ほかの方のブログで知った小説。装画 遠田志帆 装丁 鈴木久美 野生時代に2015/11~2016/12連載。『テンペスト』以来、作者は有名な単語に何かを仮託するシリーズでも始めたのでしょうか。『トロイメライ』、『黙示録』、そして本書。
ゲバT表紙ですが、エルネストはあまり出ません。主人公とチェのセックル描写はあります。納屋の麦藁の上で、主人公がエルネストをおまたでギリギリしめつけ。オダギリジョーをしめつけるわけではなく、勿論阪本順治をしめつけるわけでもないです。モーターサイクル・ダイアリー。
作者は『シャングリ・ラ』で一度横道にそれた以外、一貫してオキナワをテーマに作品を発表しているので、本作も沖縄です。南米のどこにも沖縄移民はいてる、くらいの認識しか私はなかったのですが、ボリビアに特化しています。アルゼンチン、ペルー、コロンビアとブラジル、メキシコ、キューバは、ラテンアメリカのなかでもこんな特徴があるんだよ、くらいのことが一行か二行くらい語られますが、大半はボリビアです。それも、高地と低地で分裂してるボリビアの、低地のほう。下記です。ボリビア・ニュートンジョンという駄洒落は出ません。
よって、売らんかなのゲバ表紙見て、もうチェはええわと思った人も、開いてみたほうがいいです。私はそうでした。作者はカジマヤーやトロイメライ、ぼくのキャノンのように男性/少年を主人公にする時もありますが、女性を主人公に描くほうが断然精彩があるので、本作も女性が主人公で、しかし、ナウシカの呪縛かなんか知りませんが、作者の創造する英雄女性は従来、ヴァージニティというか処女っぽさが妙に高いので、本作ではマンネリ打破なのか殻を破るのか、ファム・ファタールになりたかった?性暴力にさらされてダメ男ばっかり飼ってしまう新タイプの主人公に挑戦してます。作者得意の展開として、本作の主人公もマブイがぬけてます。エルネストもぬけてます(頁238)。私もぬけてるかもしれません。西表では肝硬変で主人がなくなった家の離れで寝ていたのですが、ある晩、ざっざっざっと行進する兵隊さんがこっちを見てこっちに来て「見つけた」と言う夢を見ました。割とぞっとした。
マブイがぬけてるキャラとかセジとかセーファーウタギとかを出してはいけないというノックスの十戒があるのかどうか知りませんが、移民船でスペイン語のレクチャー受けたというだけでスペイン語がペラペラになる主人公を見て、これはこういうことなんだろうなと、冒頭の地獄の業火をまず読んだ読者の78%は同じ推測をすると思いますし、それは当たるんじゃいかな。私もまだ読了してないので推測ですが。⇒ハズレ。
頁112
「あの人もウチナーンチュ?」
「兄ちゃんのセーザルだよ」
「セーザル? セーサルじゃなくて? なぜポルトガル語なの?」
「父が日系ブラジル人の二世なんで、癖でセーザルて言うんですよ」
太字は私。現地到着直後にこんな知識の会話が出来るわけがあるか。「ブラジルから来た少年」そのままに、ドイツ人開拓者村(勝ち組)及びそこで暮らす元ナチも出て来るのですが、主人公はナチと話す時ドイツ語ペラペラです。こんなヒント出してインカ帝国。
頁467には、ほんとにブラジルから来た少年のほうの、メレンゲの気持ち、もとい、が出ます。ブラジルから来た少年というと、浜岡賢次が浦安鉄筋家族の番外編で、アントニオ猪木が半ズボンしょってランドセルはいて日本の小学校に転校して来る漫画を描いていて、そのタイトルに使ってました。素晴らしい。
で、やっぱり作者に悪女はムズいというか、パヤオのふじこみたいなイイ女にしか出来そうもないというか、作者の創造する主人公は才能や努力や生産性が高くてあっという間に事業を成し遂げてしまうそのスピードと発展性が毎回小気味いいのですが、今回のヒロインは破滅型にせんならんと、作者も忍耐忍耐で、彼女に艱難辛苦と失敗の連続を与えるのですが、自動書記が勝手に彼女のマブイを再分裂させて、酒も博打も男も喧嘩も贅沢もしない別人格がいつもの作者の常連ヒロインのごとくどんどんおいしい料理を作ったり冒険したり頼もしい友人たちの力を借りて胸のすくような活躍をし始めてしまいます。誰とでも寝て派手好きで金銭感覚が狂っていてギャンブル的投資をする主人公は観念世界においやられてしまう(ゲバラと寝るのはこっち)頁232。そして、沖縄人はマブイを七つ持っているという設定がここで後付けで語られます。今回も作者はそうでないと走り出せないというか、やっぱこっちが得意で、読んでる方も気持ちいいという。
頁162、シンガニというボリビアの白葡萄の蒸留酒の味が、びっくりするくらい泡盛に似ているとあり、へーそうと思いました。チュフレという檸檬水で割って飲むのが主人公の好みで寝酒の日課とありますが、泡盛レモン水で割って飲むんですかと。
頁262
「アリガト・ナリスガト(猫の鼻)」
これ、検索してみたのですが、かわいいスペインにゃんこの画像しか出ませんでした。
頁289
一口にケチュア語と言うが、低地で話されているケチュア語は高地では別言語のように通じなかった。隣国だからドイツ語とフランス語が通じると思われるのと同じだ。南米のケチュア語は六十種類の方言に分かれ、文法も語彙も異なった。
知りませんでした。で、表情と雰囲気でだいたいの意思を通じようとして、大雑把に伝わるだけで良しとして満足するボリビアの風土が語られます。だからインディヘナも日系人もスペイン語をそんなに覚えず、しかし暮らして行ける。
【後報】
ボリビアやキューバは革命を成したのに、なんで人々の暮らしはよくならないの? 革命で一握りの富裕層が逃げ出して、残りの90%の貧困層が、一割が牛耳ってた富を分配出来たんだから、みんなもっと豊かになれるはずなのになれないのはなんでなの? に対し、本書は、富裕層というものは、資産の増やし方を心得ていて、金を元手に投資とか資産運用するけど、貧乏人は公定レートで換金なので増えるわけがない、「知財」についてのナレッジ、ノウハウの蓄積がないのだ、というロジックが語られます。貴族であってもみんながインサイダー取引が出来るわけでもないし(やっぱり人付き合いは財産)、例えばマスターキートンのロイズが破産した時は一蓮托生であぼーんの投資家も数多くいたと思うのですが、いちおう本書はそういう論理です。で、ネタバレですが、反対側のナレッジとして、旱魃時はどうするのか知りませんが、ナイルの恵みならぬ、リオ・グランデ河の暴れ馬っぷり、氾濫と時は、戦うのでなく、インカの知恵で「不耕起農法」で行こうという…不耕起農法はネタバレなのですが、これは書いておこうと思いました。あと、米軍収容農地も。不在地主はゴルゴ13のネタにもなってましたが、本書はそこまで話を広げません。
上記のロジックを出しておいて作者は何を考察したいのかというと、たぶん、南米のユーエスエーや旧スペイン人への従属と脱従属の歴史を、沖縄のそれに重ね合わせて、空理空論でない、地に足のついた解決法こそが沖縄の得意とするところであるから、それでいて正義が貫けるような、ウルトラCがないものかという思考実験、模索なのではないかと思います。
その思索がたどりつくのがページの都合で、煉獄の劫火だったりするのがあれですが、私はボリビアの知識がとぼしいので、トボロチやタヒーボなど異国の色とりどりの花、美味しい料理など、存分に本書で堪能しました。
"Locro de gallina"
"croquetas de trucha"
エンパナーダも出ます。クリームシチューを小籠包のように詰めた奴。
作者の世代は、私もおおいに共感するのですが、左翼の理念は置いといて、それをしている人たちに対する抜きがたい不信感があり、ようするに、ノンポリである限り無縁ですし無害だが、例えば沖縄なら、入り口として当時はパインもありましたが、きび狩りとかそういうので、基地とかまじめに考えようということになると、その筋の人たちのヘゲモニーを侵害するのではないよとスジを通さんならん、その筋の人たちの職業的活動家へのオルグにやんわりとバリアはらんならん、みたいな経験が、ひょっとしたらあったのかなとも想像します。そういうのは現在でもほかの方のブログで首相官邸前とかいろんなアピールの場のレポ読むと行間であったり明記であったりで書かれていて、薄まってはいるけれど現在もあることは分かります。
本書はおかつに対し「ファッション左翼」(頁363)とレッテルを貼って、その批判は痛烈です。
頁176
私は彼らが本質的に信念がない男たちだということを知っている。彼らは単に人生の不全感を社会のせいにしたいだけなのだ。不満をぶつけられるから共産主義者の皮を被っているだけで、もしソ連に生まれていたら自由主義運動に身を投じたはずだ。
これでは観念的過ぎると感じたのか、言い直してみたり。
頁265
( 略)彼らは、青年期特有のフラストレーションを打つけるために、手近にあったのがゲバ棒だったというだけだ。もし安里が東ドイツに生まれていたら、トンネルを掘るためのスコップを握っただろう。
1959年のまま時代がとまってしまったキューバに対して、現在分かっていることから手厳しく書かざるを得ないのですが、頁518の、立ちバックはまだしも、その後は書きすぎたかなという気もします。どうにも書いたった的な。
ゲバさんに対しても頁542で総括してます。米帝が悪いならまずアメリカで反米やりなさいよ、キューバやボリビアを不幸にしないでよ、という。ガンダムかな。男なら巨大な敵をうてようてよ。そんなことに遊撃戦論で反論しても意味なし。21世紀のイランみたいにそれがタテマエの総論になってるならまた別でしょうが。
頁528の「公陸」という概念は、まだまだブラッシュアップしてもよいと思います。公海と経済的排他水域とか漁業権とか、中国も公陸といえば公陸かもしれないが、それは皇帝独裁の下、「官」と「吏」が共存して支配する社会であるとか、なんとか。
頁535、スワヒリ語の熊本ではないですが、スペイン語ではこう聴こえる日本人のお名前雑学が書かれており、沖縄固有でいうと「伊波」は"hija"(娘)と間違えられるんだとか。比嘉はどうでしょうか。
下記は沖縄コロニア初のトゥシビーの描写。
頁559
参列した男たちのスーツは、出国する時に沖縄で新調したものだ。当時はネクタイ幅が細く、裾の広いトラウザーが流行だった。彼らが一大決心したとき、あのスーツが背中を押してくれただろう。そして彼らはボリビアで歳をとった。今の流行はダブルの六つボタンで袖口はフレアだ。彼は一心不乱に働き、若い時のスーツで年寄りになった。その姿が抱きしめたいほど愛おしく思えてならない。(後略)
本書の各章のタイトルは、歌の文句かなんかの換骨奪胎だと思うのですが、知らないので分かりません。
- 第一章 私の長い死に際
- 第二章 さよなら私の少女時代
- 第三章 新大陸でのデビュー戦
- 第四章 風の中の初恋
- 第五章 正真正銘の私
- 第六章 二つの魂の衝突
- 第七章 魂の螺旋飛行
- 第八章 騙し騙される私
- 第九章 西側の私と東側の私
- 第十章 私の戦争の終わらせ方
- 第十一章 私が愛した革命家
- 第十二章 私の魂の行方
- 第十三章 私の魂の還る場所
終盤沖縄は本土に復帰し、里帰りした主人公は、沖縄がドルから日本円へのチェンジ(作中には軍政時代のB円というのも出ます)や沖縄が苦しい時に見捨てて移民したのか、ハッサヨー移民も苦しいよー、と応酬したり、ボリビアで面倒かけさせられた相手が「移民崩れ」を自称してコザあたりで商売してるのに再会とか、します。崩れかどうか知りませんが、北米や南米で生まれて日本で暮らしてる日本人には、私も会いました。下記は那覇のタクシー運転手にユイマールを聞く場面。
頁605
「助け合いなんてもうないさー。那覇なんて特によ。個人主義のところはアメリカになったさー。昔はシーミー(清明祭)のときにはウサカティ(分担金)したけどよ。今は兄弟でも払わんさー」
21世紀はまた復古してるのかどうか。沖縄の問題も、沖縄だけではどうにもならないというか、世の中波紋というものは本当にさざなみのように広がってゆくもので。下記は、実物大の嘉手納も新疆にあるでよという記事。
頁579に"Wara"というバンドの"El Inca"という歌が感動的に記されるのですが、歌を聴くと、作者の修飾のうまさにやられた、と思いました。そこまでかな。
Wara - Wikipedia, la enciclopedia libre
私は高度三千以上の高地ボリビアや高地コロンビアで暮らしてみたいのですが、昔は大丈夫だったけど、今は高山病がどうでしょうか。最後に高度三千近くに行った時、歯が痛かった。以上
(2019/4/8)