『出家への道 苦の果てに出逢ったタイ仏教』"Shukke heno michi : Ku no hate ni deatta Thai bukkyo" by Phra Akira Amaro(幻冬舎新書)"Gentosha Shinsho"読了

Shukke eno michi : Ku no hate ni deatta tai bukkyo. (Book, 2019) [WorldCat.org]

以下後報

【後報】

英題は上記ワールドキャットをちょいとひねりました。私の一存で。

マ・パンケッの人の『ビルマ文学の風景』のさいごのほうに、2020年2月9日のジャパン・ミャンマー祭でスーチーQサンが、ミャンマー映画誕生百周年記念事業として『入間の竪琴』否『ビルマの竪琴』三度目の映画化はどやさ、とリップサンビスで言ったのを受けて、マ・パンケッ的に、いい加減にしてよスーチー、あの小説のどこがビルマ南伝仏教をコレクトに描いて両国民の相互理解に貢献してるっていうのさ、逆じゃないっ!!!と、逐一例を挙げて糾弾するくだりがあり、それがもとでスーチーQ女史が軍にクーデター起こされたわけではむろんないですが、スーチーQサンにとって『ビルマの竪琴』は、日本人がしょっちゅう口にするノベルズタイトル、くらいの認識で、英語版とビルマ語版が、人食い人種始め、ベーヤーな、事実と反する部分を削除してる、そこんとこを政治マター優先で、あえて考えてない感じな気がするというその箇所に、上座部仏教十戒があって、セックルはむろん、飲酒もウソも音楽も間食も貴金属を身に付けるんもアカンえー、と書いてあったので、はて、笹倉明サンは、出家後、それらを守っているのであろうか、その辺書いたあるのであろうか、と思って読みました。『ビルマ文学の風景』を読むまでは、在タイ东瀛老人が将来の介護まで踏まえて僧院に転がり込んだんかなあと思ってました。チェンマイとかは、邦人始めファラン認知症徘徊老人がいてて、現地の温情でケアしてもらってるとゆうので。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

こういう人生のセーフネットを僧院に求めたオサーンの話かと思ってました。

オチャケに関しては、頁19に、段階的に減酒していったことが記され、一日も欠かさず焼酎のミニボトル一本開けてたのを、ビール一日一缶へ、缶も(小)にして、二日に一度、三日に一度、一週間に一度、と減らしていき、得度式の前日に上等なビールで飲み治めをしたそうです。本書はやたらめったら、私は人生の失敗者です、みたいな、言われる前に自分から言ってそれ以上の批判を封じてしまおうという、そんなん御見通しやわ、的なクドクドが多いのですが、ここと素足で屋外を歩く訓練達成のくだりは、シンプルに成功してうれしかったのか、ウキウキとピンクの雲に乘って書いてます。

飲酒戒のパーリ語文章と邦訳が頁44に載っています。「スラー メーラヤ マッチャパマー タッターナ ウェーラマニー」(スラ―酒(穀物酒)やメーラヤ酒(果実酒)のような酒類から離れます)だそうで、日本の大乗仏教僧侶だと、「いや実はソーマというのがあって」と、仏典にも抜け道ガー、を語るかもしれません。聞いた気瓦斯。

作者によると、パーリ語というのは日本語の発音に似ているそうで、それでカタカナで書くよん、としてます。タイ語だと、声調もあるし、なかなかカタカナで書くのも難しいのでしょうか。ナゾです。作者は、ふつう「バーツ」と書かれるタイの通貨を、一貫して「バート」と書いていて、その辺で既にして、まだ何か抱えてしまっているものが捨てきれてないなあ、と思います。日本語だと、「如上」という言い回しが好きで、さんざん出て来ます。上善如水。

そうですなあ、この人のインタビュー記事のヤフコメには、金に汚い実例がバンバン書きこまれたり、まず家族に償いをしてからちゃうん、と書かれていたり、せやしそれが作家の業なんやから、書いて書いて書きまくれよ、それしかないやろ、みたいなコメントがついてるのですが、さもありなんという作文の連続でした。先日ぐうぜんラジオで上野千鶴子のインタビューを流していて、通所施設などでの扶桑老人男性に特に言いたいのは、弱みを見せて甘えることを覚えなさいということだ、と言っていて、インタビュアーのアナウンサーが、いやあ、私もそうですけど、年取ってから弱みをさらけ出すのは、恥しくて、なかなか出来ないんじゃないんでしょうか、と答えると、上野千鶴子はうれしそうに、それがですね、ある通所者の男性は、私、そういうのは、四十代のころから甘えてましたわ、と、こういうんです、と返していました。そういう、甘え上手のある種の人たらしは、一般例にならんわい、上野千鶴子たらしこまれてるんちゃうか、そのおやじに。ファザコンガー、と思ったというのは余談ですが、作者も、そんなんなのかなあ、と。

そういう人が、私は団塊世代で、団塊世代って、いろいろこんなんあるんですよ、体罰肯定されてましたし、学生運動さかんでしたし、と、団塊世代のせいにするのは、おかしいと思いました。団塊世代なんて、ふつうじゃないですか。むしろその団塊世代に搾取された、就職氷河期のロスジェネ世代のほうがよっぽど大変だし、年金もらえなさそうという点で、将来も大変だと思うのですが、その辺には触れてません。毎年日本に帰ってるし、ネットの時代ですから、知らないわけないと思うのですが。

 ブックデザイン 鈴木成一デザイン室

団塊世代ということで、へえと思ったのが、東アジア反日武装戦線「狼」の三菱重工ビル爆破事件で自分の机にもガラスの破片が飛んだと書いてある箇所。頁86。前日飲み過ぎて出社しなかったので難を逃れたんだそうです。あと、学生時代、スナック喫茶で知り合ったSさんという女性が、連合赤軍のリンチ事件の犠牲者のひとりとなったという個所。団塊世代数多しといえど、連合赤軍リンチ犠牲者と面識がある人は多くないと思います。小説に書けばいいのに。てゆうか、もう書いたかも。あんまし讀んでないので、知らへんだ。

才能ナイナイと書いている箇所のひとつ、頁64で、直木賞とった作品も、実在のモデルとなる事件があったと書いていて、ソウデスカと思いました。あれは主人公の設定が二転三転するのが面白かったのですが、元ネタの事実も、あのように主人公が自分がなにものかまで二転三転コロコロ証言変えてたとするなら、ちょっと作者のポイントにはならないなと思いました。まあああいうことも、力のあるルポ『じゃぱゆきさん』や『東電OL殺人事件』には負けてしまうので、いっそルポも書けばよかったのにと思います。山崎洋子だって『天使はブルースを歌う』書いたし。

(2021/4/25)

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この人は、出家をする五年前に、シニアゴルファーになろうとしたそうで(タイだと簡単らしい)その検定試験直前に、日本の息子の家を送付先に指定した新しいキャッシュカードからネットバンキングで預金残高を息子に引き出されてシニアプロの試験料を払えず、夢はオジャンとなったそうです。その息子さんにはわりと投資したそうで、息子さんとしては、それしきのことで困窮するほど落ちぶれてるとは思わず、軽い気持ちでガメたとか。しかしこういう、作者がカネをむしられる話は、あとふたつくらいしかないです。ひとつは自作の映画化(けっきょく、作者を通じて、死期の近い父親のカネがむしられる)もうひとつは直木賞受賞直後の下記。

頁66 城を侵しにくる者たち

(前略)みせかけの善意を振りかざし、世にいう弱者を使って利をえようとするグループ(偽の慈善団体)が、ぜひセンセイにもご参加いただいて盛り上げていきたい、などと甘言を弄して近づいてきたのは(中略)

(中略)相手は警察の手入れを受けるという事態となって、すんでのところで(以下略) 

 だらだら長いので略しました。「下手な小説にもなりません」と書いてますが、小説にすればいいのに、と、思いました。タイでもこわいかな、報復とかが。豊田商事の会長の件みたくなったらヤダ、とか、いろいろ考えすぎてるんだろうなと勝手に思いました。

で、かりにも直木賞を受賞するくらいですから、諫言してくれる業界関係者もようさんいたと思います。そっちの知己を切らないでいれば、本を出してくれる先に困るようなこともなかったのかもな、と思いました。悪評で出版を渋られるなんてことが、もしあればの話ですが。本書も作者が見城徹サンに持ち込んだ企画な感じで、ほかでは拾ってくれなかったのかなと思います。校條(めんじょう)剛という人と小木田順子という人には、一冊の本にまとめるまで、ひとかたならぬ世話になったそうです。きっとみんな、こういう作者の半生、自伝が日の目を見て、地獄の劫火で焼かれるがよい、と思ったわけではないと思います。業火とどっちが正しい漢字か知りません。

カネほかを、たかるというか無心するくだりは、「~られる」より、だいぶ多いです。最後、得度式までのチェンマイのゲストハウス宿泊費用も自費ではもたず、これは娘さんに援助してもらってます。晩年まで親に助けてもらうくだりで、驚いたのは、孫と息子夫婦が住む家を建ててもらいながら、ヨメが実家から帰ってこないため、実現しないというくだり。それでいて、本人が住むペントハウスみたいなところは、どうも後援者というかタニマチというか、の人の物件に、ロハで住んでいて、それが、大家に寿命で先にいかれてしまい、それで日本の住みかを失って、タイへGO!という… すごいなあ。

シニアプロになろうとするくだりで、頭を剃髪してるので、沙弥になるにあたって、そこだけはもう事前に出来ていた、とするくだりは、円形脱毛症から剃髪せんとする私には、おおいに勇気づけられる話でした。そこだけは、先行者として参考にしたいと思ってます。

(2021/4/27)

図書館本ですが頁92に付箋が貼ってあり、しかしその理由がさっぱり分かりませんでした。自分に責任がなくても結果は自分が負わねばならない、という個所なのですが、明らかにアマローサン、納得してないです、その理屈に。

出家するにあたって、負債のないことが条件のひとつにあり、それを師、マスターとの問答の中で宣誓せんければいけないわけですが、ここ、おかしいです。

頁110

 私の場合、これについてはどうかと問えば、真っ白というわけにはいかないことに思い当たります。

 例えば、世人のなかには、私が映画に手を出して借金をつくり、クビがまわらない状態に陥ったというふうな、大いなる誤解を公にしている人がいます。いくら愚かしい欲夢をみていたとはいえ、私にはもとより大金を借りる度胸などなく、およそ知友関係からの出資という形でまかなったのでした。が、未だ出資者への恩返しを果たしておらず、歳月を過ごすうちに亡くなってしまった方もいるなど、これまた心残りの一つです。いずれは弁償しなければという気持ちはあるものの、それがいつになるのかはわからない、ゆえに灰色というほかはないわけです。

 返さなければいけないのなら、それは負債だろうと思います。法的に借金でなく、公正証書かわしたわけでない(とは言ってませんが)「出資」だから借金ではアリマセン、それは分かるけれど、「負債」というものは、もっと大きな枠でくくって、棚卸をしていかなければいけないものではないでしょうか。それをそのようにグレーとごまかして沙弥になっても、いずれ破綻するのではないでしょうか。自分にウソはつけないので。もうひとりの、深奥の自分が滅ぼしに來るはずです。

子どものところ、二つの家庭の箇所は、最近はネットの世界の大衆がものすごくこういうことに厳しいので、まあ許されないだろうなと思いました。ダウト。もうだめです。

頁127 

なるほど、これが世の現実かと思ったものです。別れたほうを棄てて別の家庭を持つというのがふつうのケースであるのは、相手を独占したいという我欲が幅をきかせ、寛容な精神こころを追いやってしまうからでしょう。どちらにも全面的に与せず、中立の立場で両者とつき合っていく、という私の考え方などは、世人の常識を逸脱したことなのだと思い知らされたのでした。

 でもまあ、文化人であれば、朝鮮童謡集やその手の類書を天下の岩波文庫から今でも出っ放しの金素雲なんて、四方田犬彦が『我らが他者なる韓国』で取り上げている日本側の家族の手記などから、あっちでもこっちでも家族作って、それでこれだからたいがいやん、ということですから、上には上がいる、どこまでもエゴイストかつうわべの道徳者として破綻した人生をもっとアクセル踏んで疾走すればあ、と、見城徹のような人なら思うかもしれません。親の資産など鑑みて、踏み込めないうちにじり貧という感じだったのかもしれません。やんぬるかな、おえん。

この人はこれほどまでに他者に鈍感である一方、自分の痛みには実に敏感で、そこが滑稽で笑いを誘います。頁137から、犬に咬まれて狂犬病を心配するくだり。世の中には、病気になるとすぐカネ借りて飛行機乗って(自費でエアチケット買うだけのもしもの時の蓄えがまずない)帰国する人がいますが、そういう人のこころぼそさと、人に帰国費用タカるふてぶてしさは、石を投げれば当たるくらいよくある話ですので、笑うしかありません。で、ここで、バンコクのチャイナタウンの描写があり、

頁139

華僑(国籍はタイなので華僑系タイ人とも) 

 という言葉が飛び出して、華僑はいつか帰る仮住まい意識の一世、代を重ねて現地に根を下ろしたら「華人」という言い方がふさわしい、という用語のイロハも出来てないのか、ウソだろう、と思いました。アマローは中国人や台湾人をモチーフにした話も書いてますし、国籍にまつわる話も書いてます。で、タイ移住後は、相場より高いゼニでタイツアーを企画したりしてるわけです。この程度かよという。それでよくツアーアテンドとかするな、面の皮あつすぎ、と思いました。アマロー師は在家時代のブログをまだそっくり残してますので、読んだら面白いかもしれません。浮世の恥はかき捨て。削除してほしくないです。

ビルマ文学のマ・パンケッの人が華人という言葉を使うのは、別の意味でどうかと思うのですが(彼女はナショナリティーの意味で主に「◯◯人」という言葉を使い、エスニシティーの意味では「◯◯族」という言葉を使う。よって、「ビルマ人」と彼女が言った時、それはビルマ国民という意味だし、「ビルマ族」と言ったら、ビルマの多数民族ビルマ民族を指す。「日本人」「イタリア人」「シャン族」「ナガ族」「カレン族」すべてこの調子である。ロヒンギャだけ少し違うが… そして、「中国人」を使いながら、ビルマ国籍のチャイニーズを「漢族」と呼ばず、慣用的な「華人」をそのまま使っているが、ここはやはり「人」「族」の用法を厳格にする意味で、「漢族」と書くべきだったと思う。コーカン族はたぶん華人と書かずコーカン族と書くんだろうし、なら例外的に「華人」というのでなく「漢族」と書いてほしかった)

こんな感じかなあ。以上です。

(2021/5/2)

【後報】

この人が、下記の、元バンコクなんとかの記者さんとのインタビュー記事のヤフコメで、毎年帰国する費用も句会の主催者から出してもらってたとか、句会ではサイン入りの自書を並べて、古書店で売ればカネになりますよと宣伝に終始していたとか、相場より高い、直木賞作家がガイドするタイツアーの誘いをしていたとか、そこまで書かれるのは、逆にいうと、作者がタイに逃げるまでになった、なにか団体とかとの悶着がいまだに尾を引いてるのかもとも思いました。そんな都合よくコメント出るかなあと。エゴサーチの枠を超えてるような。

b.hatena.ne.jp

タイでの受け入れ先寺院については、チェンマイの現落ち着き先と、バンコクの、タイでも一、二を争う名刹との間で揺れたと書いていて、自分でチェンマイに決めたことなのに、あたかもタイミングの問題であったようにも書いたりする部分もあり、そのへん、ハッキリしてるものをアイマイに書くのは両者に失礼な気もしました。作者的には、タイ人はそういうこと気にしない、というかもしれませんが、あまりやると、いわゆる現地で現地の人に嫌われる邦人のパターンじゃん?と。まあそこまでのことではないのでしょう。たぶん。

(2021/5/3)