『僕の昭和史Ⅱ』(講談社文庫)読了

カバー 田村義也
表紙は見てのとおり、ピースです。
二巻は、敗戦から、脊椎カリエス芥川賞、米国留学まで。
寝ますので、あとは後報です。闘病のくだりがとても印象的。
それと、息子が三十過ぎまで半寝たきりで、亭主は元軍人の失業者、
で、家計を支えようと奔走した母が、もはや戦後ではない、
の経済上昇期に、ほっと一息ついて、そのまま認知のやまいが進行するくだり。
やりきれないです。
【後報】
作者は背骨がどんどん悪くなっていくので、なまじな仕事につけず、
そういうところに、米軍接収住宅の空き家屋の管理人として住み込むだけ、
というバブル期でさえありえないほどのオイシイ仕事にありつけ、

頁54
 そんな話をきくと僕は、自分が障子紙を苦労して売り歩いていたことが馬鹿々々しくなった。と同時に、いまのような世の中でも、やりようによっては結構気楽に愉しく暮らす方法もあるものだ、と思った。
「それにしても、アメリカ人は鷹揚なものだなア」
 と、僕が感心してみせると、学生の一人がさえぎって言った。
「いや、そうでもありませんよ。僕らはGHQで雇われているから、給料もGHQが払うんですが、その金は特別調達庁から出てるんだから、結局われわれの税金が廻りまわって僕らの給料になるわけです。アメリカ人が直接自分の金で人を雇うとなったら、そんなにおおらかなことをやるはずはないですよ」

トランプ翁はチビシソーですね。オスプレイ木更津より、
熊谷のほうがよくないですか。なんで内陸にしないんだろう。

頁98
勿論、わが家にはアクチーヴなどいるわけがない。しかし、その発狂したような眼差しを見ただけで、僕には彼がシベリアでどんな生活を送ってきたか、何一つ話をきかなくても充分にわかった。それは理解というより、生理現象として感覚的に伝わってくる何かであった。「社会主義は組織を前提とし、組織は権力を生む。資本主義は人を餓えさせるであろう。しかし社会主義の権力は、人を餓えさせるまでもなく直接殺すことが出来る」そんな意味のことをアランが言っていたが、この言葉を僕は、シベリア帰りの従姉の夫の脅え上った顔つきから、憶い浮かべた。

アクチーヴの意味が分かりませんでしたので検索しましたが、
けっこう草刈り場でした。辞書サイトの怠慢は何を生むか。

Yahoo!知恵袋 2015/1/1422:03:05
シベリア抑留中、アクチブと呼ばれるソ連の回し…
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11140668306

頁98
ふと眼を覚ますと、よく遠くから鉄道線路の音がきこえた。その重おもしい響きは、無言で僕を脅迫した。(とうとうお前は、一生何もせずおわる、仕事にもつかず、結婚もせず、子供もつくらず……)しかし、闇夜にきこえるレールの響きは、或る意味で僕には慰めになった。とにかく、まだおれはいざとなればレールの傍まで(以下略)

作者は梅崎春生からの引用で血のメーデー事件を描写していますが、
Wikipediaのこんにちの記述と全然違います。しかしこのウィキに、
誰も出典が求めたりなんだりしていないのは、弱体化だなあと思います。

血のメーデー事件 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

頁136
 このルポでは、デモ隊の人数がどれぐらいいたか、具体的に書いていないのでよくわからない。おそらくそれは、警官隊の十倍よりは多く、百倍よりは少なかったという程度であったろうか。いずれにしても、当時のデモ隊はヘルメットもゲバ棒も、また石コロなども持っておらず、もっぱら非武装無抵抗の集団であったといえる。一方、警官隊のほうは鉄兜、警棒のほかに催涙ガスや銃砲の用意があった。だから、デモ隊が皇居前広場へ入ろうとするのを、馬場先門のあたりで阻止しようとすればできないことはなかっただろう。
 しかし警官隊は、むしろデモ隊を広場へ導入し、デモ隊が二重橋へ向って押し掛けるのをみたとき、前後からこれを取り囲んで警棒を振るい、ガス弾を発射したらしい。

梅崎春生の『私はみた』原文は、全集見ないとないみたいで、
青空文庫には入ってなかったです。botのつぶやきがありましたが、
安岡章太郎の引用とは別の個所でした。


この後、デモ隊が反撃して、警官隊が分断され、一部撃破。

頁137
 ついに、警官隊はガス弾だけではなく、ピストルも発射した。梅崎氏は最初それをピストルの発射音とは信じなかったが、その信じられないことが実際に起った。ピストルの発射音は、梅崎氏が聞いただけでも、百発は優に越えていたという。当然、病院へ直ぐ運びこまなければならないような重傷者が大勢出たが、彼等の大部分は応急の手当てを受けただけで、芝生や草原の上に血まみれになって横たわったまま、うめき声をあげていた……。やがて、デモ隊の一部は暴徒化して、日比谷公園沿いの道路などに駐車してあった自動車に片っぱしから放火しはじめた。彼等はゲリラ兵や便衣隊の戦法を用いたらしく、一般市民の見まもるなかで自動車を引っくり返しては火をつけ、警官隊がおしよせると、すばやく通行人やヤジ馬の中に潜りこんで姿をくらました。一般市民もむしろ彼等をかばい、《警官隊から守るような傾向が、強くあらわれていた》と梅崎氏も言っているが、市民の協力が得られなければゲリラ戦はたたかえるわけがない。
 こういう一般市民の《傾向》に対して、警官は相当イラ立ったらしく、やたらに警棒を振りまわし、罪もない通行人を殴ったりもした、という。
   私たちが、日比谷公園寄りの歩道を、交叉点に向かってゆっくり歩行していると、警官隊の一人が、目をつり上げ、警棒を威嚇的にふりかざしながら、
  「貴様らあ、まごまごしてると、ぶったくるぞ。貴様らの一人や二人、ぶっ殺したって、へでもねえんだからな」
   それから、もう一人、
  「一体貴様らは、それでも日本人か!」
   この罵声は、さすがに私たちを少なからず驚かせ、また少なからず笑わせた。

小文字は梅崎文章の引用。私も笑いましたが、安岡章太郎によると、
中立的であるということは、このような場合、何も言っていないのと同じだということも示している。
下記、比較するために、いまのWikipediaの文章引用します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている[1]。戦後の学生運動で初の死者を出した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向い、その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ[1][2]。

梅崎エッセーは、検察側と弁護側の両者として証言として採用されたそうなので、
それは、中立的で、客観的で、正確だと示すもの、だそうです。筆者によると。
まあWikipediaとは違いますけど。Wikipediaの「その後」にも分かりにくく書いてある通り、
一審十八年、二審二年、計二十年裁判続けて、けっきょく騒乱罪が成立出来ず、
二百数十人の被告は全員無罪。

頁140
 気の毒なのは、あの裁判で被告にされた人たちで、彼等は青年期と中年期の大部分を、裁判所通いに費やされて、まともな就職も海外渡航も許されず、半生を棒に振ったようなものだった。

これに対してもどこかで、正反対の感想評価があるんでしょうが、検索してません。

母親の異常については、頁188あたり。つらいです。ここは。以上
(2016/12/27)