『ベ平連と脱走米兵』"Beheiren and deserters from U.S.Forces" by Fumihiko Anai(文春新書)読了

books.bunshun.jp

平成12年(2000年)9月初版。これも山口文憲団塊ひとりぼっち』に出てくる本。ベ平連についてまとめた本とのことで、文春としては、抱腹絶倒エッセーみたいな括りでポップをつけてますが、別にそういう本でもないです。全五章構成で、最初の一章(作者の脱走米兵潜伏脱出随行記)が「諸君!」1995年2月号掲載なのですから(語句の訂正とほかの章との重複分削除以外変更はないとのこと)パヨクの人が読むと実態赤裸々で気分悪い。でもネトウヨの人も色眼鏡の先入観でしか読めないからやっぱり気分悪い。そういう意味で、フラットに物事がとらえられない人は何を読んでも教養にならない見本のような本です。目からウロコの良書でもあるんですけど、まあ仕方がない。ベ平連じたいが、全学連や民青でもなくノンポリでもなく保守でもなく何かしたいというニッチなニーズにこたえる存在だったので、それに関するマーケットも自然シュリンクするのかと。当時はすごいカンパが集まったそうですが、その層がそっくり持ち上がってこの本を買ってくれるわけでなし。21世紀はクラファンの時代で、いろいろ問題点も浮き彫りで、いいデス。

二章三章四章は書き下ろしで、二章も脱走米兵随行記。三章はベ平連の主だった名のある人を作者から眺めた描写を交えながらの活動クロニクル。四章はその続きで、費用ベ平連持ちの作者の南越滞在記。といっても、主に、ミトーからちょほいと行った、メコンデルタの島の法人邦人経営農園の話。三ヶ月行ったのか、半年だったのか。五章は、その時あえて書かなかったご当地残留日本兵が、1991年に一時帰国した際に再会し、そのルポを「中央公論」1991年12月号に発表した、ほぼそのままとのこと。

阿奈井文彦 - Wikipedia

ブンケンさんの『団塊ひとりぼっち』から六年後くらいにご逝去の由。誤嚥性肺炎。享年76。りんごをのぞにつまらせた大瀧詠一さんなんかと同じ感じだったのでしょうか、ちがったのでしょうか。

潜行中など、一切メモをとらず残さずなので、かなりの部分を、かつての同僚が執筆した『となりに脱走兵がいた時代 ージャテック、ある市民運動の記録』関谷滋、坂元良江編(思想の科学社)に依拠しています。まずここで、ベ平連の中に実行部隊、"Japan Technical Committee to aid U.S. Anti-War Deserters"、反戦米兵援助日本委員会があったことを初めて知りました。ジャテックというコピーがなんとなくいいねで採用され、後付けで英単語を並べてそれっぽくした感じで。

ベトナムに平和を!市民連合 - Wikipedia

ジャテックには単独のウィキペディアはなく、ベ平連に収められています。本書の英題は、ウィキペディア英語版のベ平連そのまま。

Beheiren - Wikipedia

脱走米兵は、混乱しましたが、けっきょく、頁75にも「脱走兵の大方は、反戦よりも厭戦から軍隊を離脱したのである。だからといって彼らに批判精神がないとはいえなry」とアメリカのルポルタージュのソースつきでありますので、"Aiti-War"とか、"Vietnam War Resister"(レジ"Register"ではなくレジスタンスのほうのレジスター)とか、そういうのはつけず、ディザスター、否ディザーターだけにしました。

脱走兵 - Wikipedia

1971年に33,094人の脱走兵が出た。 これは当時の総兵力の3.4%にもなる。

en.wikipedia.org

Approximately 50,000 American servicemen deserted during the Vietnam War.

そう、上の文章を読んで、サービスマンとか、サービスに従事した者、という言い方にした方が、軍人だけでなく軍属も含まれるからいいかな、と思ったですが、軍属が逃げても脱走兵とは言えないかな、と思い、サンビスうんぬんをつけるのもやめにしました。

Vietnam War resisters in Canada - Wikipedia

だいたいそういう人は、言葉も同じで陸続きのカナダに行ったそうで、ただその項目は、良心的兵役忌避者も含まれるので(どこだったか探せなくなりましたが、脱走兵のほうが懲役逃れより割合は多かったそうです)そういう表記は本書にふさわしくないと考えました。下は懲役拒否のウィキペディア

en.wikipedia.org

五万人逃げて、本書頁74、1969年5月当時、スウェーデンには三百五十名くらいの脱走兵がいたそうで、カナダに比べるとだいぶ少ないです。でもメキシコなんかカナダと同じに陸続きなのに項目すらない。

en.wikipedia.org

During the war American servicemen were often stationed in or took retreats to Japan, and had trouble deserting while there due to the language barrier. 

脱走兵は日本では言葉の壁で苦労したとあります。ウィキペディアベ平連の項目は、成果を書くとDISれないわけでもないでしょうが、数人の成功例しかないと、作品社の本のソース付きで書いていて、そのソースの本より後の出版のブンケンさんの本では、十数例と、ケタがひとつ上がって書かれています。ひとケタからふたケタ。本書は、数書いてません。

なんでスウェーデンは逃亡米兵を受け入れてるのか、米国は内政干渉に抗議しないのか、と私も本書読んで思いましたが、本書はそこまで書いてなく、ウィキペディアを読むと、大使召還くらいはやったことが分かります。何もしなかったわけでない。ただ、スウェーデンも強情だった。コロナ対応もそう。おもしろい国です。

逃亡した米兵ですが、入隊してからしまったと気づいてあれやこれやと理論武装して人殺しの道具になりたくない~とやっても、なかなかその人の本質は変わらないもので、第一章で町田での潜伏中にアル中になってしまった(もとからではない、とは思います)米兵は、ヤマギシズムの村にかくまわれるわけですが、そこでもぜんぜんで、すぐ酒買いに行くので目について仕方がなく、基地で働く年上邦人で被爆者の内縁の妻を熱烈に愛すようなことを言いながら(頁16)、ソ連経由でスウェーデン上陸後すぐバーに行って会った女性と五分後に結婚の誓いを交わし、二週間で離婚するも子どもだけは生まれ、その後アメリカで法に則って脱走兵の規定の処罰を受け、その後の人生はようとして知れないそうです。

同時にスウェーデンに上陸した黒人兵(作者はこっちとは帯同してない)は後がない、底をついてるので、スウェーデンで俳優やったり本を書いたりしたとか。

ウィキペディアベ平連の項目には書いてないのですが、空母イントピレッド、否、イントレピッドからの脱走兵四人が第一弾で、上の町田のアルコール依存症のしと(アパートで外に出ないでイネーブラーからの酒飲んでテレビだけ見ててそうなった)の間に、ふたり韓国人が入っていて、ひとりは朝鮮戦争で孤児となってアメリカ人の養子になった金鎮洙(本書のルビでキムチンスー)という人で、この人は米兵なのですが、もうひとり、大韓民国軍金東希(本書のルビでキムトンヒ)兵長が、ベトナム戦争抗議の名目で日本に亡命申請して大村収容所に収容されているのの支援もしたそうで、この人は韓国に送還されたら死刑だそうで、しかしまあ日本亡命は㍉で、1968年1月26日ナホトカ経由で北朝鮮に行ったそうです。頁14。その後があるかと思って、「김동희」でウィキペディア検索しましたが、なんも出ませんでした。ありがちな名前なので複数出ますが、ぜんぶこの兵長より若輩。

김동희 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전

精強を以て鳴る大韓民国白馬、猛虎、青龍各部隊(師団)とは別に、いろんなよもやまばなしがあるものだなあと。その人生を生きた人は、他人事だからそんなこと言えるんですよと言うかもしれません、でも、だって。金鎮洙さんのほうは、ベ平連のホムペみたいなところが検索でちょろっと出ますが、それほどはっきりとしたその後のおはなしでもない感じです。日本では、鶴見俊輔邸に匿われてるといううわさがありながら、実は堀田善衛邸に匿われてるという、進歩的文化人オールスター、と言ってあってるのかどうかの豪華絢爛なキャスト。鶴見良行のほうの人の名前も空母のほうで出ます。矢沢永一さんの1996年の著書『悪魔の思想―「進歩的文化人」という名の国賊12人』は読んでません。12人の名前が内容紹介にないので誰だか分からず、残念閔子騫

進歩的文化人 - Wikipedia

頁14

I'm dreaming of a black X'mas,

with every Viet-cong that I fight,

with my hand dripping with blood,

and my buddy lying face down in the mud.

夢見るブラック・クリスマス

ベトコンと戦い

私の手は血で滴り

相棒は泥の中へブッ倒れる

町田に潜伏してたひとが教えてくれた歌だそうです。二番もあって、赤ん坊は焼き殺され、母親は泣き叫ぶという内容だったそうですが、原文忘れたとか。で、この歌詞で検索しても、なにも出ません。ベテランはインターネットやらないのか、Q-ANNONに粛清されたのか。

第二章は、もっとひどくて、邦人女性と見ればナンパ、コナかけるだけのズッコケ三人組米兵をトカラ列島のヒッピーコミューンに送り込む話です。文春公式の内容紹介で、淋病をもらったと書いてあるのは、このうちのひとり。脱走中なのにスキを見て横須賀で誰かとやって、もらったそうです。頁55。売春とは書いてないのですが、ついついプロスティテュートと思い込んでしまう。京都でなんとか処方箋なしで薬局から薬を売ってもらったが、完治したかどうか分からないうちに、ヒッピーコミューンの女性といい仲になってしまい、作者は人の恋路を邪魔したつもりはないのに、この女性から、馬に蹴られてしんでしまえのリアル版みたいな感じで恨まれ続けてるそうです。こういう、狭い社会でお互い誹謗中傷がいちばん嫌ですね。見てるだけで消耗する。ほんま、やめてほしいけど、いつでも敵がいないとハッスル出来ない人って、いるからなあ。悪口言うのが生きがいで、仮想敵から活きる活力もらってる人。チベット絡みで思うこと。

私は山口文憲さんの本を読んで、車を所有したことがないとあったので、運転もしないかと思ってましたが、頁55、免許は高校時代から持っていて、上諏訪から関西まで、米兵たちと底抜け珍道中の運転をひとりでしたそうです。

三人はのべつまくなしにナンパしたり、ポルノ映画を見たがったそうで、頁73、鹿児島天文館の旅館の仲居さんが女紹介してくれると思い込んだ場面はご愛嬌で、ヒッピーコミューンの場面も、私はヒッピーコミューン知らないので、性もスリクもアレな世界なのだろうなあと思っていると、かなり本書のは禁欲的な修行の世界で、彼らには㍉、と判断されたので、別にいいのですが、電車の中で大学英文科でベ平連に興味のある女性がコナかけられて、献身みたいな気持ちになってついて行こうとして、それを断ると逆恨みされる場面が、酷な話だなあと思いました。西木正明が何度も書く、ほれた女性が黒人兵とくっついてアラスカに行く後をおっかける話を思い出しました。なまじ教養のある女性が自己犠牲でやけどするのは『愛と誠』だけでじゅうぶんかと。この三人はソ連もそっけない対応をしたそうで、作者は、それだけダメダメだったからではないかと推測してます。反戦英雄うんぬんで持ち上げたくなかったと。

こういう時代だなあと思ったのが、下記、広島の名曲喫茶で、ウェイトレスからかけられるせりふ。

頁69

「あれから、私、東京を出て、いまフーテンやってるんですよ。吉川(事務局長)さん、お元気ですか?」

 と、尋ねてから、

「来月はまた、どこかよそへ行く予定なんです」

前に事務所に出入りして、面識があったんだか、忘れたんだかという。

話を戻すと、こういう脱走兵たちの実態を知ったら、まあ、今のネットと変わらないくらい糾弾されて熱が引いてオワコンだと思います。クラカンというか、カンパは、自分たちは役に立っているという達成感の持続が大切なんだなあと。

敵前逃亡 - Wikipedia

ウィキペディアの「敵前逃亡」を見ると、米軍には、脱走と無許可離隊や、無届離隊の区別があると書いてあり、町田のひとも、自分は後者だと言ってます。日本のウィキペディアは、そういうところより、旧軍の、上官が部下を見捨てて逃げる行為を特筆していて、実例を数例出してます。軍規ないがしろにすべきでないのは上官も同じという日本の企業風土が頑張ってる。

第二章のとちゅうで、ソ連チェコ侵攻するのですが、作者の筆はやっぱりというか、鈍いです。でも、道浦母都子さんの本で天安門事件の記述を探すのに苦労するようなことはなくて、奥歯にものがはさまったような物言いで、書くことは書いてます。頁90。

第三章は、京都の新島襄はんがつくらはった大学(お墓に酔うて抱きつかはったらあきまへんえと)を単位不足で中退し、東京でクズ屋の仕事をやっていた作者(今の解体業とほんと雲泥の差、と思いましたが、よく考えると、当時も、クズ屋とクズ鉄屋はまったく違った。今の解体業は後者の後継)が、タクシードライバーロバート・デニーロのようにモヒカンになる感じで、ベ平連に加わっていく運動史。面白かったのが、ベ平連小田実のコワモテ関西弁にしろ開高健の圭角のない関西弁(頁113の、自宅でのもてなしの場面など、こういう人いてはる、とすぐ思う)にしろ、関西弁花盛りなので、東京九段の生まれの映画プロデューサー久保田圭之介という人や、ロス生まれ東京育ちの鶴見良行さんまで関西弁をしゃべっていて(頁119、頁144)作者は大分出身の九州男児ですから関西弁ネイティヴでなく、頁108「(大学で)身についたのは中途半端な関西弁の語学力」と卑下するくだりがあるくらいで、その作者が非関西人の関西弁をきちょうめんにメモっているところは面白かったです。そういうところ見るんだなあと。今の西日本というか、関東キー局の番組と、関西ローカルの番組両方流してる地方では、若者はけっこうトリリンガルで、地元のことばと、関西芸人などを話題にするさいの関西弁と、標準語/共通語と、チャンネルをザッピングするかのようにころころ切り替えていて、こういう着目はしないかもしれないです。あと、関西人もあまりそれは気にしいひん。いや、するかも。

頁122に、「おバン」という単語が出てくるのですが、これは1996年に出た当時を回想する本の座談会での発言なので、ベ平連のころにもう「オバン」という単語があったと思わなくていいです。このことばも死にました。

ベトナムかヴェトナムかの表記問題のくだりもあり、大島渚にベヘーレンの呼称だっせーとけなされたとか、「ヴェ」より「ベ」のほうが一文字少ないから(手書きで)書くのがラクだろう、の話が出てます。原稿料稼ぎなら一文字多い「ヴェ」のほうがいいんでしょうが…

頁136、小松左京開高健のざ・タッチ幽体離脱対談で、「イカレコレヤ(参った)」という単語が出て、分からなかったので検索しました。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

小松左京は『日本沈没』を書く前でしたが、ベトコン総動員で、ベトナムの国境線、中国ラオスカンボジアぜんぶ掘ってベトナムを東南アジアから切り離したら外国の干渉から解き放たれるのではないかという放談をしています。そんなことないのは、フィリピン参照。いや、台湾。日本はどっちカナー。

第四章は、そんなにないというか、南ベトナムに骨をうずめるつもりで移住してた邦人たちも、サイゴン陥落とは関係なく、治安の悪化で帰国とか、土地トラブルで相手がヒットマン雇ってころされた(陥落二ヶ月前)とか、そんなんで、今は昔の物語になっているという。で、当時、戦略村的意味合いの強制移住か、ふつうに村を焼かれたかで、作者の滞在地に移住して来てた人たちは、統一後、故郷に帰れた、はず、という話です。何も付け加えることはない。ベトナム

第五章は、滞在時交流があったが、あえて一㍉も書かなかった残留日本兵の人が、1991年に熊本に一時帰国した時のルポで、日本でその人がベトナム語を話す相手が作者くらいしかいなかったのか、何かベトナム語覚えてますかと聞き、作者は男性器をしめす「コンカック」と答え、相手をしらけさせる場面があります。そんなものかな。頁201。そのうちだんだん思い出していき、年配の年長男性には「オン」をつけてその後数字(一を除いて、長男がハイ、次男がバーとなる)で呼び、中年や青年への敬称の場合は、「チュ」をつけてその後同じ、となることを思い出します。女性の場合は「コ」「バー」「チー」をつけるんだとか。これは知りませんでした。松嶋さんというその方は「オン・バー」と長男の敬称で呼ばれ、作者は毎日寝坊して十時にならないと起きてこないので「オン・ムォイ・ジャ」(十時のおっさん)と呼ばれていたとか。頁211。作者は、社会主義になってもこうした敬称は廃れてないだろうと書いていて、まあそうだろうと思いますが、今度誰かに聞いてみます。同じページに、外国人がよく覚える「アナタキレイ」でしたか、「エムデップラーム」だかなんかの二人称、「エム」は、目上には使えないという記述があり、それも、へーでした。中国語みたいなもんで、平気でニーニー言えるかと思った(漢語も目上には"师傅,你啊,"とか言わないかもしれません)頁328には、「トイ・ニェップ・トーイ」という言葉がでて、「私は哀れです」とか「私はびんぼうです」という意味だそうで、農民の口ぐせと戦争の時教わったそうです。今の焼き畑研修生に聞いてみて、どういう反応になるのか。たぶん聞くとは思います。トイが一人称なのは覚えていて、「トイ・ラー・ングォーイ・にゃtt」と言うと、「ワタシはニホンジンデス」

『団塊ひとりぼっち』"NODULE (=baby boomer in Japan) ALONE"(文春新書)読了 - Stantsiya_Iriya

そんな感じでした。以上