『開墾地』"A Clearing" زمین زیر کشت توسط گریگوری خزرنجاة by Gregory Khezrnejat グレゴリー・ケズナジャット 読了

作者の前作『鴨川ランナー』*1を読んで、なんでこの人はイラン人の苗字なのにクリスチャンネームのグレゴリーなの? とものすごく疑問に思い、次作の本作ではイラン人は養父とのことだったので、速攻読みました。

装丁=川名 潤 「群像」2022年11月号掲載

薄いです。九十ページしかない。それでハードカバーで¥1,300JPY税別。「アメリカではこういう本もありますよ」とでもてきとうこいて講談社を説得したのかもしれませんが、それって、贈り物にするような本*2のことですよね。『サンタクロースって、いるんでしょうか?』みたいな。「芥川賞の候補に入れてくれなんて頼んでない」とも言ってるかもしれませんが、法政大学としてはハクがつくでしょうし、推してた人たちはいたはず。薄い本を出しちゃうと、承認欲求が満たされちゃうのか、その後書かなくなっちゃう人がいるんですよ。私が読んだ本でいうと、候補作で『肉骨茶』*3受賞作で『百年泥*4作者が性急に出版を求めたとしたら、受賞バックレで書かなくなることを危惧されたとしても、さもありなんと。

葛ノ葉 縮圖

表紙は、どこかの和刻本から引っ張ってきた葛のイラストと、現在米国で有害植物ならびに侵略的外来種として指定され、必死に駆除が続けられている葛の繁茂風景と、おそらく作者が幼少時葛とたわむれる写真。白人のこどもはかわいいので、リービ英雄サンの本でも同様に、幼少時のリービサンの写真(父親が台湾駐留軍だった時代)が表紙に使われたことがありました。
確かに頁32あたり、葛が赤土の地滑りを防止するため日本から輸入され、南部訛りでカッヅーと呼ばれるようになり、空き家ばかりの街をグングン呑み込んでいくさまが語られます。また、それとクロスするかのように、頁42、産業のない南部の地方自治体が日本企業誘致に必死だった時代があり、かつては街に日立のブラウン管工場があったが、すべては閉鎖され、日本文化センターは廃墟となり、冒頭、キリギリスが"katy did, katy didn't, katy did, katy didn't."と鳴くのみとなった。ただ、主人公が日本語に触れたのは、ジャパンウエルカム時代の残滓の、中学の日本語授業が最初だった、と書かれます。

…中国も同じように、米国カントリーサイドがホワウェイ始めとする中国企業誘致に目の色変えて、中国語学習に余念がなくなると思ったかもしれませんが、そうはならなかった。しかしそれは余談。で、しかし葛って、本書の主題ではないと思います。芥川賞の選評でも三人もの選者が葛に触れている*5のですが、完全に余計なことかと。表紙といい、どうかしてる。葛は主題じゃない。

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アメリカでは)繁茂力の高さや拡散の速さから、有害植物ならびに侵略的外来種として指定され、駆除が続けられている。

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クズは日本原産と考えられている植物であるが、原産地においては、クズは冬になると地上部が枯死するため、それほど重大な脅威になることはなかった[13]。

……

アメリカ南東部の気候・環境はクズに好都合であり、クズは事実上、歯止めが効かないほどに繁茂してしまった。

表紙に英題が併記されており、英題は"A Clearing"です。

Gregory Kheznejat A Clearing

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確かに開拓地の意味もあるんですが、開拓地というと、日本ではフロンティアという英語を連想することが多いのではないかと。ちなみにグーグル翻訳で「開墾地」を英訳すると、"Cultivated Land"になります。

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グーグル翻訳で"A Clearing"を和訳すると、「清算」になります。グレゴリーサンは、そっちの意味にかけてるんじゃいかと、勝手に思いました。

本書の舞台は、前書のネバダではなく、サウスカロライナです。主人公の名前はグレッグでなくラッセルで、姓はケズナジャットでなくシーラージです。シーラーズの人、という意味だそう。頁16。

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ということは、ケズナジャットは、どこかそんなような名前の地名の人という意味なのかと思いました。

ガズニかなと最初思いましたが、"Kh"でなく"Gh"だし、イランでなくアフガンだしで、ダリ語ペルシャ語とほぼ同じですが、除外しました。

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そうなると私はカズヴィーンくらいしか思いつかず、たぶん違うだろうなと思ってます。カズヴィーンからラシュト、バンダル・アンザリあたりの「イランの稲作地帯」へ一度行ってみたいですが、たぶん死ぬまで行くことはない。

ガズヴィーン - Wikipedia

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主人公ラッセルは実の父(たぶんヨーロッパ系統の白人)を知らず、二歳の時に母親が再婚した相手のイラン人(名前は出ません)を父として育ちます。七歳の時に母親はその家も出奔し、行方知れず。父親は革命前に米国留学し、そのままいついたクチ。工場技術者。

母親が出て行った後、父親はラッセルに宣言します。「あのな、言うまでもないが、一応言っておこう」「俺ときみとの関係は、一切変わっていない」頁38。葛がはびこる土地は母方の曽祖父が購入した土地で、家屋には母方の祖母が住んでいた。父親は母親が出て行った後も、ずっとそこに住み、修繕と手入れを続けている。

ロスにリトルテヘランがあることも記されます。しかし情報として出るだけで、ラッセルがロスのそこに行くわけではない。頁44。父親の年下の従弟が住んでいて、彼はラッセルのことをラスールと呼び、V音がW音になったりするそうです。インドと同じや。

こういうことが書きたくて書いた小説なんだと思います。説明したかった。日本語で。分かる日本人がどれだけいるか分からないが、言いたかった。

だから芥川賞とか、つけたしでどうでもいいはず。

頁68、葛を焼き払うためのバーナーを買いにホームセンターに行き、燃料が軽油六、ガソリン四の混合ガソリンが推奨と店員に説明を受けます。草刈り機の混合ガソリンと混合比が違うなと思いました。

父親はペルシャ語のポップスを聴き、'60年代のイラン映画(喜劇)を飽きもせず繰り返し視聴します。しかしリトルテヘランには移住せず、サウスカロライナに住み続ける。そして、ペルシャ語を学びたいと申し出た息子に、その必要はないと却下します。きみは英語が話せる。どこへでも行ける。どこに行っても、言いたいことを言える。きみは自由だ。だから…

これが言いたかったことだと思います。しかしラッセルは長じて日本語に出会い、日本語の書き取りなどをしている時間に、落ち着きを感じます。ひとはふたつの言語のはざまにいる時、突然第三の言語に救いを求めるかのように執着したりすることもあるはずです。それも言いたいのかもしれません。葛じゃない。父とイランについて、こういう経緯で、これだけしか語れない。それを言いたかった。そしてそれをマテリアルなかたち(書籍)で誰かに届けたかったのかもしれない。

これ以降ケズナジャットサンは小説を発表してるのかいないのか。燃え尽きるには早すぎると思いますので、また読ませてけさい。以上

【後報】

主人公ラッセルはペルシャ語を習ったわけではないですが、父親が日常遣いでペルシャ語を電話で話すのを見てるので、「アロー、サラーム」が「もしもし」だったり、イランの新年がノウルーズだったりするのは、意識下に沁み込んで分かっています。ノウルーズが注釈なしでポンと書いてあって、米国人読者なら分かるんだろうかと思いました。

頁009

 鍋の中のシチューを覗き込んだ。赤茶色のソースでぐつぐつと煮詰まっているプラムと鶏肉。ターメリックとシナモンの香りがする。もう一つの鍋は蓋をされていたけれど、中身を見なくても黄色いサフランライスが入っていると分かる。

(中略)

 キッチンの片隅にある二人用のダイニングテーブルに皿を運び、ラッセルは一口食べた。甘みと酸味の利いた、温かくて円まろやかな味が舌の上に広がった。

「美味しい」

 ラッセルが言うと、父親は満足げに微笑んだ。

「(略)日本じゃこんなの食えないだろうな」

(略)

「まあ。ライスならよく食ってるけど」

「でも向こうはあれだろ、あのもちもちしたやつ」父親はフォークでかりかりとした黄金色のサフランライスのお焦げといもを持ち上げた。「ちゃんとしたものは久しぶりじゃないか」

日本のイラン料理屋も頑張ってけさい。ほんとそう思う。イラン料理を出すインド料理屋も、出ないせいか、もうすっかり、イラン料理を頼むといやな顔するし。トマトと玉ねぎ焼いてつけるだけの手間が、そんなにいやなのかなあ。

(2023/12/22)