デザイン―後藤一之 エディター―杉本進
相模原市民ギャラリーでこの人の写真展を見て、ああ、気が重いけどいつかは読まなきゃだから読むかと読んだ本。読んだのは単行本ですが、新潮文庫にもなっていて、文庫は何故かアマゾンの打ち込みが「満洲」でなく「満州」です。サンズイがない。表紙写真は同じ「洲」なのに。
勿論タオパイパイとは関係なく、シャオハイは"小孩"のカタカナルビ。
偶然中国のゲーマーにシャオハイという人物がいると検索で出たので読んだら、シャオハイは英語でリトルボーイを意味するので、そこから原爆を想起して彼に嫌悪感を抱く人がいるとのこと。どこまで世の中というのは転がってゆくのか。人間(じんけん)詩話。"儿童"だったらよかったのでしょう。
残留孤児、帰国者を取材して、写真にまとめた本です。ポートレート主体なので、地平線までコーリャン畑とか、飲み水を汲みに行くのにこんだけ歩くとか、そういう、二世三世から聞く話がぱっとビジュアル的に展開されるわけではありません。まだ一時訪問の際は碑文谷ダイエーで買い物がデフォルトとか、そういうふうにもなってない頃でしょうか。そういう本を、北国之春すら漢語で歌えない私が読むというのも。
頁56
「スーラ・メイヨ……」(ソ連軍はいないよ……)中国語で話しかけてきた(略)
これは、"死了没有"であり、「死んでないか?」転じて「生きてるか?」であるわけで、"我还活着"と答えればいいのかな。「ソ連兵はいないよ」では全然ないのですが、何故本書ではそうした誤解が生じたのか。
ここは、佐渡開拓団跡事件とでも言えばいいのか、長野山梨の各開拓団がジャムスから牡丹江方面へ逃避行を続ける途中の勃利县佐渡開拓団跡地で八月二十三日ごろから起こった、ソ連との交戦、集団自決、ソ連による一方的な殺戮の個所です。低空飛行するソ連機に発砲したとか、不時着した機のパイロットと撃ち合ったとか、搭乗員は逃げたとか、装甲車四台が来たので高社郷開拓団団員が斬りこみ攻撃をかけて八人討ち果たして三台炎上させたとか、その時点で団単位の集団自決で五百人ほど自裁してるとか、逃げたものもいるが、まだ二千人くらい在留邦人が寄せ集まっていたところに、ソ連軍の報復掃討作戦が開始されたとか、書いてあります。で、ウィキペディアに、この事件の項目はありません。
本書によると、この事件に詳しいのは、『果てしなく黄色に花咲く丘が 第十次東索倫河埴科郷開拓団の記録』埴科郷記念誌
本書の聞き取りで、多くの人が、日本人リイベンリエンと後ろ指をさされた、いじめられたと成長期を回想しているのですが、「人」のルビは「リエン」でなく「レン」のほうがあってると思います。日本人とか日本鬼子はルビと漢字が一致してるのですが、シャオリイベンのルビの漢字が「小日本人」と、余計な「人」をつけているのがよく分かりませんでした。「小日本」でシャオリーベンじゃないデスか。あとがきでも何の疑問もなくそうしてる。
残留孤児の中国名のルビは、おっそろしく正確です。「人」はリエンとかルビ振ってるのに、人名で同音の「仁」はチャンと「レン」とルビ振っている。例の、清音濁音は破裂音の有無にあらずルールとかどうでもいい。地名の佳木斯なんかは「ジャムス」でなく「チャムス」と、そのルールに従ってるのですが、人名は素晴らしい。でもまあ日本語の音読みでルビ振ってもよかったかと。
地名が、これは、開拓団や、その地域の差もあるんでしょうか。「密山」なんか、私はミーシャンとかミーサンと、中国語の音で読んでしまいそうになるのですが、「ミツザン」と日本語読みです。二道河子も、「ニドウガシ」私はついつい、ハングルで「イドハジャ」とか読みそうになります。いや、正確には「二道白河」をイドペッカとハングルで読むクセがついている。延辺の地名なので。「横道河子」も「オオドウガシ」と書いてあります。けっこうあちらっぽい地名も、日本語で読みこなしていたんだなあとその時点では思いました。しかし、「青溝子」は「チンコウズ」で、チンコウズ開拓団と、そのままつなげて開拓団名になってたりします。「哈達河」を「はたほ」と読んだ「はたほ開拓団」というのもありました。「弥栄」と書いて「いやさか」と読む地名を新たにつける例もあれば、はたほやチンコウズもある。
面白いのは、現ウランホト、興安の別名「王翁廟」を「オーオンヂ」と呼んでいること。「廟」は日本語で「びょう」中国官話で「ミャオ」ですから、「ヂ」というのは、意図的に「寺」と混用してる気がします。オーオンヂとカタカナで書かれるといっけん漢語風ですが、よく考えると「王」も北京語ならワンなので、日本の音読みで王翁寺を「おうおうじ」としっかり読まず、「翁」がヘンなふうに訛ってると考えられます。オール北京語で読むならワンイエミャオ。
青麻と書いて「ちんま」と呼ぶ箇所もありましたが、青麻がなんなのか知りません。
相模原市民ギャラリーでこの続編、定住後の子孫たちの横顔を見れればよいのですが、カリフォルニアに戦争花嫁の子孫を撮りに行くより、それは難しいことなのかもしれません。”THIS IS JAPAN” うそです。以上