『けものたちは故郷をめざす』"Beasts Head for Home" by Abe Kōbō 阿部、否、安部公房作(岩波文庫)読了

オーエサンの『個人的な体験』新潮文庫巻末の既出文庫本広告を見ていて、読もうと思った本。私は、アベサンの小説もほとんど読んだことがないです。伊東純也サンの一件では私も新潮社どうかと思うのですが、それはそれとして、これは広告のまま新潮文庫で読みたかったのですが、近隣の図書館に在庫がなく、岩波文庫で読みました。解説は星条旗の聞こえないリービ英雄NHKの番組で旧満州の阿部公房ゆかりの地を訪ねる番組に出演したリービサンは、奉天日本人街の旧安部邸を訪れ、其処に住む人民解放軍老幹部から、戦後食糧難の時代に日本庭園を畑にしてしまったと釈明されます。その時代をひとことでいうとと問うと、"乱" とのこと。英語の"Ruin"じゃなくてヨカッタデスネ。

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カバー=近藤一弥 装画=筒井萌 岩波は電子版がないので、新潮も置きます。今年三月七日に配信開始とか。

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新潮文庫の表紙写真が何処か知りたくもあり。

本書はリービ解説によると、アベサンの初期作品だからか、めずらしく「大衆文学」を書いた、という、見方もあるそうで、確かにエンタテイメントというか、「ノワールのバディもの」と言ってしまえば、それでFAというくくりの作品でもあります。リービサンは本書に先行する『終りし道の標に』と本書の比較も紹介していますが、『終りし道の標に』という作品は、元は『粘土塀』というタイトルで、「一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語」©Wikipediaだそうで、結末だけは一貫してアベ調の「閉塞」を貫いてるんだなと思いました。

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1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。以後、安部は中国を再訪することはなく、小説家としても満洲における体験を書くことはなかった[注釈 4]。

4. ^ 満洲を舞台にした唯一の長篇小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れたものであり、のちに安部はエッセイ「一寸先は闇」に私小説を書かない理由を記している[7]。

けものたちは故郷をめざす 満州に育った少年・久木久三は一九四五年の敗戦、満州国崩壊の混乱の中、まだ見ぬ故郷・日本をめざす。極限下での人間の存在を問う、 サスペンスに満ちた冒険譚。故郷、国家………………何物にも拘束されない人間の自由とは何か。安倍文学の初期代表作。(解説"リービ英雄)
ソ連軍が侵攻し、国府・八路両軍が跳梁する敗戦前夜の満州―――政治の渦に巻きこまれた人間にとって脅迫の中の“自由”とは何か?

右が岩波文庫カバー折のキャプション。左は新潮巻末広告のあらすじ。「國府」「八路」の言い回しにガツンと来て、借りたというのが真相です。割と一気に読みました。読めた。ラマダンで食事の時間が空くので。

リービサンは本書を「冒険譚」としていて、確かに、結末の閉塞までは圧倒的に、生島治郎船戸与一がタイムスリップしてアベサン名義で原稿を書いたとしてもおかしくないほど、「ふてほど-1.0」感が横溢してます。そして、胡桃沢耕史『天山を越えて』『東干』を読んだ時も思ったのですが、大陸を齧った邦人のセンスが横溢してるとしか言えないと思いました。うまく言語化出来なくて、センスが、としか言えないのですが、横溢してる。それだけは分かる。

壮士、荒野を駆ける

「T市に八路軍の孤児収容所が」(頁23)「油と鼠の小便のまじり合ったにおい」(頁31)鼠の小便のにおいをかいだことのない者は、僥倖である🄫富野由悠季

頁32

(略)山東訛まるだしの中国語で言った。

「これに積むはずの荷物は、どうなったんかね?」

 久三は身をひき、思わずジャケツの下のナイフの柄をつかんだ。別の男が、きれいな標準語で答えた。

「間に合わんので中止だそうだ。」

 山東訛が念をおした。「証明書をたのむよ。おれは正直な人間だからな、おれがごまかしなんて思われちゃ、迷惑だからな。」

山東訛りがどんなものか、なんであるか知っている者は僥倖である🄫富野由悠季 要するにチャオズが標準語でギョーザが山東なのですが、クリリンが北京語で桃白白が広東語かというとそれはちがう(タオパイパイは北京語。ヤムチャが広東語)ピッコロはイタリア語でちいさいおちんちんの意味と聞いたことがあります。

本書の地名は、いろんな人の先行研究によると、主人公の生息地《巴哈林》以外はおおむね実在しているそうで、《昂昂溪》という実在の鉄道駅から南へ二時間ほど南下した町が《巴哈林》だそうです。頁40。読んでみると、彼らの旅のアンドロメダ終着駅、海浜の駅や港の名前、《平水》《沙港》もパシッとハマる場所がありませんでした。

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主人公は満州を制圧したソ連兵の小間使い、小僧さんみたいな下働きをさせられていて、そこから逃げるわけですが、母親が死んだ際の、モンゴル兵との、ことばが通じない中でのやりとりは印象に残りました。頁46。ロシア語は若いのでこき使われるうちに少し覚え、漢語はそれなりに出来るレベルが主人公です。戦前から大陸にいると、それくらいな人間は石を投げればあたるくらいいたのかも。

頁46

(略)旧市街に出る橋のところで、荷車をひきリュックをかついで行進してくる汗だらけの日本人の一群に出あった。先頭に赤い小旗をたて、誰もが胸に赤いリボンをつけている。(略)やりすごして、ふと、見えかくれしながらその後をつけていく十人ばかりの屈強な中国人の男たちに気づいた。しかし声をだすわけにもいかず、黙って見送るよりほかはない。

赤いものを身に着けて、ソ連に恭順の意を示して、ソ連兵からの略奪を免れようという作戦だったようです。でも漢人には関係ない。

頁47

(略)半日走りまわったが、八百六十五人の日本人はどこに行ったのか、もうすっかり消えてしまっていた。(略)恐怖と疲労にうちのめされ、道端の塀によりかかっていると、数人の中国人の青年がやってきて無言のまま彼をおしのけ、彼がよりかかっていたあとに一枚のビラを貼りつけた。

《東北人的東北(東北人のための東北》

頁50に、簡単な1946~1948の略年表が載ってますが、何を載せて何を書かないかを見ていて、すごく分かる気がしました。台湾の2.28事件は書く、國府の重慶から南京遷都も書く。大陸最初の人民政府樹立書く。海外未帰還の邦人総数が4,039,447名であることも書く。米寄こせデモ書く。国共内戦本格化書く。新憲法戦争放棄書く、6.3.3教育体制書く。ガンジー暗殺書く。

逃亡に失敗した主人公はそれでもなぜか、ロシア人たちから送り出してもらえます。日本ファシストにひどい目に遭った復讐に行くと誤解してくれたからです。

頁55

 アレクサンドロフが、幾枚かの紙幣を駅長に払い、その紙片をうけとって、久三にわたした。

「特別旅行者証明書です。」とわきにいた八路軍将校が思いがけないあざやかな日本語で説明した。

「この列車は鉄嶺ティエリンのすぐ近くまで行きます。瀋陽シンヤン市はは国民党傀儡軍が占拠しているから、ずっと東側を迂回してください。解放区はこの証明でどこでも通れます。行先は安東になってますがいいですね……傀儡軍にはこの証明をみせないように、注意しなさい。かえって危険かもしれないね……それ以上のことは、行ってみなければ分らない……」

 二年ぶりに聞いた日本語である。久三は思わずたずねた。「日本人ですか?」

朝鮮人です。」と相手は不愛想にこたえた。

 アレクサンドロフが手まねで証明書をしまうように合図した。

「お礼を言いなさい。」と八路軍の将校がうながした。

「ありがとうスパシーバ」と久三が小声で言った。

本書の北京語ルビは、読売新聞ルール読みとあさっしんぶんルール混在な以外は正確で、一ヶ所、シェンヤンをシンヤンと書いているとこだけおかしいです。さいごまでシンヤン。私はここを読みながら、解放軍の朝鮮族軍人は、だいたいこの後の朝鮮戦争で死んでるんだよなあ、何かでそう読んだ、人の人生ってやつは… とむにゃむにゃ思いました。

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遠藤誉サンは長春で八路の包囲兵糧攻めに逢い、籠城する國府と米軍機の食糧投下なんかも見ています。本書の主人公たちは北満から瀋陽迄直接南下するので長春は通らず、もう少し後に激化する国共内戦下のチャーズは経験せずに済みます。

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ハンバーガーの中にミミズ肉は入っている?DNA鑑定してみた【都市伝説検証】 - YouTube

頁61。この鉄道で主人公はバディとなる汪木枕wangmuzhenと出会います。自己紹介で福建語が話せると言ってる時点で私は彼が國府側の人間だと確信しましたが、明々白々だったはずが、今改めて考えるとなんでそう思ったかハッキリしないです。彼の「寝ようスイジアオバ」”shuijiaoba“は、読売新聞ルールの表記です。

頁63

 ここはハンガリアから中央アジアの高原を横切ってつづく湿帯草原の東の端であり、タクラマカンとゴビの砂漠で切断された黒土地帯がその東端でふたたび姿をあらわす場所でもある。

頁64、白城”baicheng“はイチョンと書かれ、半濁音なので朝日新聞ルールです。以降、だいたいの地名は朝日新聞ルール。シンヤンだけなぞ。頁78のコルロス前旗は下記。

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前郭尔罗斯蒙古族自治县 - 维基百科,自由的百科全书

页96に出てくる地名は、《胆榆》だけ検索で出ませんでした。あとは出た。下記です。

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頁99、汪木枕は複雑な民族混成の血筋であることが分かり、ここから朝鮮系としても通るような高石塔という名前を用いだします。彼は、日本人になる時は手鼻をかまない、朝鮮人になるときは毛抜きでひげを抜くなどするそうです。

頁98

「(略)日本人はいいよ。しかし負けちゃったなあ。(略)」

高はたぶん出方を間違えると、國府側でも漢奸として処刑されてしまいそうな過去の持主だったのではないかと私は思います。だからあれほどまで人目につかないよう行動しようとした。

頁265、日本人密輸団の首領、大兼が鼻をかむ場面があるのですが、「手鼻ではなく、ハンカチを出してかんだ」とわざわざ書いてあります。私も最初に中国に行った時はそこらじゅうで手鼻をかんでいたので、例の唾吐きとコンボで驚いたものですが、唾吐きはなくならないのに、手鼻は急速に見なくなったです。先祖に言わせると、日本も戦前はかなり手鼻をかんでいたらしいのですが、アベサンはまた別の見解なのかな。で、これは私の個人的な思い出なのですが、最初の旅行中、あまりに手鼻が印象的だったので、手鼻を中国語でなんと云うか、絵入りの筆談で中国人から教えてもらい、正しくは〈擤鼻涕〉”xingbiti“なのですが、その時は相互誤解で、〈鼻涕〉"biti"、はなぢるだけ相手は紙に書き、私はそれを「ピーティー」と半濁音でメモしていました。のちに中国語を学ぶようになると、〈鼻〉"bi"が破裂音でないことも理解出来、日本にいた時から台湾人にマンツーマンでコレクトな発音を教授されたような人から、「バックパッカーの語学学習はあてにならないなあ」なんて、半濁音「ピーティー」を揶揄されたりしました。とても懐かしい思い出。

頁163、寶順號"baoshunhao"は検索で出ませんでした。コルチンツゾイチュンチは下記。

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道なき荒野を数日間野宿しながら彷徨った二人は街道に出たのち、路銀交渉をして馬車に転がり込みます。

頁198

(略)若者は道ばたに火をおこして湯をわかし、二人を外にかつぎだした。ゆすっても、なぐっても、目をさまさない。強い酒をふくませると、やっと意識をとりもどした。冷たく凍った煎餅チエンビンを火にあぶり、味噌をぬって食べさせる。にんにくをかじらせ、熱い湯に酒をたらしてすすらせる。二人は半分眠りながら、むさぼり食った。(略)

 ほうっておけば、二人は、いつまでも食べやめなかっただろう。高が三枚半、久三が四枚目を食べておえると、若者は火を消して食糧を入れた柳の籠に蓋をした。若者は親切な心の持主であった。

ですがこの後車夫は國府に捕らえられ、高はこれみよがしに若者をいたぶります。

頁204

「だから、考えているんだ……おれの考えじゃ、そいつらは国府の連中だと思うんだがね、八路は、行儀はよろしいからな……おれの考えじゃ、そうだな……つまり、このことは、大事なことなんだ……」

ホルチン左翼中旗からホルチン右翼前旗までごく近いとして、頁205の避難民行き倒れを葛根廟事件と重ね合わせる考えもあるようですが、重ね合わせるのは問題ないですが、場所は遠いです。ホルチン右翼前旗は白城よりさらに北に遡ってしまう位置です。

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Gegenmiao massacre - Wikipedia

頁210

(略)国府軍はたぶん世界で一番将校の多い軍隊であり、ときには兵隊の数よりも多いことさえある。(略)

このページに出てくる銭家店は下記。

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頁227、日本の密輸船がサッカリン食用油を買いに来るという《沙港》"shagang"は、大連市内とコロ島近くにそれっぽいのが出ましたが、どっちか分かりません。

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頁247、主人公はたぶん瀋陽で、行き場もなく公園に寝泊まりします。戦後焼け跡派ホームレス中学生

令和は平和。

同じ公園に中国人ホームレス中学生もいて、犬をとらまえてはその肉でたつきの道としている中学生なのですが、彼に《日僑留用者住宅》の所在を教えてもらい、なぜか「チャンコロめ!」と気持ちとうらはらに毒づきます。頁247。それまでの立場を逆転してまで感謝するのはむずかしい。

遠藤誉さんの父親も星新一の父親も留用者でしたか。そこの人は何の役にも立たず、けっきょく主人公は日本人密輸船につながって、中文が上手くない彼らにかわって通訳したりしながら、船に乗せてもらって帰国、そして衝撃的な結末、それまでのロードムービーをすべてひっくり返す、アベ的閉塞の世界に突入します。

Beasts Head for Home - Wikipedia

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/d/d8/Cover_of_Beasts_Head_for_Home_by_Kobo_Abe.jpg左は英訳表紙。表紙がラストネタバレという…

リービ解説によると、生前阿部公房は本書英訳を「地味すぎる」からノーと言っていたそうで、没後立派な英訳がなされたそうです。

私はこのオチがだいきらいで、もっとマシなオチをつけろよとしか思わないのですが、私が唯一読んだ『砂の女』『箱男からしてもアベサンはこういうオチしかつけられないんだろうな、カストリ雑誌エログロナンセンス家畜人ヤプーと同時代だからしかたないか、という。『箱舟桜丸』も読んだと思うのですが、こういうオチではないかったです。たぶん。時代が違うせいか。

やっぱり引き揚げ者の生島治郎だったかが、日本人の苦力がいるとは思わなかったと回顧してることや、梶山季之だったか五木寛之だったかが、やはり日本で日本人の肉体労働者を見て、半島では肉体労働は邦人のするものではないかったので衝撃を受けたことなどと同類項のことが、結末に向かって主人公に襲いかかります。それは、頁265で、桜をまだ見たことのない大陸育ちの主人公が、桜も焼けてしまったろうかと気を揉む場面と表裏一体で。

ここまで、少年が主人公なのに、衆道っぽい展開がまるでないので、BL好きな読者は本書読んでせっかくバディものなのにツマラナイと思ってたと思いますが、頁293でやっと、「無事に出てきたら、可愛がってやるぜ!」というセリフが出ます。「えっ、それってそういう意味じゃないんじゃん? こじつけやめようよ」と言われるかもしれません。そしたらやめます。以上