魔海流 : 飛騨一等航海士 (徳間書店): 1989|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
単行本は1987年刊。カバーイラスト=石川俊 カバーデザイン=秋山紀子 解説は夏文彦。
前作のラスト、横浜でヤクザを射殺してお尋ね者となり、シンガポール人のパスポートを持って逐電した無頼船員である主人公のその後、と思って読むと、わりとヒドい展開でした。前作では第三諸国の夜明けみたいなものへの幻想と幻滅が入り混じっていて、作者の中で咀嚼出来てない状態だったのですが、今作ではハッキリと、ソ連による解放は新たなる経済的隷属の始まりであり、それ以前よりさらなる腐敗と恐怖政治が民衆を支配する、と断言しています。それはいいのですが、じゃあどうしますか、で、ウィキペディアにある、作者の信じるシュタイナー神智学に基づいたストーリーテリングで、国際ユダヤ資本の灰色有機体というのが悪で、善の白魔術師がいて、東南アジア最強の経済力を誇るのは日本で(バブルだなあ)それらが錯綜するというトホホな一冊になっています。21世紀に読むと、骨伝導イヤホンしてないのに、声が聞こえてきて、「子供だましと言わないで、この時代まだケータイゲームはなかったんですもの、通勤電車でまだリーマンが、マンガ以外にこうした男根主義小説を読まねばならなかったのよ」とささやくその声は、作者の内なる少女の声が黄泉から聞こえてくるのでしょうか。
飛騨一等航海士でなく、佐塚三等航海士というフレッシュな新人が、海のトラック輸送と化した合理化船、コンテナ輸送船にあえて乗らず、海運不況ではあるけれど、便宜置籍船の、むかしながらの沖仲仕が必要な貨物船に乗り、日本人の強靭な精神力を発揮して、寄港地で毎回、ドラッグでラリって少女娼婦とやって、精神世界のステージ、レヴェルがどうのこうのという話が繰り返されます。意味が分からない。飛騨一等航海士はそれをなまあたたかく見守る人。なんだかなあ。インドのカルカッタ、マダガスカルのタマタベ(ママ)モザンビークのローレンソ・マルケス、タンザニアのザンジバルに寄港するのですが、現在同じ名前なのはザンジバルだけという。カルカッタのコルカタは私も分かりますが、ほかは、本書の地名も現在の地名もピンと来ませんでした。
この感想の英題の「魔」は、頁144に、ゾロアスター教のアーリマンが「悪魔」のルビにあてられてるので、それを使いました。頁237にはサタンが「悪魔」のルビに使われているのですが、先着でゾロアスター教にしました。銀座アスター。ようするに、それくらいの水準で書き飛ばした連作です。毎回のように少女が「やさしくしてね」と言って、よがります。最初はインド人、マダガスカルはフランス人とマダガスカル人のダブル、モザンビークは黒人、ザンジバルは10歳くらいのアラブ人(さすがにムスリム、否ムスリマとやる設定はマズいと思ったのか、オシリス暗殺教団ということになっています)と、どんどん低年齢化します。ヒドいはなし。ドラッグは、インドが大麻、マダガスカルがベラドンナ、あとはよくワカラナイ。ネタバレですが、オチは、新人船員が、ユダヤだか反ユダヤだかの光と闇の争いの組織から「お前見込みあるよ」みたいな感じでたくさんお金をもらって、これで世界放浪旅行に出なさい、となって、それで終わりです。読者の欲望に忠実に小説を書くと、こうなるんだろうか。神智学って、こんなに即物的なのかなあ。
前巻で飛騨航海士は、現実のアルコール依存症を知らないかのように、作者が無茶な連続飲酒をさせて「海の男」演出をしてますが、本作では、一ヶ所、なめる場面があるだけです。断酒してるわけでもないけれど、ほとんど飲まない。
沖仲仕にステベドアというルビが振られていて、そうも読むと知りました。
以上です。