ここに来るのも三度目くらい。最近、阿奈井文彦『ベ平連と脱走米兵』(文春新書)なんて本を読んで、その中には開高健の思い出も語られていて、それでこの日用事があって茅ヶ崎に来たら、こんな貼り紙があったので、行ってみました。前は茅ヶ崎駅コンコースの南口側エスカレーターの壁に、茅ケ崎市立美術館と開高健記念館の企画展ポスターが貼ってあったのですが、今は貼ってなくて、そうすると、まあ駅から外に出るだけだと、何も気づきませんで、今回市中で貼り紙見て、気が付けてよかったです。
開高健邸を改装して作った記念館の、お庭を哲学の小道と見立てて、ところどころに開高健の筆跡そのままで、開高健語録が建ってます。この語録はポストカードにもなっていて、「毒蛇は急がない」など、藤子Ⓐ不二雄の座右の銘のはずなので、開高健から安孫子素夫、否、安孫子素雄へと文化が伝播したのか、それとも同時発生的なものなのかと思いました。
上の右側の、リンゴの話など、庵野秀明が、いちいち木を植えるにはまず苗を探さなければならずめんどいので、じょうろで水をやるだけにカジの動作を簡略化してエヴァで使った、と勝手に思ってもいいと思います。
展示品の撮影は不可ですが、全景というか、景色的なのは可とのことでしたので、書斎の戸口のプレートだけ撮りました。
モンサンミッシェルならぬブールヴァール・サンミッシェルで、ほかにもコンコルド広場やら、ムーラン・ルージュはなかったかな、おパリのプレートがいくつかありました。フランスが好きだったんですね。
展示だと、秋元カメラマン葬儀のさいの弔文のさいごに、「永垂不朽 一路平安」と漢語の四文字熟語を並べていて、鄧小平の葬儀でも見た文章と、歌のタイトルが並列する不思議さを感じました。
南ベトナムの旗でなく金星紅旗が展示してありましたが、そこに何かいうつもりはありません。ただ、その後のボートピープルから神奈川県の難民定着、それとは何の関係もない昨今のベトナム人研修生大量受け入れを思うと、この時の戦時下の村々の暮らしの写真とその後の歴史とのギャップというか、戦争は戦争が終わっただけでは終わらないという思いなどがつのって、あんましまじまじ見れなかったのも事実です。
ニョクマムという言葉が日本で廃れ、ナンプラーに置き換えられ、ベトナム人のベトナムレストランまでもがこれはナンプラーですと日本人に説明するまでの天路歴程。
書斎へ行く廊下の扉にあった、もっと遠くへ!
書斎へは庭からも行けるのですが、庭からの叩きのようなスペースにあったレリーフ。たんじゅんにバッカスかディオニソスと思ったですが、字が解読出来ませんでした。
レリーフの上にはQ-ANNON、否、鹿の角。アラスカなので、トナカイだったかな?
現在では事務室になっている部屋へ行く扉のプレート。販売コーナーには著書がかなり充実していて、コロナ禍でかえって再版がバンバン出てるんだとか。元週プレ編集長現バーテンダーとの対談までまた出てるとは思いませんでした。私はこのバーテンの人を、茅ヶ崎在住と間違えて覚えていて、ビーバップハイスクールなどのヤンマガ元編集長とごっちゃになってるんだと思います。前から読もうと思っていた『壽屋コピーライター 開高 健』たる出版もあったのですが、今は読む本が溜まっているので、購入は見合わせました。川上書店と長谷川書店を混同するなど、係員の人をちょっと困惑させてしまったかなと、汗をかいています。以上