Webcat plus
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/nbn/77033635.html
国会図書館サーチ
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001353623-00
装幀 勝呂忠 表紙をここに載せるか、まだ決めてません。
"Wednesday the Rabbi Got Wet" Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Wednesday_the_Rabbi_Got_Wet
ウィキペディアに採られている洋書の表紙を見ると、
ナニが推理小説としてのテーマか、分かってまいます。
はまぞうで出た下記ペーパーバックの表紙では、分かりません。
Wednesday the Rabbi Got Wet (The Rabbi Small Mysteries Book 6) (English Edition)
- 作者: Harry Kemelman
- 出版社/メーカー: Open Road Media Mystery & Thriller
- 発売日: 2015/08/04
- メディア: Kindle版
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裏表紙煽り文句末尾
深みある現代本格ミステリの代表作として高い評価を受けたラビ・シリーズ第6作。たれこめる暗雲を吹きはらうラビの整然とした推理はシリーズ中の白眉である。
整然とした推理かどうかは分かりませんが、ハリケーンの夜、
アレルギーのある人にアレルギーを引き起こす処方箋薬が行ってしまい、
それで人が死ぬわけですが、その薬が患者の手に渡るまで、
推理上の囮も含め、かなり煩瑣なリレーゲームが発生しており、
しかもそれにかかずらわった大半の人間が、狭いユダヤ人コミュニティの中で、
「怨恨」という動機があって、そこが、現在トラブルに巻き込まれてる私としては、
非常に身につまされる話でした。遺族が得たりとばかりに訴訟起こそうとしたり…
で、このお話の邦訳が出た昭和五十二年当時は、日本は調剤薬局でなく、
医院で直接オクスリ渡していたはずなので、本書のように、処方箋をまず医師が書き、
(のちの同僚が医師をかばうため、ちょっとアレする)薬局の、
どっちの薬剤師が調合したのか、または同僚の調合中横からぴゅっとなんかしたのか、
出来たのか、受け取ったのは、嵐なので、たまたま居合わせた近隣住民で、
それがまた直行せず、パーティーにまず寄ったり、
ポケットに薬を入れたコートが、すごい偶然で、
同じ薬局で処方した別の薬を入れた別のコートと取り違えられたり、
嵐なので目的地に行き着けずパークしてると警官が職質して警官が配送請け負ったり、
いったい何人あいだに挟むねん、最終的にはアレルギーのある人に、
渡してはならない薬が行ってしまうわけですが、これが、
昭和五二年当時の日本だとピンと来なかった気がします。
また、この個人経営の薬局(嵐の夜でも遅くまで営業!)と、うらぶれ商店街が、
大規模ショッピングモール開発に際してあれするわけですが、
それも、薬局や酒屋は何百メートル間隔開けて開業せなかん、
という法律のあった当時の日本では、ぴんとこなかったかも。
むしろ、21世紀になって、日米でラストベルト状況が共有されるようになった、
今のほうが、本書は、日本の読者にしっくり馴染む気がします。
ただし、本書の、ニューアカかぶれの息子と、伝統的な父の跡継ぎ問題、
(でもこの父はユダヤ教儀礼に関してはあんまし)
は、うれしはずかし70年代な気がします。
解説は(S・S)というイニシャルの匿名。このシリーズは、くりかえし、
ミステリ・ファンにはユダヤ人社会の解説、描写の部分が、冗長、退屈ではないか、
というフレーズが解説に挿入されており、そんなんネガキャンやん、
売り手がそんなマイナス要素吹聴したあかんやろ、と思います。
だいたい、ユダヤ教にまつわるレトリックこそが何度読んでも楽しいところなのに。
頁58
「それじゃあ、ぼく自身のこの気持はどう説明しますか」アキヴァはむきになって訊いた。「同胞運動に入ってメンデル導師に会ってから知った、この静かな確固とした気持はどうですか。前には自分では何も決められなかった――何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか――」
「それは知性を持った報いですよ」とラビ。「私たち人間はみんな多かれ少なかれ、苦しんでいる。本能のままに動く動物はそういう苦しみはありません。一つの本能が働きだすと、自動的に他の回路はすべてオフになってしまいますからね。等距離にある二つの干草の山を前に飢え死したロバの話は、ロバより人間にあてはまる話ですよ。同時に二つの場所にいたいとか、同時に二つのことをしたいと思うのは、動物でなくて、人間です。正常なことなんですよ。ただ時としてひどくなると、行動や決断力が鈍り、その結果フラストレーション、精神的苦痛、時には完全な機能不全に陥ることもある。あなたが導師に任せたように、決断の責任を一部誰かに委ねた場合、その直接的効果として静かな安堵感があっても、別に驚くべきことじゃありません。ユダヤ人のジーザス運動に加わっている知人の話では、魂をキリストに委ねると同じような効果があるらしいですよ。他にも聖母マリア、聖人、最近流行の東洋の行者とか――」
「でも役にたてば――」
ラビは肩をすくめた。「葛藤から生じるストレスは、降参してしまえば必ず消えるものです」
頁167初湯という言葉が分かりませんでした。
初冬か初頭の誤植でしょうか。
頁239
(前略)われわれの宗教は倫理宗教、人生哲学ですからね」
「宗教はみなそうじゃないですか」
ラビは唇をすぼめて、「いえ、違いますよ。たとえばキリスト教は神秘的な宗教です」
「するとキリスト教は倫理的でないと?」
ラビはじれったそうな身ぶりをして、「もちろん倫理的ですよ。しかしキリスト教徒にとっては、それは二次的なものなんです。まず第一にキリスト教徒に求められるのは、神人イエスへの信仰です。そして彼等の倫理は、神の子である救世主イエスを信じれば、信者はイエスを見習おうとし、その結果倫理的に行動するという考え方に発している。また福音派に広く見られるように、“イエスをあなたの人生に迎えいれれば”自然に倫理的行動ができるという信仰もある。それも時には効果があります」ラビは首をかしげて、考えていたが、やがて勢いよくうなずいて、「そう、確かに。天に思いを向けていれば、この世での欲は少なくなるでしょうからね。もちろん時には足を踏みはずすこともあるでしょうが、そればかりに考えが凝り固まっている場合ほどではないはずだ。一方、自分の心に浮かぶ思いつきをすべて神の言葉と思いかねない。
ところがわれわれユダヤ人には神は不可知な存在とされていますから、キリスト教的な意味での信仰はほとんど無意味です。自分にはわからないこと、知ることができないものを信じると言って、何の意味がありますか。理論的にはキリスト教の神に対する考え方も同じです。だからこそ神の子が地上に生まれ、人間として生きたのです。人間であれば、知ることができますからね。しかしわれわれユダヤ人はこの信仰に同調することはできない。われわれの宗教は一つの倫理行動律です。モーゼの掟トーラは行動を規範する一連の規則だし、預言者たちは倫理的行為を説いた。ラビたちの議論や論争から成ったタルムードも一般行動律をどのように運用するかを細かく述べたものにすぎない。ついでながら、これまでユダヤ人が宣教をほとんどしなかったのもそのためですよ。われわれには売る物は何もない。秘密も魔法の儀式もなければ、天国の扉を開く入会の儀式もない。ときおりキリスト教徒が改宗したいと来るんですが、その時にも、そう言うんですよ。われわれにあげるものと言っても、自分たちの倫理と生活の仕方しか何もないんですからね。でもそれが気にいっているのだ、それに加わりたいのだということだったら、どうぞ、何の障害もありません、倫理にかなっていれば、異教徒でも神の御前ではイスラエルの高僧と同様高い位置に登れますと言うんですよ」
「するとユダヤ教にはそれしかないわけですか。倫理だけ?」
「われわれがコンピューターでプログラムされた頭脳を持つロボットなら、それだけでいいでしょうが、人間だから、それなりの弱点や欠点はすべて備えています。だから儀礼やシンボル、儀式によって、記憶を喚起し、まとまりのあるグループとして結びつける必要がある。またそういう方法を使った方がよくわかる人もいますのでね。また記憶ということから、歴史とか伝統が重要性を持ってきますが、われわれの宗教の基本は倫理なのですよ」
「しかしあなたもときおり改宗してあげるでしょう」
ラビはうなずいて、「ええ、します。ユダヤ人と結婚する人の場合が普通ですね。ユダヤの倫理観を授け、染みこませることを目的とした礼拝と儀式、つまりは部族の慣例ですが、そういうものがあります。改宗というのはおおきく言って部族養子ですからね。改宗者は改名し、ユダヤ人に生まれ変わった形をとる。しかし神秘的な宗教の改宗とはずいぶん違いますよ」
「しかしユダヤ神秘主義というのがあるでしょう」マンツ医師は反論した。「本で読んだところによると――」
「ええ、ありますよ」と、ラビは もどかしげにさえぎった。「エッセネ派、死海地区派、カバラ教、サバチアン運動、それにキリスト教も加えていいでしょう。どれもユダヤ教の神秘化運動です。しかし中心に位置する伝統的なユダヤ教から見れば、どれも間違いですからね、われわれは排除した。今なお存続しているハシディズムだけですが、ハシディズムの神秘主義は伝統的な倫理やその倫理観を反映象徴するユダヤの慣習と深く結びついた上につけ加えられたものだからです。ハシディズムの伝説にある奇跡を行う導師レバの話など、おそろしくナンセンスな迷信ですね。しかし尊敬を集めているハシディズムの導師というのは慈悲深い生活態度と人間に対する思いやりで聖人になった人なんですよ」
ラビは前に乗りだして、「私は神秘的体験の効力を否定しません。私の性格にあわないというだけのことです。おそらく私の欠点の一つでしょうね。(後略)
頁62、犬儒的不可知論者という単語が出て来て、
犬儒なんて言葉で訳して、原文だとなんて書いてあったんだろうと思いました。
前冊のタイトルもそうですが、今回もいろいろ読める原題で、
"got wet"なので、ドライ/ウェットの戦いのウェットで、
禁酒やめて飲んだのかと思いました。全然違った。以上