましたが、そうではありませんでした。

ポルトープランス - Wikipedia

頁124、「ピードモント訛り」

ピードモント台地 - Wikipedia

The Piedmont region is known for its dialect's strong influence on Southern American English.

頁135、須賀田さんがどれくらいスペイン語が喋れるかの個所で、「私はマテオと云います」という例文が書いてあるのは、英語のマシューはスペイン語のマテオになるからだと今気が付きました。"Me llamo"と書いてメジャモと読む。同じ個所で、"Y cómo está usted?"(ご機嫌如何ですか?)という文が出るのですが、最初の"y"がついた文章が一個も検索結果に出ません。"¿Cómo está usted?" ばっかし。

『慈悲深い死の天使』はエイズ末期治療の話ですが、「街角の韓国人の花屋で五ドルで売っているような」フリージアという形容があり、ロス暴動のころの(スパイク・リーの"Do the right thing"のころ)韓国人米国進出時期でもあったなと思い出しました。 ウィー、ブラック!

その前の『バットマンを救え!』は、模造品キャラクターグッズ露天商を、著作権保護のためめちゃくちゃにするよう正規業者から依頼された元警官の私立探偵たちがニューヨークを所狭しと暴れまくる話ですが、どういうわけか露天商は仏語圏アフリカのセネガル人ばっかりで、これは日本にはなかった現象もしくはあったけど私が知らない現象ではないかと思いました。あんま仏語圏のネグロアフリカンは日本に来ないと思うのですが、どうでしょう。英語圏のガーナ人やナイジェリア人はそこここにいると思うのですが。

ダヴィデを探して』は『慈悲深い死の天使』と同じ短編集に収録されているので、読んでるはずですが、思い出せません。ボーナストラックの二作は、ミック・バルーの年の差婚と、彼が長年営んできた店を閉める話。何も閉めなくてもと思うのですが、その辺がニューヨークの新陳代謝ということかと。

で、2018年の新作『石を放つとき』ですが、3P自体は特になんということもないのですが(世の中には奇特な人がいるものだとしか)須賀田さんのやり方が、年をとったならとったなりのやり方がある、ではなく、年をとっても、こう工夫すれば若い時と同じやり方でやれる(セックスではなく、暴力の話をしています)という話で、いやいやそれはどうだろう、と思いながら読みました。かつてのように警察内部の協力者から情報をリークしてもらおうとしても、もうみんな鬼籍に入っているとか、ヒザ関節が痛いとか、いろいろ。ニューヨークの風景も、インド人街が幅を利かしていたり、須賀田さんが食べる料理がタイ料理だったり、変わっています。あと、TJのその後が、ちゃんと書かれてません。老齢の須賀田さんが、かつてと同じように聞き込みをしたり張り込みをしたりする場面で、TJがいればと想像し、けれど彼はいまここにいない、その説明が途中でカットされている。

須賀田さんのアルコール依存症者の自助グループは、リーアム・ニーソン主演映画でも「十二の掟」とかがババーンと出て、フリーメイソンクー・クラックス・クランもかくやのおどろおどろしさでしたが(忍者集団でもないのに)今はほんとなんでも自助グループがあって、頻発する児童誘拐・失踪を描いた中国映画を見た時も、子どもをさらわれた親たちの自助グループが出てきましたし、

『最愛の子』(原題:亲見爱的)(英語タイトル:DEAREST)劇場鑑賞 - Stantsiya_Iriya

私が円形脱毛症になった時、治療法を検索したら、患者の自助グループが出てきましたし、

最近『前科者』に出て来た『みんな水の中』という本は、発達障害自助グループの本だそうですし、

天下のハルキ・ムラカミがレイ・カーヴァーやジョン・チーバーの本を訳す時、原文が「AA」の二文字なのに、なんだか分からない訳語にしてた時代から、思えば遠くに来たものです。『石を放つとき』は、元セックス産業従事者の女性クローズド自助グループにまつわる話でした。

旧作の誤植もそのままでしたが、新作もそのままです。頁409。

ひさしぶりに読めて、スポンサーのこととか、いろいろ懐かしかったですが、しかし、今でも昔と同じようにやろうとするのが、アメリカ流老人力ということなのだろうかと、ちょっと驚きました。少しは枯れなはれ。

以上