装幀者名記載箇所見つけられず。カバーはP.Vereshchaghinという人の絵で、モスクワのプログレス出版『ヒストリー・オブ・モスコー』から。新広場の古物市だそうです。左の建物が商品倉庫と事務所で、いちばん右がキタイゴロドの城壁、その左の三角屋根はウラジーミル塔、その左はパンテレイモン礼拝堂。*1
stantsiya-iriya.hatenablog.com
奈倉有理という人の上記の本に出て来た本のうち、これはブンガク作品ぽくないので読めるかなと思って読んだ本です。別の意味でなんでした。
作者のギリャロフスキーという人は、腕っぷしの強い荒くれルポライターで、ヤヴァいところにもどんどん取材にいかはるので、そっち方面の一人者だそうで、そういう人が書いたモスクワの貧民窟や治安のよくない地区などのスケッチです。日本でいうと、たくさんそういう人はいるでしょうが、私が近年読んだ本だと、『魚とヤクザ』の作者とか、正直不動産の原作者とか、そういうジャンルの人たちのロシア版といった感じでしょうか。『最暗黒の東京』とか『北京歳時記』とか『満韓ところどころ』とかジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』とか。
Vladimir Gilyarovsky - Wikipedia
Гиляровский, Владимир Алексеевич — Википедия
英語版やロシア語版にはこの人の愛称は書いてませんが、日本語版には「通称ギリャイ」と書いてあって、しかしパウストフスキーという人が書いた本書の序文や、奈倉さんの本では愛称「ギリャイおじさん」とあり、"Uncle Guilay"でも検索結果が出ないこともなく、露語"дядя гиляй"はそれなりに出ます。дядяはドラドラではなく、ジャージャーと読むみたいですので、スターウォーズのファントムメナスなんかに出てくる、うるさいキャラはオジサンなのかと思いました。
ジャージャーハイサイ。
上記三言語ウィキペディアでは、ジャージャーギリャイはモスクワの北方五百キロという、東京と大阪くらい離れた田舎出身としか書いてませんが、祖先はコサックだったそうなので、コサック=ウクライナということで、ウクライナ語版ウィキペディアでは、彼のウクライナ愛についての一面にも触れています。
Гіляровський Володимир Олексійович — Вікіпедія
下記が、当該箇所のグーグル翻訳と原文。
ウクライナ語版だと、ギリャイオジサンのウクライナ語をこのように評価してますが、英語版では、画家のレーピンサンとはウクライナ語でやりとりしていたとあります。
Repin was a lifelong friend, with whom Gilyarovsky often corresponded in Ukrainian.
本書のパウストフスキー序文でも、アンドレーエフという人のゴーゴリ像台座のタラス・ブーリバのデルモはジャージャーだとか、レーピンサンが描いた「トルコのスルタン宛ての手紙を書くザポロジエ・カザークたち」の一人のデルモは彼だと書かれていて、諸語ウィキペディアにも同様の記述が見られます。
Запорожцы (картина) — Википедия
この絵。
この人はタラス・ブーリバで、そのデルモがジャージャーだそうで、しかし、この絵のロシア語版ウィキペディアによると、サンクトペテルブルク音楽院のアレクサンダー・イワノビッチ・ルベッツ教授デルモ説もあるそうです。いや、両方参考にしたのかな。ニュアンスが汲み取れま千円。タラスブリバリ。タラス河畔の戦いとは関係なく、従ってタラス・ブーリバサンが製紙法を唐から西方世界へ西遷させたわけでもないと。
この人はタラス・ブーリバではありません。
しかしまあ、2010年代に急速にウクライナ語の確立が進むにつれて、このようにそれぞれの文化要素の強調がなされ、至る所で角突き合わせるようになったとすれば、煽りに煽ってドンパス戦争なむなしということなのか、あるいは紛争や緊張状態がまずあってそういう事態になったのか、鶏が先か卵が先かで、最初の親はまあ、鳥類でなく爬虫類だったと思うのですが、どういうかなあ、やんぬるかな、おえんという。
で、本書ですが、奈倉さんの本には中公版しか書いてませんが、『モスクワとモスクワっ子たち』という原題直訳が併記してあるのがミソなのか、現在はスラヴァ出版という別の出版社が電子版を出してるみたいです。
帝政末期のモスクワ (中央公論社): 1985|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
帝政末期のロシア人 (中央公論社): 1986|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
わが放浪わが出会い : 帝国末期のロシア人 (中央公論社): 1990|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
上記中公版は上と下が文庫化され、いずれも今は品切れ再版未定。
本書のスラヴァ出版版は、原題直訳で再版され、安倍昇吉、否阿部昇吉という人の編になっています。中公版と内容に異同があるか知りませんだ。
ほかの二冊もスラヴァ書房から電子化されてます。上の阿部さんがスラヴァ書房をやってるそうで、映画「アフリカン・カンフー・ナチス」で東条英機を演じた便利屋さん同様、お隣の相模原市に住んでおいでとか。
共に生きる。しょうこ。相模原と言えばそれを思い出すわけではありませんが、
本書は八ページにわたる白黒写真の当時のモスクワ風俗、既にソ連となった後の第二次世界大戦前の1934年に書かれた「著者より」と、訳者あとがきと、モスクワ市街地図・建物新旧対照一覧と、事項索引と、人名索引と、折込の20世紀初頭モスクワ市街地図がついてます。
モスクワ市街地図・建物新旧対照一覧は、こんなの。
宗教関係の施設を切り取って、宗教は阿片というマルクス主義者の狂信ぶりをクローズアップ現代したいんやろ、せやろ、というわけではありません。
グラビアページの写真は、市街の景色と、群衆のと、あとはこんなの。だいたい、右のように主観的ななんだかそうでないんだかみたいな貧困ガー的服装等へのコメントがついてますが、左の「いちご売り」だけはあまりに理解不能な第七銀河星雲の彼方だったようで、それしか書いてません。三陸のいちご煮*2を売ってるわけではないと思います。
「ヒトロフカ」というのが貧民街で、「スハレフカ」が泥棒市、「ネグリンカ」が地下水路、「ノルブリンカ」はラサのダライ・ラマの離宮だったかな。スハレフカは違うかもしれません。
Хитровская площадь — Википедия
あとがきでの謝辞は石島ゆたかさんというモスクワ在住の方と、中央公論社の糸魚川昭二さんと、あと「多くの方」「陰で支えてくれる人たち」へ。「翻訳テキスト」は1968年刊行のソビエト連邦モスクワ労働者出版所版。
やっとここまで書けて、以下感想。
【後報】
最初は最初から読み始めたのですが、意外に冗長で、各ストリートの名前も、訳語に原音を模して振られたカタカナルビがちっさくて読めなくていらいらして、こりゃアカン、興味のありそうなとこを読んでみようと、「銭湯」の個所を読んだですが、モスクワの銭湯というか公衆浴場は、サウナがあるのは勿論ですが、貸切の個室風呂があってというくだりで、中国東北でそういった一人用バスの浴場、〈盘浴〉とか言ったかな、に行ったなあ、ロシア国境の近くだった気がする、と思いましたが、それだけでした。そうすると、あとはもう流し読みの世界です。
頁161、ネズミ捕りに猫は効かなくて、フォックステリアが効くとか。知りませんでした。
頁98は、眠剤入りの酒を飲ませて身ぐるみ剥ぐ暴力飲み屋潜入記で、出された酒に口つけず乾杯も拒否ってたら、「俺の酒が飲めねえのか」で、押さえつけられて無理矢理飲まされそうになる機先を制してメリケンサックを相手の歯にお見舞いして折る場面。結局、なんだなんだで加勢に来た別室の連中が、知り合いの馬車の御者だったり、警官だったりで、もめごとになることもなく解放されるという話です。メリケンサックを容赦なく使ったので、現場のボスの飲み屋の親父は歯折ってます。
その話と、そのあたりの「ネグリンカの秘密」なんかが好きです。
頁346「オルスフィエフ砦」は、九龍城もかくやの、職人と徒弟、丁稚密集の集合住居化した建屋で、アゾフスターリ要塞はひとつの文化伝統にのっとったのかと、勝手に妄想しました。何かの説明によると、ロシアは、農奴制が崩壊してから都市への貧困層の流入が顕著になったそうです。
同じページで、雇われ職人や徒弟の彼らの食事は雇用主供給で、かたまり肉からひとさじとってよくて、黒パンとか、あと、「そば粥」とあるのはカーシャだと思いますが、それにラードを掛けるか、「精進日」だと植物性のバター(マーガリンでしょうか)を掛けるんだとか。オーソドックスに精進日があるとは知りませんでした。
もうこれで以上です。
(同日)