上は、裏表紙の、おそらく著者、道浦母都子のサイン。私には読めません。なんとなくタテをヨコにして載せました。カバーデザイン=東幸見 解説 桐山襲
『無援の抒情』1980年ぜんぶと、『水憂』1986年『ゆうすげ』1987年から抜粋の短歌、それから『吐魯番の絹』1988年のエッセーいくつかと未収録エッセーを組み合わせた岩波オリジナル版。1990年3月9日初版。
山口文憲『団塊ひとりぼっち』(文春新書)に著者が出てくるので読みました。したっけ、文憲本で読んでいちばん印象に残った歌は収録されていませんでした。
『団塊ひとりぼっち』第4章 団塊「第二の性」を生きて 頁174
少女のようなお前が離婚するのか老いたる父がひとこと言いぬ
また、文憲本では、この時の相手は民青で、本人全共闘なのだからディボースヤムナシと合理的に説明してるのですが、本書にその辺の苦悩の歌はまったく採られてないです。
『団塊ひとりぼっち』第4章 団塊「第二の性」を生きて 頁173
「トロツキスト」「民青」と呼び傷つけあうこの日常をだれに告ぐべき
絶対音波では「民コロ」と呼んでたはずなのですが、活字なので忖度したのか。著者のウィキペディアでは、同人仲間の医師との再婚しか書いておらず、この初婚が抜けています。まあそういう「自由な編集」もあるのかなと。
本書はその後、2000年のY2Kに岩波現代文庫に入り、後藤正治の長文解説が秀逸と文憲のひとも褒めてるので、そっちを読めばよかったかとちょっと後悔してます。
というのも、本書収録の『吐魯番の絹』所出エッセーを読むと、著者は一時期大阪中華学校で日本語教師をしていて、現代歌人協会訪中団として80年代後半に三度も訪中していると目からウロコのトピックがあり(ウィキペディアは1㍉もそんなこと書いてない)胡耀邦時代の空気を吸ったことがある歌人が、1989年6月4日の天安門事件をどう受け止めたか、読みたいのに、1990年の本書にはまったくそういうエッセーが入っていないので、2000年に出た文庫ならどうだろうと思ったのです。
本書エッセーには北島など「朦朧派」がそれなりに紹介されており、私は朦朧派は、新井一二三の《鬼話連篇》で知ったと思っていたのですが、それも模造記憶で、「チョンクオ風雲録」九巻にドゥオドゥオ(多々)の詩が紹介されていたので知ったのでした。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
また、著者は金子文子にかなり強く惹かれていたようで、なんだよ実はアナーキストが好きなのかよと思いましたが、アナーキストが好きなのに民青と結婚した全共闘おんな、という路線で下種の勘繰りをしても仕方ないので、そこはこれ以上書きません。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
以下、目についたハイク、否、短歌を抜き書きします。
頁11
リンチ受くる少女のかたえを通るときおし黙りおり唖者のごとく
頁7
リーダーの飲み代に消えしこともある知りつつカンパの声はり上ぐる
カンパ詐欺からクラファン詐欺まで。
頁21
嘔吐して苦しむわれを哀れみて看守がしばし手錠を解きぬ
頁60
ビラ一枚タテカンひとつ無きままに雪に埋もれる地方大学
この歌を詠んだ時、著者には、その後都市大学が陸続と八王子など地方に転出し、上京学生のスカウト餌食とマルチによる蹉跌を生みつつも、タテカンのないクリーンなキャンバスを達成し、その新しい風が山手線の内側にも還流し、法政大は知りませんが、ほとんどの大学でノー立て看を達成出来た未来など、知る由もなかったことでしょう。どうでもいいですが、私が「トロ字」と呼んでいたあの変体簡体字まじりのタテ看の字を、関西の学生が「ゲバ字」と呼んでいたのも面白いことでした。
頁106
プチブルになりたる君と決めつけて十万円カンパ訴えて来ぬ
ノンポリに転向した著者を糾弾しつつ金をせびろうとするけったいな元同志をあざけりて詠める、ってとこでしょうか。でも著者は金を払って、転向した自分がくやしいと思ったりしてます。不愧是向往金子文子的道浦母都子。
頁133
die inの闇の最中を過るるは 八月六日 広島の河
ダイインって、チェルノブイリ以降のパフォーマンスと思っていたのですが、そうではないのかな。いつ詠まれた歌か分かりませんが…
严打 ろうそくのあかり消え失せて 六月四日 追悼集会
頁158
ひそかなる愛恋抱きて死にゆきし一人を読めば後の日のわれ
これ、「愛恋」と書いて「あいれん」とルビを振っていて、なんだろう、張愛玲逝去(アメリカで孤独死)のニュースでも読んで作った歌だろうかと思ったりしました。
以上です。岩波現代文庫も読みます。
【後報】
巻末の同時代ライブラリーラインナップと広告。現代文庫の小説・エッセイジャンルに比べて、まだ偏りがない気がしなくもないです。
(2021/11/2)
【後報】
もう一度借りて、訪中関係、大阪中華学校関連の初出を見ました。
大阪中華学校の小文は朝日新聞1988年4月9日掲載。縮刷版をあたりましたが、東京本社版には当該記事ありませんでした。大阪本社版なのかなあ。この前後の記事をぺらぺら見ていたら、自民党訪中団が鄧小平に会っていたり、李鵬が首相に選出されたりしていました。光華寮問題が日中懸案事項として一面に出ていたりするので、今その事件の詳細が五里霧中になっているのが不思議なくらいです。また、中国大使館が都心の一等地を次々売却しており、当時バブルの地価にも影響して都も困惑していたとか。あと、台湾の民主党が、台湾は中国の領土ではないと党議を決議していたそうです。
で、1989年3月に、中国詩詞協会と「日中定型詩討論会」を催すため、団長近藤芳美で訪中しており、その時のことを、「ながらみ通信」という何かの会報や「歌壇」という会報に寄稿しているのですが、いづれも本にはなっていない、のかなあ、という感じです。五月時点で、「加減例にまで発展した民主化へのうねり」等書いているのが、鎮圧後、完黙状態になったその間の心の動き、傷を負ったのか負っていないのか、私には何も分かりません。
「ながらみ通信」は「ながらみ書房」という短歌関連の出版社が出してた小冊子みたいです。
「歌壇」は本阿弥書店という出版社が出している短歌雑誌のようです。
こういうところに、朦朧派やらなにやらの中国現代詩との交流について記事を書いていたのに、天安門以降スッパリ封印。
この時の訪中は、江南の菜の花畑がきれいだとか、マッサージ頼んだら一人六十元で、一元が約三十五元なので、日本円だと二千百円ですが、中国の諸物価や給与(中国人民対外友好協会の鮑延明氏が月給百八十元)と比べて、ずいぶん割高に感じられるとか書いています。この鮑延明氏は検索すると近年も上海の図書館関連で訪中団の記事に出たりしますが、ご本人か、同姓同名化は分かりません。慶応大学に留学したことがあり、平山郁夫氏ともかかわりがあったとか。のちにもっちゃんの人が歌に詠んだ、在日本大使館勤務になった人がこの人なのかどうかも分かりません。
以上
(2022/1/17)