『青年は荒野をめざす』を読んだ*1ので、なんとなく。
文庫版だけでも講談社文庫、角川文庫、新潮文庫と三度文庫化されていて、読んだのは新潮文庫。電子版があるのは角川文庫(紙版と表紙は異なるようです)
ロシア語タイトル「ダスビダーニャ、マスコフヴスキイ・スティリャーギ」は最初の講談社単行本表紙から。映画のサントラジャケットなんかにもこのキリル文字は見えます。サントラは英題を前面に押し出してるのですが、何故か「愚連隊」を英訳してません。「グッバイ、モスコー」としか書いてない。
作中でも「スティリャーガ」はみゆき族、太陽族とでも訳すべき、古い表現と書かれていたのですが、どうもこの単語を英訳すると、「ヒップスター」になってしまうらしく、それで英訳は「愚連隊」を訳さなかったのかと勝手に考えています。
左は同名ロシア映画の役者さんたちの撮影待機中の写真らしいのですが、どうにも滑稽なイメージがついて回るようで、「愚連隊」でなく「与太郎」なのかもしれません。いや、この役が、ダサい青年が無理してオサレしてはっちゃける役柄だから、こうなだけなのか。
ちなみに、グーグル翻訳で「さらばモスクワ愚連隊」をロシア語に訳すと、「さらば」はダスビダーニャでなくプロシャイ"Прощай"、愚連隊はスティリャーギでなくバンディツキィ・パルク"бандитский полк"になりました。バンディッツのロシア語かな。主人公は日本で白系ロシア人と同棲してたのでロシア語がさべれるという設定で、どこまで巷間「ある」話なのか、それは分かりません。中薗英助サンによると、戦後、中国の白系ロシア人はだいたいアメリカに行ったそうですが、日本じゃどうだったのか。そもそもの母体数も少なかったでしょう。
下記はロシア映画「スティリャーギ」の、トレイラーでなく、「ヤ リュブリュー ブギウギ」"Я люблю буги вуги"(ぼかぁブギウギが好き)という劇中歌?のキリトリ動画。
邦画「さらばモスクワ愚連隊」の映画ワンシーン動画もあったのですが、『GIジョー』という別の短編小説の場面です。映画にした時くっつけたのか。
なんでこんな話をえんえん書くかというと、新潮文庫の表紙のキリル文字が読めなかったから。
上は新潮文庫カバー(部分)藪野健 画 「赤の広場」のロシア語表記、クラスナヤ・プローシャッジの「ジ」"дь"が抜けてるだけということに気づくまで、だいぶかかりました。分かってみればアホみたいな話。スティリャーギ無関係。
右はカバー裏の内容紹介。左はカバー折の新潮文庫五木作品(部分)色男だっただけに、『ゴキブリの歌』や『にっぽん三銃士』といった三枚目ふうの題名も書いてゆかねばならなかったという。『内灘夫人』も読んでませんが、50年安保の話なのかな。これが世界のハルキ・ムラカミなら、あのボタンダウンのアイビールックこそ正統派ヤポンスキィ・スティリャーギですので、あえて三枚目ふうの作品を書く必要もなかったかと。『風に吹かれて』から『風の歌を聴け』までの天路歴程。「呼び屋」は死語のようで死語でない単語。故井上ひさし作品で唯一、夏休みの読書感想対象小説として、その薄さゆえに半永久的に生き残れるであろう『ブンとフン』に悪魔の呼び屋が出てくるので、それで多感な思春期に世代を越えて刷り込まれる単語のひとつに「呼び屋」が残ってると私は思ってます。今度オナクラクンに確認してみよう。彼は本を読まないので、『ブンとフン』も読んでなさげですが、さてどうか。
表題作以外に、『GIブルース』『白夜のオルフェ』『霧のカレリア』『艶歌』を収録してるのは、各文庫共通と思うことにします。違うのかもしれないけど、まあいいや。
解説は齋藤愼爾という人。虚飾が多くて、何が言いたいのか分からない文章。植草甚一サンと張り合ってるのかもしれない。読んでいて思ったのが、五木寛之サンは、歌詞を書いているうち、虎舞竜のロードなんか目じゃないほどの、遥かに長い叙事詩的歌詞を書きたくなって、それで小説という表現方法に切り替えたのかもしれないということ。それだとちょっと納得します。
表題作頁21(左)と頁40。韓国の韓にルビ振ってるの初めて見ました。振らないと「からくに」とでも読まれてしまっていたんでしょうか。右は、まさかロシア、モスクワを舞台にした小説に「ちゃんころ」なる言い回しが出てくるとは夢にも思わず、虚を突かれました。ロシア語で中国はキタイ(契丹由来)中国人はキタイスキーですので、ホージャってなんだよと思いました。
ホージャってのは、オスマントルコほかの官職名でもあるんですが、この場合、中央アジア、トルキスタンのとんちものの主人公と思います。五木サンは満州でなく半島ですので、胡人奴(ホインノム)やオランケ(오랑캐)のノリでロシア語のなかのホージャを捉えていたのかもしれません。漢語世界の発想からは、《阿凡提》が「ちゃんころ」になるとはなかなか考えつかない。そもそもホッジャが"afanti"になってしまう漢語西域用語もふしぎですが。
『さらばモスクワ愚連隊』は、オチがあんまり突き放してるというか、あっさりしすぎだなという感じで、それが如何にも吟遊詩人の物語る流しの物語の趣がありました。オチは問題でなく、サビや山場を語ることのほうが大事。頁24に説明抜きに「グム」(国営百貨商場)が出てきて、当時の読者は説明抜きで分かったのかと驚きました。これも文化資本の一種でしょうか。
また、頁34、二等書記官の部屋で米を炊いてみそ汁で食事してじゅうたんに寝そべって煙草を吹かす場面を読んで、じゅうたんバーが出来る前の描写なのか、後の描写なのか知りたいと思いました。この二等書記官は出世のため政治家の娘婿になったので、嫁には頭が上がらなくて、嫁はズージャに理解がない感じです。
『GIブルース』はベトナム絡みでこれまた「生きながらブルースに葬られ」って感じの話でした。阿奈井文彦サンや山口文憲サンじゃないですが、徴兵忌避否脱走兵の米国人をかくまって北欧経由で逃がす話につなげてもよかったけど、五木サンも引き揚げ者なので、ついつい『けものたちは故郷をめざす』*2と同じオチにしてしまったのかもしれないと思いました。
『白夜のオルフェ』ストックホルムにたむろするアルバイト邦人たち、ルー大柴の原風景の中に、黒人混血孤児がいて、という話。「中近東で山賊に襲われて、チェーンでしめ殺して逃げてきたという日本人学生」の噂話が出ます。むかしのバックパッカーはたくましかった。頁123。下記の歌は頁150に出ます。
「からはどこんねけ」「海の果てばよ」「しょうかいな」の「しょうかいな」は「そうかいな」の訛りでしょうか。「しょうがないな」の意味でしょうか。意外に分からなかった。
『霧のカレリア』小国フィンランドの歴史についてお勉強する話。スオミって、白人フィランド人にも使える言い方なんですね。14歳の無軌道むすめが、最後まで名前が出ないのことに、最初読んだ時は気づきませんでした。青春ダイナマイトスキャンダルで末井昭サンの愛人役を演じた女優さんのイメージ。
『艶歌』はドメスティックな話。敵プロデューサーは原田芳雄のイメージでした。PTAが勝負をひっくり返すリーサル・ウエポンの役目を果たすとは。ふしぎな時代だった。戦後とはなにか。
以上