某駅前書店で大人買いしたマンガ。なぜかビニルカバーなし、帯もほとんどついてませんでした。毎日ニュースがかけめぐってた時期に、店主一家が棚からとって読んで戻したのかも。
正直、わざわざ読むかなあという気持ちと、読めるのかという不安が大きかったです。私はもうまんが読書の入口が狭い狭いボトルネック(瓶口)で、『鬼滅の刃』もぱらぱらめくっただけでした。とにかく読めない。少女漫画でいうと、同じ小学館のフラワーズがその辺に転がっているのですが、『失恋ショコラティエ』も『数学で遊ぼっ!』も読めませんで、新しい作家さんだけならまだしも、吉田秋生『詩歌川百景』もろくろく読めなくなっているのが現状だからです。『ミステリと云う勿れ』もキツかったんじゃいかな。
左は背表紙。背表紙だと題名にカギカッコがついているのですが、ほかはありません。
しかし読めた。読めただけでなく、おもしろかったです。とても。頁58の壁ドンや、頁178、フォークでむかつく男の名刺を突き刺しまくる場面など、思いつかない描写でしたので、よかったです。
主人公の田中サンはTOEIC900点越えだそうで、頁70にトラソプに敗北した時にのヒラリー・クリントンの敗戦の辞、次代の女性たちへのメッセージ*1が原文と日本語訳で載っていたりするので、作者は英語も嗜んでいたんだなと思いました。ベリーダンスもお稽古事だし、英会話も然り。正直、こういう英文が直球ではさまっていたので、なまなかな決意じゃない作品とは思いました。この連載の前は集英社で連載してたようですし、どういう経緯で小学館に戻ったのか。久米田康治も戻ったし、いろんな人に小学館が「帰ってキテー」と声をかけてたのか違う話なのか。小学館の連載は二作小学館漫画賞を取って実写化してるそうですが、二作目は本田翼主演だそうなので、ああ、ばっさー、今回三度目の正直で期するものがあったとしてもおかしくないと思いました。毎回ドラマ化されるのなら、負の連鎖にどこかで終止符を打ちたかったのかもしれない。
頁46、ベリーダンスを「現地の扱いとしては娼婦の踊り」と登場人物のせりふとして言わしめているのは、さすがと思いました。トルコ、エジプト、イラン、インド(後の巻)と、ベリーダンス世界には広大な後背地、沃野があることをうかがわせてくれるのですが、入口の表現がこれなのは、逆にマスクしなくてすがすがしいです。隠蔽してウソのイメージで始められるより、全然いい。師岡カリームエルサムニーサンも納得してくれるのでは。
頁18
自分なりに就活頑張ってはみたけど
派遣OLにしかなれなかった
初めてもらった給与明細を見た時に
一生 独りでは
生き抜いていけないと思った
読んだのは2019年11月6日の三刷。初出は「姉系プチコミック」2017年⑨号、2018年③號。
Cover Design:益子典子(mameco)
連載担当者/須藤綾子 単行本編集責任者/山縣裕児 単行本編集者/須藤綾子、古田紀恵 資料写真提供・取材協力/Hiroaki Hiramaz
二話で単行本一冊ペースなんですね。じゃあ八巻は出そうもないのか。連載を追うだけだとだいぶ間隔が空くのはスピリッツ同様。
https://en.wikipedia.org/wiki/Hinako_Ashihara#Death
享年50歳。
ドラマも配信は普通に見れるはずなので、ちゃんと比較しようと思えば出来るはずです。でもそういうのは有料記事になりそう。元手がかかるかどうかは人によるでしょうが(TVerやhuluに最初から入っている人かどうか、など)工数はぜったいかかるので。私は公式のまとめ動画*2を今さらっと見ました。背筋を伸ばす具体的描写が「Shall we dance?」の竹中直人だったりするのは、まあなんだかなあという感じで、役者のイメージが合わない点だけあげつらってもしかたないので、安田顕は合ってると書いておきます。ねこぜといえばハリウッド女優のオークワフィナですが、連想させるキャラは出ません。
六本木のペルシャ料理店はむかし行ったことがあり、イラン人の店主にも会ってるのですが、もうその店はないようです。本作に出てくるお店のモデルは別かと。日本に住んでるイラン人は、革命前をよしとする人も多いので、飲酒等は革命前の習慣と考えてよいと思います。一瞬だけペルシャ語を習った時に、ペルシャ語の先生(ホントはアフガンのダリ語のほうが本職らしかった)に、イランはあんなに都市部洋化されてるのに、それでどうしてイスラム革命なんか起こったんでしょうかと聞き、答えは「洋化されたからこそ」でした。自らの生活の道徳的退廃を感じていたので、いにしえの回教生活へ原点回帰といわれると、その錦の御旗に反論出来ない。
その辺はグレゴリー・ケズナジャッサン*3の養父も多分同じで、革命前に海外移住した人たちが、本国とつながりながらも、「もう一つのイラン」を継承してる感じ。チベットはそこのつながりが断ち切られましたが、イランはまだオッケー。パキスタンは多少あやういのかな。私が日系ブラジル人のたまり場が好きなのも、屈折してますが、似たような、オルタナな何かへの渇望の感覚があるんだろうなと思います。
私にかつてあったギロッポンのイラン料理屋を紹介してくれた人は、西海岸留学組で、英語以外にスペイン語もそれなりに出来る人で、シーカレがリトルテヘラン以下略で、ハリウッド映画でイラン人がアラビア語を喋ったりすると彼氏は憤激すると言ってました。その人で面白かったのは、イスラエル人が立つ鳥後を濁すというか、旅の恥はかき捨てというか、日本でたいがいなことをやらかしそうな時、すごくイキイキと未然に防止してたところです。イスラエル人が、あからさまに邦人の人のよさにつけこんで無茶な提案をしてくるときの断り方はうまかった。
その人はベリーダンスをやってませんでしたが、ベリーダンス絡みの人が、全員邦人なのが、ベリーダンスという文化の継承の実情をよく描いていると思いました。ギロッポンのペルシャ料理店でも、ベリーダンスのショーはアメリカ人女性ダンサーが自ら売りこんできて実現してたはず(時代は円高)イランは言うに及ばず、主人公田中サンがベリーダンス留学を考えてるエジプトやトルコも、ローカルな担い手がいるのか、欧米人の愛好者によって支えられているのではないかというと、さて。
本書がテーマアラビア語書道でなくベリーダンス題材なのは、ひとの運命にも似た何かを感じました。アラビア語書道だったらどうなっていたのか。
その辺で、ベリーダンスが実は現地社会ではこういうふうに継承されているんデスヨという話も、後の巻では書いてあります。「娼婦の踊り」というと、どうしてもインドのベンガル語小説『ジョルシャゴル』*4(映画もあり)で、旅がらすの踊り子たちがバングリーでなくウルドゥーを喋る場面を思い出し、戦前に来日した妓生の崔ナントカ姫をさらに思い出したり出さなかったり。
第一話の扉裏にこんな英文があったので、これを英題にしました。これでいいと思う。作者が本来これを題名と考えていたかは知りません。
中延という地名からも考えることは多いのですが、それはそれとして、頁124のザーという悪魔払いの儀式の場面は引っかかるものがありました。かたくなな孤闘は、悪魔祓いだったのかもしれない。第一話、否第一幕が「幸せになりたいわけじゃない」で、それはいいのですが、第二話幕も「誰かが魔法をかけた」で、意味深だなあ、乙女だけどと思いました。
巻末の短編集広告。これもいくつかの書店をあたってみましたが、どこも品切れのようでした。ひとつ、ビッグコミックオリジナル掲載作品があったようですが、記憶にありません。で、作者の作品は、軒並み品切れで、電子版嫁の世界で、この世の最後までそうなんだろうなと。
「魔法をかけた」で思い出す曲。作者的にはここまでだと「かまととぶりやがって」になるのかならないのか。
正直、本書を読む前と読んだ後とでは考えが変わりました。ひょっとして、一瞬を永遠に転化するために、作者は自らのカラダを張って、何か仕掛けたのかもしれません。そんな気がする。人々の記憶に永遠に残れば、作者の勝ち。忘却されてしまうと、出版社やテレビ局の勝ち。さて。以上