『私のチベット』"WE TIBETANS" by Rinchen Lhamo リンチェン・ハモ(チベット選書)読了

私のチベット (日中出版): 1988|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

今年春刊行された『チベット女性詩集』で三浦順子サンが書いたコラムに出て来る本。おそらく史上初めてイギリス人と結婚してイギリスに渡ったチベット人女性が、1926年、イギリス社会のチベットにまつわる誤謬、嘘八百、デマの多さに腹を据えかね、夫の協力で英語で書き上げた本。

「ウィー、チベッタン!」という原題がカッコいいです。スパイク・リーの"Do the right thing"ではクライマックス、黒人暴徒に囲まれた韓国人のグロッサリー店主が「ウィー、ブラック!」と絶叫しますが、それは無関係。

彼女は25歳でこの本を書き、28歳で結核で早逝。お子さんは四人。三浦サンは1980年代後半ダラムサラにいて、別のコラムにこう書いています。

 当時、結核は亡命チベット人社会に蔓延する病気のひとつであった。標高が高く、空気のきれいなチベット本土から熱帯の地インドに下りてきたチベット人は、たやすく結核菌の餌食となったからだ。

チベット女性詩集』【コラム1】「亡命した尼僧の話」頁28

ハモサン自身も本書頁113で、ヒマラヤ熊の肝が咳に薬効があり、西洋医学よりも効き目があるので、チベットの実家からロンドンに送ってもらっていると書いています。

本書は共訳のペマ・ガルポサンが1972年、21歳の時に神保町の古書店で偶然見つけ、数千円の金額にちょっと手が出ず、大学に購入してもらうかたちをとってそれを複写し、1985年、亡命政府経由でニューヨークで復刊、1988年、ダラムサラの三浦さんがおもに翻訳し、邦訳出版されたそうです。ハモサン出身のガンゼはペマサン祖母の故郷だそうで、ペマサンの母によると、やはりイギリス人と結婚した女性は当時大きな噂になったそうで、「悪魔が乗り移ったために、異国人と恋に堕ちてしまい、その結果、外国に連れ去られてしまった」というかたちで伝承されていたとか(頁172)

ハモサン自身による、自身についての記述によると、下記。

頁54「第7章 物事に慣れる」

 私の親類縁者たちは私が故郷くにを離れようとしていることを知ると、なんとかして私をひきとめようとしました。故郷の人々は平均的なチベット人が山を下りることはほとんど間違いなく死を意味するといって、下界を怖れていました。

 けれども私は下界におり、かつ死なずにすんでいるのを知っていました。夏は溶鉱炉そこのけと言われるカルカッタにさえチベット人は住んでいるのです。また多くのチベット人女性が中国人男性ー大半は役人ーと結婚して中国各地に住んでいます。そのため、チベット人は中国人には慣れていました。

 しかし白人となっては、まったく異なる存在でした。(以下略)

彼女の夫のルイス・マドラス・キングサンは、当時ダルツェンドにあった英国領事館の領事で、スコットランド系で、代々宣教師だったとか。夫婦の共通言語は漢語。帰任に伴って彼女を連れて帰国。

同55

「御主人はこの地が好きなんだから、この地にとどまるよう説得なさい」と人々は言いました。ただ、娘が中国人高官と結婚したため、一緒に北京に赴き、何年もその地で暮した老婦人だけはこう言ったものです。「そんなことはナンセンスだよ。あんたはすぐに平地にもなれるだろうさ。北京は住むのに楽しい場所だったし、人は親切だった。見物することもやることもたんとあったものさ。他の場所だってきっと同じくらい楽しいだろうよ」

ハモサンによると、ダルツェンドは田舎、街道に沿ってあれやこれやがあるだけの、集落の規模が大きいだけの場所で、成都や北京、東京は都市だけれど、ロンドンのように住人の生活までシステマティックに機能的に設計されていないそうです。近代産業のために一日のスケジュールが決められているような暮らしはしていない。

ハモサンは漢語話者でもあるので、ダルツェンドの漢字表記が《打箭爐》《泸定》《康定》と三種類あることも知っていて、ギャミ的には《康定》が公式名称だと書いています。関係ありませんが、沢木耕太郎『天路の旅人』で、「打箭炉」に「だせんろ」とルビを振っていて、そんなの初めて見たのですが、諸葛亮孔明の故事に由来するという説があり、なので堂々と「だせんろ」でした。チベット語に漢字を当てた説をとってない。

kotobank.jp

ハモサンが成都で罹患したのが結核かどうか分かりませんが、その後の頁56に、オメイ山巡礼について書いています。峨眉山です。"emei"がピンイン。香港映画で「阿弥陀仏(アミダブツ)」を広東語で云う時、「オーメイトーファー」と聞こえるので、ガビ山とカブッてると、私は勝手に思う時があります。でも当時は三浦サンもペマサンも、それが芥川龍之介の小説にも出て来る山とは気づかなかったのかもしれません。

とまれ、古い訳なので、化身ラマという最新の言い方でなく活仏、ターラー菩薩は多羅菩薩で、多羅にドルマとルビを振っています。しかし本書のチベット説明は実に明快で、ゾとゾモとヤクとディはどう違うか、なぜヤクの交雑種を作る必要があるのかなどの箇所は、実に分かりやすかったです。牛のように完全に家畜化したものの血統が入ると、より飼いやすく、ミルクも多く出るのだと。ただ、一代雑種といいながら、ゾとゾモのあいだにも子は産まれ、しかしその「アコ」と呼ばれる子は不吉なので、だいたい生まれると殺されてしまうという箇所は意味深でした。殺生をなるべく避けることになっているチベットのサーフィスと、その下の、ためらわない本質について、クリアに見せてくれるような。頁25。

また、本書は青裸麦について、頁26「ネイ」というルビを振っていて、これがチベット語表記なのかなと思いました。「チンコー」という北京語のカタカナ表記のチベット旅行記が多かったのは、やはりどうかと思う。漢語表記でいうと、あと、土地の広さの単位の漢語、畝(ムー)が出て来るチベット関連の本は、やはりそっち系という感じで。

本書の時代はまだ民國で、蔵漢関係にバイアスがかかっていないころですので、砖茶や牛が漢族由来であることなどスラスラ書いてます。国境地帯のチベット人は、漢人と交渉する時だけの便宜上の漢姓を持っていて、ハモサン一家のそれは〈孫スン〉だと書いています。まさよし。頁82。チベットでは改名はめずらしくない、という箇所。

ただ、本書は欧米の偏見へのプロテストとして書かれた本ですので、兄弟で妻を共有する兄弟婚、本書では「一妻多夫」としてますが、そんなものはチベットにはないと断言してます。まあこれは、1996年90年代初頭にTBS「世界!ふしぎ発見」がチベットをやった時にも、かつてはあった、しかし現在はありませんと草野仁サンがフォローしていたように(でも私も会ってると思う)なかったと言い切る性質のものではないと思うのですが、彼女としてはロンドンで暮らしていて、「ない」と言い切りたかったのだろうなと。

相模大橋のたもとのモスクの横を通る邦人がよく「イスラムって一夫多妻なんだぜ」と云うのを礼拝に來るムスリムが聞いて、扶養可能の前提なので、その辺の男性に二婦養うは㍉、一夫一妻がふつうデスヨといちいち反論したくなるようなものかもしれません。

本書はことわざ好きなチベット人らしくことわざも多く、「中国人は破産すると靴を枕に使い、チベット人は馬にのる」(頁49)など、よく分からないものもありました。白馬王子、GacktのDVDはチベットでは破産なのか。また、書かれているチベットボードゲームのひとつはちょっと読み込んでないので、よく分からないままです。もうひとつはオセロだと思います。

昔話も四つか五つ収録されていて、仏教国なのにまったく因果応報でないのが特徴だと思いました。因果応報はやっぱり、漢訳仏典で、儒教の影響下で成立したんですかねえ。湖に落としたのがジャイアンがよいジャイアンか悪いジャイアンか、みたいな話があるのですが、どんなマヌケがどんな失策をしても、正直にいえば即失地挽回のアイテムが湖から出て来たり。そんなご都合主義が喜ばれる社会だったのかなあ。勧善懲悪でもありません。

チベットの片持ち橋梁 丸太の枠組みの中に石を積み上げてできた橋台を支えにする板張りの橋。ヤールン河に架けられたこのタイプの橋ならどんな急流にも耐えられる。 ダンゴの前王子の宮殿 宮殿の前部の矩形の部分には何百人という人間、何百頭という家畜を収容することができる。

本書の各章扉には、上記のように貴重な写真があって、装幀者未記載ですが、原書にも載ってる写真かなあと思いました。右の写真は、ダンゴという地名が分からないのと、何百人も収容出来る場所が分からないです。左は、流されないのではなく、むかしの厚木のもぐり橋のように、わざとすぐ流される場所を作っておいて、増水時にはまずそこを決壊させることで水のエネルギーを逃がし、ほかの大部分の橋を無事に残す設計ではないかと勝手に思いました。

こういう出版社名ですが、逆説的な「日中」というかなんというかのはずです。

ペマ・ガルポサンの訳者あとがきで、柳瀬宣久社長及び社員ご一同サマへの謝辞。

以上