『ビルマ文学の風景 ―軍事政権下をゆく』読了

四月七日に購入して、十日くらいには読み終ってたはずですが、ひっかかる箇所が多過ぎて、感想が書けなかったです。六月四日の長雨を利用して書き終えました。

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服従の民に捧ぐ ビルマ文学の風景 ―軍事政権下をゆく【著者】南田 みどり クーデターなんかに負けられない!  軍事政権と言論・出版の格闘をつぶさにえがきだすミャンマーの戦後文学史を総括する初の試み  言論出版と軍事政権の関係をお考えいただく一助になれば、有難いことこのうえない。(「まえがき」より) 不服従の民へのオマージュ ビルマ文学の風景 ―軍事政権下をゆく 南田 みどり

痛快!布マスク新聞の四月一日に広告が載ってたので、買おうと思いました。その後、四月四日にも広告が載っていて、「捧ぐ」から「オマージュ」へ、どうにもならない感がいやましてました。

ビルマ文学の風景ー軍事政権下をゆく

ビルマ文学の風景ー軍事政権下をゆく

 

 前川健一の旅行記で、えらそうに前川健一に説教垂れるマウンターヤという作家について、軍事政権との軋轢から、くにで存在が抹消されてるのは仕方ないにしても、一時期日本でももてはやされたはずなのに、日本語の検索結果でも(ついでにいうと英語でも)ロクに出て来ないので、こういうまとめ本を読めばカキッと書いてくれてるのではと期待して、それで、こういうのは県立図書館くらいしか蔵書しないでしょうし、それを市立図書館に回してもらって読んで感想を書くには、他館本の貸出期限二週間延長不可では足らないと思いましたので、三千三百円出して買いました。千七百円か八百円でもいいような紙質とページ数(300ページ強)ですが、そんなこと言うと、「この活字不況下に何を言うー」と、この出版社の営業さんが村上ショージちっくに青筋立てて怒る気がします。

巻末に五十音順の人名索引があり、そこから、その作家について記述されたページぜんぶに飛ぶことが出来るので、こりゃらくちんと思いましたが、マ行にマウンターヤがなく、マ・パンケッ(著者のビルマ名)しどいっ、と思いましたが、タ行に「ターヤ、マウン」が載っていて、人名のロジックはよく分からないけど、無事該当箇所を読むことが出来ました。

頁52に1ページぶちぬきで電話に出る1995年8月1日付のマウンターヤの写真が載っています。キャプションは下記。

同頁

饒舌に、文学界の内幕を語った。ただし、誤った情報もあった。多くの作家と引き合わせてくれたが、反感を持つ作家も少なくなかった。 

毀誉褒貶の激しい作家であったことは、前川健一の描写を讀んでも分かる気がします。マウンターヤの著書や編纂したアンソロジーの邦訳で、90年代半ば?までの歩み、1953年の学生運動ではマンダレーの中心にいた人物であるとか、技巧文を駆使した恋愛小説で人気作家に躍り出たが、その後社会のさまざまお仕事ライフを描写する作家になり、自ら雑誌も創刊、などは知ることが出来るのですが、その後、独自に検索して知った、2016年に米国で逝去迄のミッシングリングが分かりませんでした。

www.irrawaddy.com

下は出国の記事ですが、出国したということしか分からない。

Literary “Gypsy” Leaves Burma

高田馬場で「ウィキペディアに項目とかないので、ビルマ文字で検索したら分かるかもと思って、彼の名前どう書くか、お聞きします」「そりゃ項目ないだろ。ミャンマー語勉強してみては?」などの会話をしていたわけですが、本書でやっと空白を埋めるインフォメーションを得ました。

頁148

 1999年10月、期せずして2名の大物作家が祖国を離れた。「人生描写」 小説の騎手マウン・ターヤは、末の息子と陸路タイに逃れ、その後アメリカに住んで現代ビルマ文学界の内幕暴露に努めた。(略)もはや若くない彼らは、異郷で生涯を終える覚悟だろう。

マウンターヤはこれくらいにして、以下本書の感想。

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軍事政権下でビルマ文学がどのような試練をこうむらねばならなかったか、それに至るどのような文学的経緯があったのかについて、まとめることにした。まず第一章で、ビルマ文学の軍事政権下への道程について、1990年代までを中心に、今まで書き溜めた論文なども参照して書き下ろした。第二章以下では、わたしがビルマ訪問を定期的に開始してのち、1995年から2014年まで『世界文学』に書いた報告をベースにしている。言論出版と軍事政権の関係をお考えいただく一助になれば、有難いことこのうえない。ビザが出なくなることを怖れて、ひっそりと発信してきたものが、不特定多数の眼に触れる機会を与えられたのは喜ばしい。軍事政権下の記憶は、風化させるに忍びないからである。 (「まえがき」より)

http://sekaibungaku.org/journals

2014年までの報告がベースなので、2016年の逝去まではカバーしてないということだと理解しています。1999年当時の報告を使用しているので、文章が「だろう」で終わっていて、事実がそのとおりになったという。

f:id:stantsiya_iriya:20210418182726j:plainカバーをとった表紙。 

カバー写真:2007.1.1 タニンダーイー地域(管区)ダウェー

前川健一サンの本でしたか、インレー湖で足漕ぎ舟をあやつる若い女性のカラー写真が使われていて、本書でも湖と舟なので、何かそういうデファクトスタンダードがあるのだろうかと思いました。吉田敏浩サンならカチン人の焼き畑写真を使っていたことでしょう。頁209にもラカイン州ミャウウー北方で2002年2月9日撮影の、船と竿と船頭の写真があります。

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裏表紙に使われている絵。これもクリークと舟、パゴダ。誰が描いた絵か、説明はありません。

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これも裏表紙に使われている、高床なんだかそうでないんだかみたいな家と、倉庫なのか集会場兼礼拝場なのかみたいな大きな建物の絵。前はやっぱり湖水なのでしょうか。それとも草地なのか。誰が描いたか書いてません。本書もまた、装幀者未記載です。21世紀次の十年に入ってるのに、装幀者未記載。DTPは河岡隆(前株の西崎印刷という会社)と書いてあるので、その人が装丁かも知れません。「まえがき」に、2020年4月に本の泉社代表取締役の新松海三郎という人から紀要雑誌?「世界文学」(世界文学会)に掲載している記事をまとめないかという依頼があり、それで本にすることにしたそうで、社員数は公式に書いてませんが、社長自ら装幀しているかもと思いました。が、分かりません。

本の泉社 会社案内

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クーデターなんかに負けられない!  不服従の民に捧ぐ 軍事政権と言論・出版  ミャンマーの戦後文学史を総括する初の試み  本の泉社 

かつての社民党を彷彿とさせるコピーは、本書巻末の〆のことばでもあります。2020年3月、コロナ禍の中、45回目のビルマ訪問を終えた後、民主政権になったからそろそろ公開版棚卸をしてもよかろう、コロナで次いつ行けるか分からんから、と、出版作業にとりかかり、出版二ヶ月前にクーデター。現在は日本語の分かる人間がビルマ政府関係で日本語の出版物チェックをしてるそうで、本当に、本書を読まれて、次のビザが降りるか分からない状況になり、それでこういう〆の文句になったのだと思います。マ・パンケッのひとは兵庫県出身で大阪外語大ですから、社民党感が澎湃と湧いてくるのも土着性ゆえと勝手に理解することも可能です。

 下記はもともと2006年に出た、船戸与一の取材旅行にインド入国禁止の高野秀行がガイドとして付き添って、お目付け役の軍事政権関係者のアテンダントと珍道中する「エンタメノンフ」で、十年以上前はまだ外国人取材への監視もある程度牧歌的だったのだなと分かります。今はもっと研ぎ澄まされたのでしょう。

 下記はアマゾンのこの本のページ。「ビルマ」表記についてまずことわらねばならないところが、めんどいですね。

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著者によれば、「ビルマ」と「ミャンマー」はともにビルマ語に起源を持ち、ビルマ族(バマー族=ミャンマー族)をさす同義語だという。実際、1948年の独立時、国名の英語表記としてB urma(発音は「バーマ」)が用いられ、ビルマ語では「バマー」と「ミャンマー」が併用されていた。だが1989年、権力を掌握した国軍は国名を「ミャンマー」に統一することを宣言、いまにいたる。ただ、この統一宣言はあまりにも強引で、越権の要素を孕むだけでなく、矛盾を生じさせていると著者はいう。「本書では、このような根拠に乏しい呼称の使用を避け、従来どおりビルマ語による記述文学をビルマ文学と称する」(本書第一章)。

本書は帯もそうですが、背表紙も赤+緑、白抜きになっていて、ビルマ国旗はこれに黄色要素が加わってますので、黄色が軍で、それを排除した装丁なのかなと思いましたが、違いました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8c/Flag_of_Myanmar.svg/260px-Flag_of_Myanmar.svg.png左が現行のミャンマー国旗。

ミャンマーの国旗 - Wikipedia

連邦社会主義共和国時代の国旗は赤と青ですので、そこへの郷愁でもなさそう。

ミャンマー連邦共和国|東京都立図書館

黄色は国民の団結、緑は平和と豊かな自然環境、赤は勇気と決断力を象徴し、白い星はミャンマーが地理的・民族的に一体化する意義を示している。 

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/stantsiya_iriya/20210325/20210325193719.jpg

 高田馬場ミャンマー料理屋の絵でもふつうに黄色は使われてるので、黄色がタブーというわけでもないのだろうなあという。テラワーダ仏教の僧侶の袈裟の色とも関係ないだろうし。

ビルマ1946―独立前夜の物語 (アジア文学館)

ビルマ1946―独立前夜の物語 (アジア文学館)

 

 マ・パンケッの人の本で、段々社から出てる2016年の訳書は、緑と赤の比率を逆にして白抜きで、さらにいうとやっぱり水と舟をやってますので、ほんとになんか個人的なこだわりなのかもしれない。

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背表紙

「あとがき」によると本書もお世話になってるそうですが、JPS科研費17K02600の助成が本書含めもろもろのミャンマー理解拡散スキームのあとおしになったそうです。

kaken.nii.ac.jp

なので、日本軍政期がどうしてもということになり、作者の動画なども、それに関するフォーラムや講義でした。もう六月、天安門事件も過ぎたのに、3/24刊行の本書のアマゾンレビューはついてません。ブックメーターなど、他にも感想がないので、少し寂しいです。

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まだカスタマーレビューはありません

本書はまえがきからかなり攻撃的で、誰に対して攻撃的かというと、ビルマなんか研究してるから変人なのかしら?という目や、ホントに主婦と両立してるのかしら、子育て出来たのかしら?という目です。年取ってこわいものがなくなったせいか、かなり突っ込んでる。かつて自分が育ち、教壇に立った大阪外語大独立行政法人化の波でヴァニッシュしてしまった恨みもあるのでしょう。

「中国語や朝鮮語の使い手は、日本にも多数居住する」と書いていて、私が中国語を選択したのも、まさにある程度パイがでかい言語だから、マイナー言語と違って潰しが効くだろうと思ったからですが(おかげで現在、「中国語が出来るのに(たいして出来ない)なんでこんな収入に甘んじてるの」とさげすまれてます)作者はマイナー言語を選んで、人に聞かれると「あちらでは、子どもからお年寄りまで5,500万人がビルマ語をしゃべってますからね」と答えてるんだそうで。 

作者は社会人経験を経て院に入りなおした時点ですでに一人お子さんがいて、六歳の年の差であとふたり生んだそうで、だからビルマ研究者の内、唯一留学経験と長期滞在経験がないんだそうで、その辺のうらみごとも、まえがきに、あるといえばあるし、そんなふうに読んでほしくないですと逆に怒髪天になるくらいさばさばしてるというふうに読んでもいいのかしらというふうでもあります。要するに忖度可能。私のしりあいに、東外大のラオス語学科だった人がいましたが、年に学生が数人しかいないマイナー言語だからずっとパイがあってそれにまつわる仕事が出来るかというと、やっぱりパイがないのでその人は卒業後そういう仕事はしてなかったはずです。どこでも切磋琢磨、研鑽研鑽また研鑽ナンデスネ。

頁129  1997年

 ミャンマーでの見聞のすべてを、不特定多数に向け発信することは憚られる。下手に書けば、こちらの行動が制限される。情報提供者にも迷惑がかかる。人の不幸をネタに稿料を頂くのも気が引ける。しかし、沈黙するのも気が済まない。どこにも書けない話は、読者の限定される場に、そっと書くのが一番なのだろう。

本書の内容の多くは、1995年から2014年まで「世界文学」という、かなり閉じた世界の紀要誌みたいなところに載った文章で、そんなものを出版しないかと声をかけた本の泉社の新舩海三郎という社長さんもとんでもないなと。ほかにも教職員組合の文集から福武=ベネッセの海燕東京新聞まで、いろいろ書いたのをまとめたとか。はー。「ひっそりと発信してきたものが、不特定多数の眼に触れる機会を与えられたのは喜ばしい」とあります。まえがきに。思い切らはった。

世界文学会 ≫ Society of World Literature JAPAN

kanjibunka.com

(1)地名について

本書は、ビルマミャンマーについて、とてもこだわっていて、じゅうらいのビルマ呼称の正統性をやっぱり、力説しています。頁18。ところがですね、ほかの呼称、ラングーンがヤンゴンとか、イラワジデルタがエーラワディー・デルタとか、アラカンがラカインとか、そういった、ほかの呼称変化については積極的に新しい呼称を取り入れていて、アウンサン・スーチーが英語でスピーチする時は「ラングーン」と云うので、その時だけ「ラングーン」と引き写したりしています。アラカンがラカインになるのについては、アラカンポルトガル語からの古称で、現在はラカインもしくはヤカインだから地名民族名はラカインと書き、王国名はアラカンと書く、と、頁164で説明があったので分かるのですが、なんだったかな、調べて、あーここ、名前変わってたんだ、って地名がありました。そうだ、「タンルィン川」です。これ、サルウィン川で覚えてたので、最初全然分からなかった。ミャンマーはダメ、ヤンゴンはオッケーという、その辺のルール定義は知りたいです。

ビルマの戦い - Wikipedia

サルウィン川 - Wikipedia

タンルウィン川とは - コトバンク

タンルィン川と書かれている箇所は、例えば頁127。ここは、「シャン族」「カレン族」「ビルマ族」と、続々「族」が出て来る箇所でもあります。かなり取材で話し込むのですが、その内容を、ビルマ国内では、記者なり作家が機転を効かして、報道しませんと。日本人研究者が来訪したが、作家は貧しいので湯茶でしかもてなすことが出来なかった。で、研究者はマルボロを置いてった、今吸ってるのがそれ、と笑い話しか報道していません。それが彼の地の対応のしかただとか。この作家の作品は大同生命ミャンマー現代短編集2に収録され、頁142には小説の舞台が、パオ族の完全支配下で、どのような文化と経済状態か、の簡単なルポが書かれています。

(2)「~族」と「華人」「中国人」について

本書も、私は好きでないのですが、「~族」という表記を使っていて、吉田敏浩高野秀行『アヘン王国潜入記』のように「~人」を使うルールを支持する私としては、理由が知りたいところです。多数民族もビルマ族と表記。それに対し、ナショナリティーを示す場合は、「日本人」「イタリア人」「中国人」と書いています。で、ビルマ国内の華人については、これを「~族」表記に統一せず、「華人」と書いています。せっかくなので、ここは統一して、「漢族」と書いてほしいです。「華人」と書くのなら、ほかの民族も「~人」と書くべき。

頁97 1993年

 シャン州に近い古都マンダレーは、かつてのゆったりした落ち着きもどこへやら、1984年の大火以来、中国系商人の土地買収が進み、新しい建造物が建ち、町全体がからりとした活気に包まれていた。

この「中国系商人」は、華人なのか中国人なのか。

頁101 八月のマンダレー 1995年

 ヤンゴンとの違いは他にもある。活発な商業活動の中心的担い手が華人なのだ。生活苦に喘ぐ庶民を尻目に、振興住宅地に立ち並ぶ瀟洒な邸宅は、華人少数民族の富豪か、高級軍事官僚の所有らしい。 

後述の「日本ファシズム」糾弾ほどはイキってないです。

頁119 1996年

 中華街で、周囲の雰囲気にそぐわない高級ブティックを見つけた。路上からカメラを向けると、男性店員が慌てて遮った。95年にマンダレー雲南料理店の看板を撮っていた時も、店主から怒声が飛んだ。

「何のために撮るんや!」

なんで関西弁なんや!

頁160  2000

 アンダマン海沿いのリゾート・ビーチのチャウンターにも足を向けた。曇天で人気のないビーチで、若いミャンマー人女性2名を従えた中国人男性を見かけた。その豪遊振りが、地元民の間でも話題になっていた。不況下でも、中国人事業家は鼻息が荒いようだ。中国語の学習も若者に人気があるという。

 ワンドリンク付きで入場料が男性は千チャット、女性が6百チャットの、ヤンゴン市街地のディスコも見学した。フロアで踊る若い女性の多くが性労働従事者だという。19歳の女性に話を聞いた。外へ連れ出すには、ホテル代別で1万チャットないしは20ドルが必要だという。ここでも客の多くが中国人だった。

後述の「日本ファシズム」糾弾ほどはイキってないです。

頁198  2003年

 編集長は30代の裕福な中国系ビルマ人だ。97年に始まったジャーナル乱立時代は、自然淘汰の傾向にあると、彼は見る。軍事政権の息のかかった芸能・スポーツ系ジャーナルが多い中で、彼のジャーナルは報道中心だ。根強い人気の占い欄もない。発刊は2年前だが、1年目は持ち出しだった。ようやく経済的に軌道に乗ったという。検閲は厳しいが、報道らしい報道を目指したい、将来は日刊紙を出したいと、彼は弾丸のように抱負を語った。中国系にも、軍事政権と馴れ合わず、ジャーナリズムのý老親を模索する人物がいることを知ったのは収穫だった。

ここでは華人と書かず、中国系と書いてます。中国国籍ではないから中国人と書かないんでしょう。それはそれとして、彼以外の中国系に対しては、日本ファシズムに対するように批判してもいいんではないでしょうか。

頁203  2003

 時間節約のためマンダレーへは飛行機を使った。ヤンゴンから車や鉄道で15時間、飛行機で1時間半だ。中国の出資で2年前に完成した立派なマンダレー空港内にも、人影はほとんどない。ガラス越しに壮大な眺望が広がる「キプリング・カフェ」と命名された喫茶店にも、観光客の姿はない。座っている数名も、到底只者とは思えない。なにしろ、この新空港は町から2時間かかる。バスはなく、タクシー料金は公務員の月給並みとくる。ヤンゴンからの航空運賃も138ドルかかる。空港のカフェで「くつろぐ」ミャンマー国民が、一般の民間人だと判断する根拠は全くない。

華人少数民族を含んだ表現にしたいので「ミャンマー国民」と書いてると推測。「ミャンマー人」では、多数民族を「~族」でなく「~人」と表記する方に倒れたと誤解されるとでも思ったのでしょうか。思ってないと思います。それはそれとして、日本がこんな不完全なインフラにODA使ってたら、マ・パンケッ的には日本ファシズム糾弾の嚆矢ですが、中国だから忖度して矛を収めてる気瓦斯。

頁206  2003

 2日夜、宿に戻ると、よく日焼けして目つきの鋭い男がフロントに座っていた。鍵を受け取り部屋に戻る途中、男がわたしのことをスタッフに尋ねるのが聞こえてきた。後で聞いたところでは、男は夕方のフライトで到着した中国人を尾行してきた秘密警察官だという。中国人の入国カードの職業欄にレポーターと書かれていたのだ。翌3日には、さらに監視が増員されていた。しかし、監視体制は朝8時から夜10時までで、時間外の行動は不問に付されるらしい。

中国人も監視されると知ってほっとしてみたり。監視の緩さは『ミャンマーの柳生一族』と似たような時期だから似たようなもので。

頁212  2004

食事に入った店で電動招き猫を見かけた。この国の商店は通常招き猫ならぬ招きフクロウを置く。近年フクロウは姿を消しつつある。ここにも中国進出の影が透けて見える。

日本も招き猫ですが、ビルマのは日本の影響じゃないんですね。ファシスト! …違うか。

頁259  2007

 息子の一人ポウ・タンヂャウンは北京に住み、時折ビルマ民主化についてラジオで発言している。ビルマ共産党幹部だった彼は、89年の共産党壊滅後ジャングルから中国に逃れた。軍事政権を擁護する中国が、なぜ彼の発言を許すかと問うと、中国政府を批判しない範囲なら許されるのだと、彼女は答えた。10年近く前、彼女は中国政府のビルマ共産党への介入に不快感を示していた。しかし今回は違った。

「中国が色々やってくれて感謝している。でも、その恩恵がこの国の国民全体には届いていないのが残念だわ」

マ・パンケッがこれに賛同してるのか、「かわいそうに、言わされてるんだわ」と思ったかは、不明。

頁291  2009-2011

 12月には、中断していたサイクロン被災地訪問を試みた。デルタ西部のラプッターから舟で2時間のカレン族の村を目指した。ヤンゴンから車で7時間半。道のりの半分は、雨季の豪雨による陥没が放置された悪路だった。ラプッターでは、宿の多くが秘密警察を恐れ、NGOなどの団体に所属しない外国人の受け入れを拒否した。幸い勇気ある華人が宿を提供してくれた。しかし、それ以上の迷惑はかけられない。村行きは諦め、町を見学するにとどめた。

(3)女性(フェミニズム)について

頁110 1996年

 母親は息子たちのコントロールより、むしろ娘たちに品位を保つよう、身を慎むよう諭す。性的被害に遭っても、世間は加害者より被害者に隙があったと往々にしてみなす。性犯罪を防止するには、「夜道を女性が一人歩きしてるのを見かけても襲ってはだめよ。女性を敬いなさいよ」と、賢母がマサコン息子どもに諭すほうが手っ取り早いだろうに。ビルマの世間自体が男性優位思想を内包してるといえるだろう。

息子にも諭すべきですが、娘にも危険回避の戦術は教えるべきと思います。けっこうここは天下の暴論。犯罪者、いつでも話せば分かるという発想が危険かな。

マ・パンケッの人の深奥にあるものとして、頁124、マ・ウィン(ミッゲエ)という作家のインタビューで引き出した、「ビルマ男性の心の底のミソジニー女性嫌悪・蔑視)を見た」という一文があります。同じものを彼女も感じることがあり、それが、日本ファシズムという言葉への反応につながってゆくのではないかと。

(4)1988年の学生デモについて

私は1988年の死者に関して、本書を読んで、忸怩たる思いというか、省みるところが多かったです。犠牲者数一説には1,500名。頁78。現在のクーデター犠牲者数が800名超ですから、三十年前にそれ以上の死者を出したデモ隊に対する無差別発砲があったわけです。しかし私は当時、天安門事件のほうを優先していた。大きな社会であり、なんとかなりそうだと思っていたこともあり(なんともなりませんでした)ビルマの場合は、山岳部に行けば少数民族と内戦でしたし、都市部の学生犠牲者だけに目を向けるということがどうにも感覚的に合わなかったです。しかしそれはちょっと違う話であった。

jp.reuters.com

(5)「日本ファシスト」について

頁95 1994年

 報道のバックに流れる曲は日本の軍歌に似る。日本の軍歌だという人もいるが、わたしは軍歌に詳しくない。ただ、国軍の前身・ビルマ独立軍の生みの親は、日本軍の特務機関・南機関だ。ビルマの歴史教科書は、日本ファシストの侵略を厳しく糾弾するが、南機関員の一部は、独立の恩人として、1981年に叙勲されている。日本がビルマにとって戦後最大の援助国となったのも、そうした事情がからむ。

「日本軍は酷かったが、秩序も正しかった。武装強盗団(ダコイト)も出なくなった」

 列車で乗り合わせた年輩男性はそう述べた上で、仇敵・英国の男性と結婚したアウンサンスーチーを非国民だと非難した。民族排外主義と新秩序の導入は、一部の人びとの情念に訴えかける。日本ファシズムの亡霊はなお、軍事政権下のミャンマーを跋扈する。 

 ファシスト

頁110 1996年

 聞き取りの中で、日本軍支配下ビルマには、日本人向け「慰安所」だけでなく、ビルマ軍専用「慰安所」がヤンゴンに一箇所あったという話を耳にした。ビルマ独立軍が、1942年に日本軍とビルマ入りしたとき、ビルマ兵の中に性病が蔓延したという。士気にかかわる問題なので、日本軍にあやかり「慰安所」を設置することが提案され、43年8月にアウンサン将軍の命令で開設された。プロ女性が集められたが、定員を満たさず、一般女性が騙されて拉致されたケースもあったという。

 わたしが日本軍の侵略を詫びると、「今の国軍の方が日本軍よりよほどひどい」という慰めがよく返ってくる。日本軍を手本に肥大化した国軍の支配下で、女たちが被る被害は計り知れない。反政府軍と戦闘中、国軍は行く先々で男女をポーターや地雷よけに徴用し、女たちには夜の相手までさせるという。日本占領期同様、兵士によるレイプも後を絶たない。 

 ううむ。

頁111 1996年

 言論出版の暗黒時代といわれたのは日本軍占領期だったが、現在の状況はそれをしのぐ。 

 ううむ。

頁112 1996年

日本軍国主義を生みの親とする国軍の統制は、広範囲に及んでいる。 

 冠詞は余計なのか必要なのか。

頁114 1996年

頼みの日本からは、ビジネスマンばかりが入ってくる。民主主義国家日本の国民が彼女を支持しているのなら、なぜミャンマー進出企業のボイコット運動を起こさないのか、日本政府はなぜ軍事政権に毅然たる態度が取れないのか、(略)国民多数が政治に無関心なまま物事が回っていく日本の「民主主義」は、彼女の理解の範囲を超えているらしい。(略)いまだ終わらぬミャンマーの戦後に、我々の過去が大きな責任を負っている。ミャンマーの女たちの未来がその政治参加とかかわるように、我々も個々人の政治的権利と義務を行使しなければ、戦争責任への贖罪を完遂したことにはなるまい。(略)

贖罪完遂!

頁208 2003

日本占領期の外務大臣で、作家でもあった元首相のウー・ヌは、大戦中の回想録『ビルマの5年』(1946)冒頭で、「言葉は信じられない。経験が教える。日本人はそんな輩である」と語った。

なるほど。

頁216  2004

(略)詩人たちは質問攻めにした。さらに彼らは、日本の詩人はなぜ書くか、詩人と政党の関係はどうなっているか、言論の自由があるのになぜ政治的メッセージの詩が少ないのか、イラク派兵を日本国民はどう見ているのかなどの質問も浴びせた。店内には他に客もなく、いつしかボーイ全員が我々を取り巻き、話に耳を傾けている。秘密警察が紛れ込んでいないとも限らない。暗黙のうちに、互いに言葉遣いに注意を払いつつ、ミニ公開文学討論会は、雨の止むまで続いた。このように、野辺送りによって、死者は生者を繋いでくれるのだった。

ここで、マ・パンケッがどう答えたか知りたい気もします。連帯とかそういう言葉を使う時代ではないので、別の答え方をしたと思いますが。

頁314  2016-2020

 言論出版状況も不安定で流動的だ。例えば、16年12月の情報省主催「現代史に関する文学シンポジウム」では、事前に提出された発表原稿のうち5点が排除される事態が生じた。5名の発表者の一人は、フェイスブックで、48年以来今日に至る内戦を概観した排除論文を公開し、この措置を「現代のケンペイタイ・検閲の復活」だと、激しく批判した。

咳してもファシスト

(6)旅行者について、ビルマ的道徳の荒廃について

頁115 1996年

 軍事政権はクリーンだ、民主化は混乱を招くだけ、人びとの生活はどんどん向上している、ミャンマー人と接して不快だった経験は一度もない、今こそビジネスチャンスだ、などなどと、駐在間もない商社マンや企業家が怪気炎をあげるビジネスマン向け「ミャンマー特集」誌。「海水パンツを着用すべき」温泉に「日本人である私は躊躇することなく素っ裸で飛び込んだ」と豪語するライター氏の旅行記。このような記述が増加中だ。

誰でしょう。すごく「Gダイアリー」な気がします。私も昔スマトラの温泉にマッパで入りましたが、現地ではモロ肌考えられないからダメ🙅かという論説の裏に、男女の違いにもとづくいらだちを感じてもよいかと思います。女性がマッパで入ったら、あんたら批難するんでしょ、バーカ、みたいな。

頁121 1996年

 戦後ビルマでは、「ファシスト日本」の行状に言及する書物が多数出版された。その中で強調されるのが、日本兵の裸の水浴(行水?)風景の醜悪さだ。水浴時もロンヂーを着用し、裸にならない文化を持つビルマ人の視線を、日本兵は気にもとめていなかったらしい。ジョージ・オーウェル(1903-50)のビルマを舞台にした一連の作品(註7)に見られるような、ビルマ人の冷ややかな、あるいは不気味な視線は、日本人の戦争モノからは滅多にうかがえない。(註8)冒頭の「日本男児」氏の無邪気な威勢のよさが戦後民主主義の産物だとすれば、民主主義のシステムを機能させよというアウンサンスーチーのメッセージがずしんと腑に落ちる。 

註7 長編『ビルマの日々』(1934)、随想「熊を撃つ」(1936)と「絞首刑」(1931)など。

註8 ただし後年、古処誠二(1970-)の『メフナーボウンのつどう道』(文芸春秋2008)、『中尉』(角川文庫2014)、『ニンジアンエ』(集英社2011)、『いくさの底』(角川書店2017・毎日出版文化賞受賞)には現実のビルマ人に近い形象が登場した。

 私は落ちませんでした。同じモンゴロイド同士だから、それほど気にならなかったのかもしれません。マ・パンケッの人は裸体には厳しいですが、ビルマの伝統文化全てを無批判に受け入れるかというと、さきのミソジニーの例もあり、是々非々のようです。

頁192  2002

 それにつけても、在家の布施に依存して暮らす僧侶たちの血色のよさには目を見張る。それにもまして、外国人の目を奪うのは、在家の功徳の象徴たるパゴダの燦然たる輝きだ。虫の息の経済、硬直した官僚機構、人権弾圧に狂奔する権力、これら権力と宗教、さらには宗教と民衆のかかわりもまた、この国の困難の源を解き明かす重要な鍵になると改めて考えさせられた。

前川健一のタイ仏教批判、誰だか忘れましたがチベット仏教批判、何処も同じかと。別に宗教=アヘンと信じてるパルゲンイ、もといパヨクだからこんなこと書いてるわけじゃないと思います。このページにはミャンマーにもかつての中国同様、外貨兌換券FECがあることが明記されてます。闇レートと公定レートの差分が公務員のお茶代になるとか、そんな記述。

頁204  2003

 10年前と大差ない列車の旅で、10年前には見かけなかった光景があった。食堂車で、軍服の少年兵数名がビールを飲んでいたのだった。ビルマ仏教では飲酒は戒律違反だ。ピンウールィンの飲食店が掲げていたように、軍服着用者の飲酒が軍機違反でもあるとすれば、食堂車の光景は軍の堕落を物語る。 

 三児の母として、なりだけおっきくなったガキのマッパとかヨッパライとかが我慢出来ないとか。

頁291  2009-2011

町の中心のパゴダだけは、サイクロン直後秘かに出回ったDVDで見た時のままだ。当時カメラは、境内で被災者を前に訓示を垂れる軍服姿の二人の足元を映し出した。境内は土足厳禁だが、二人は靴のままだった。植民地時代、土足でパゴダに入った英国人が、ビルマ人の憎悪の的となった。現代の土足の一人は管区知事で、いま一人は当時の首相であり、2011年1月招集の国会で大統領に任命されたテインセインだった。 

 土足は回教だともっと言われる気瓦斯。

頁311  2012-2015

ちなみに、ミャンマーベルヌ条約に加盟せず、著作権料抜きで海外作品が多数翻訳されている。 

 成程。

頁315  2016-2020

 18年末に発表された17年度受賞作は、長編部門がマレーシアへの移住労働者の過酷な生態を暴いた『ミャンマー国の外側』(ルーカー1983ー)(略)長編受賞者ルーカーは現在日本で働き、次作『サクラより美しくあれ』(2019)も在日ビルマ人労働者の闇に切り込んだ野心作だ。(略) 

 私の感慨は、(4)に尽きます。天安門が一万人というのは、おそらく全土に波及した人狩りの結果だと思いますので、広場だけで考えると、1988年のビルマ学生デモも大きな出来事でした。そこを、内戦の国で分からないと思考停止していたわけです。ちょっと中国は手がつけられないところまで来たというのがいつわらざる気持ちですが、ミャンマーはどうでしょうか。乗り換えるもクソもないのですが、これまで気にしないようにしてきた分はまなざしを向けたいと思います。そして、マ・パンケッの人は、ミソジニーの人はミソジニーとして、鷹揚にかつテキトーに受けたらよろしいと思います。既にそうされてるとは思いますが。で、一方でファシズム連呼、一方でクーデターなんかに負けられない、では二正面作戦になってしまい、たぶん続かないので、ほどほどに妥協して、おきばりなさってほしいと思いました。以上