『青年は荒野をめざす』"JUN AND JAZZ GO HAND IN HAND" 五木寛之 HIROYUKI ITSUKI(文春文庫 新装版)読了

安部公房サンの『けものたちは故郷をめざす』を読み*1、なんとなくこれも読みました。

装画・柳生弦一郎 AD・鶴丈二 解説は植草甚一。1972年文春刊「五木寛之作品集」第三巻(『青年は荒野をめざす』『悪い夏 悪い旅』収録)の解説を再録とのこと。英題はカバーから。

JUN AND JAZZ GO HAND IN HAND

青年は荒野をめざす - Wikipedia

週刊『平凡パンチ』に、1967年3月から10月まで連載した青春小説[1][2]。

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ズージャの小説なのにフォークルの時点で流石平凡パンチ、四季・奈津子。私は五木寛之さんは逆ハン愚連隊と仏教の旅くらいしか読んでないはずですが、本作は、存在の耐えられない軽さ、軟派こそ我が人生、文化資本炸裂、な小説でした。

文化資本 - Wikipedia

 文化資本(英語: cultural capital、フランス語: le capital culturel)とは、社会学における学術用語(概念)の一つであり、金銭によるもの以外の、学歴や文化的素養といった個人的資産を指す。フランスの社会学ピエール・ブルデューによって提唱されて以来、現在に至るまで幅広い支持を受けている。

なにしろ頁17でもういきなりベルグソンのエランビタールということばが出て、それは検索で分かるのですが、そのすぐ後に出るフランビタールは検索で何も出ないのです。

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頁19に出てくる小説は晶文社〈文学のおくりもの〉シリーズの一冊。第一章は新宿のモラトリアムからナホトカ号迄。主人公は自称中流家庭ですが、都内在住ですし、父親は家業の医者を継ぐ気がないので商社の海外駐在員になった男だそうなので(頁20)中流のハードル高いなと思いました。文化資本。せめて住んでるのが、新宿が舞台なら戸山住宅とか、そういうふうにしてくれないと浮かばれない(そそのかされた読者が)

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頁43

「麻薬による一時的昂揚は、ジャズの創造とはなんの関係もない、とユーグ・パナシェは言ってますが」

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新潮社なら注釈をつけてたと思うんですが、当時の平凡パンチ読者はこの辺お茶の子さいさいで読めたんですかね。

頁75、モスクワでスラブ美女のスッチーとハメハメする展開で、日系二世部隊のスローガンでお馴染みの文句が出るのですが、私はこれを"GO FOR BROCK"ゴーフォーブロックと覚えていて、"GO FOR BROKE"ゴーフォーブロークと正しくここで書かれていても、違和感しかありませんでした。まちがって覚えていたから。

第三章、四季・波留inストックホルム症候群から登場する、老人のような美青年ケン(女衒)が妙に印象的で、要するに他人の人生を狂わせる、くさった息を吐くタイプの人間だからだなと思ったのですが(ホスト狂いを売春させて貢がせるタイプ)彼もまた名乗る名前が「ジャンバラヤ・ケン」で、「さらば若きカマラートよ」なんて気障でかつ意味不明なせりふを言うのです。頁139。

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要するに英語で言うコムレイド、同志の仏語。ドがトになるだけで分からなくなるなんて、シット。

頁283、ソニーロリンズの曲、ナイジェリアを逆につづったエアージンが出ます。

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考えたらマイルス・デイヴィスはナイジェリア顔ですよね。鬼瓦。

エアジン - Wikipedia

それでまあ、ルー大柴でおなじみの北欧を経ておフランス、花のパリに行くわけですが、スウェーデンで働く労働許可証とか、アメリカでミュージシャンが働くにはユニオンに入らなければならないとか、そういう記述も出ます。ブルージャイアントにユニオン云々の話は出ないので、過去の話なのでしょう。頁331。

頁358、スペインの古さにはディグニティーがある、というせりふがあり、またそんなワカラナイことばを、と思いました。シケたん(試験に出る英単語)をちゃんとぜんぶ暗記しなかった人。

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ディグニティ・セラピー | アンチ・キャンサー・リーグ | がんの知識・講座・研修 | 愛知県がんセンター

 「ディグニティ」とは、尊厳という意味です。つまり、本療法は、終末期の患者さんの尊厳を維持することを目的とする精神療法的アプローチのひとつということになります。

四季・布由子。関係ありませんが、五木寛之さんの四季シリーズが出た時、さっそくフランス書院文庫が凌辱四姉妹、四季・ナントカ子というのを四冊出していて、そういうので欲情する人がいるんだな、コミケでエロパロややおいばっかが売れるのと同じ原理だな、と思ったです。

四季。亜紀子。海街ダイアリー。植草甚一サンの解説は輪をかけて文化資本で、読みながら、私もかつて飯倉のキャンティ(の前)に行った時、こんな便の悪いところ(後年チーマーも出なかった)がオサレの爆心地だったんだから、高等遊民の有閑階級てのはほんと手に負えないと思ったのを思い出しました。

頁403

(略)それは夜中だったが、急に立ち上がると服を着替えて外に出たい衝動にかられたことがあった。行きたいのは麻布の竜土町にあったコスモポリタンというファミリアなナイトクラブで、そんな時間でも宮沢昭のテナー・サックスを聴きながらジャズの話をしているにちがい三人か四人の友だちがいる情景が、ありありと目のまえに浮かんだからである。(略)

 けれどあのときは夜中なので乗りものがないからコスモポリタンゆきはやめてしまったな、と(以下略)

スパゲッティーナポリタンでもくらいやがれ、と思いました。植草サンが紹介してる本はかなり出ません。

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Jolán Földes - Wikipedia

この後、植木さんは『海を見ていたジョニー』やヒッピー北海道旅行の話?『悪い夏 悪い旅』の話をします。まあいいんですけど、私にとっては徹頭徹尾文化資本の本でした。ゴチエイの随筆で知った「役割語」でいうと、ナチスの人皮退廃芸術と不能のはざまで悩む白夜のユダヤ人音楽家はです・ます調で話しますし、イタリア人の出稼ぎは「だぜ」とかそういう話し方で、はなはだしいのが、強くはないが殴り合いのケンカもする主人公が一人称「ぼく」使いで、次々とパパ活あいての白人オヤジを乗り換えながら旅をする邦人女性から、「ぼく」はダサいから一人称を「俺」にしろと言われて、実践会話で治すトレーニングをする場面(ページ忘れました)

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以上