津野海太郎という人の『歩くひとりもの』に出て来たので読んだ本。津野海太郎という人は小林カツ代心酔者です。
虹色のフライパン (国土社): 1984|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
装幀*中島かほる 装画・イラスト*池田葉子
本書の前半部分は半世紀自伝。だいたい上のウィキペディアにも書かれています。後半は、戦争はイカン、ぜったい反対、とか、カギっ子の食生活は、とか、暴走族は(当時まだ珍走とかDQNという言い方はなかった)とかの時事放談です。
中高が非常に校則が厳しいカソリックの女子校だったそうで、どこかとは書いてません。お好み焼き屋には親と一緒に行っても停学処分だったそうで、理由が分からないと書いています。「ちがいます、お好みやあらへんです、イカ焼きですよってに」と言い張る21世紀タイプは当時もいたのでしょうか。頁15。
そんな学校でも盗癖のある子がいて、匿名でチクらせたらぜんぜん的外れのいじめられやすい子を記入して提出したアホがいて、その子は当然いじめられて、カツ代サンはしかしわけへだてなくその子に接したので、それでその子は助けられて(精神的に)卒業まで乗り切ったそうです。教室移動や体育のさいにクラス委員とシスターみたいな人らが勝手に机やロッカーの私物検査して、それで犯人検挙に及んだそうで、公表されずともおのずと知れ渡るわけですが、クレプトとはそういうものなのか、盗癖の子はけろっとしていて、いじめられるタイプでもないかったので、その後のキャンパスライフなんもなかったそうです。今だとそうはいかないかも。その意味で、懲悪社会はより漸進したというべきでしょうか。
本書見返し。
カツ代さんは、規則が厳格な学校に通っても、フリーな学校に通っても、にんげんは変わらず、よい人間はよい人間、ダメ人間はダメ人間なので、規則なんか厳しくなくていい、と言ってますが(頁27)私は、ひとはかえられないのなら、せめてその期間だけでも規則規則でギリギリ身動き取れなくしてしまえば、拘束期間だけはめんどう起こさないだろうと思いました。カツ代さんと真逆な感想で、刑務所や閉鎖病棟みたいな発想。しかしそれは私が夜警国家、禅なる管理を無意識下に前提にして言ってるからで、恣意的な運用、あきらかに不公平で不条理な抑圧が発生することは火を見るより明らかですから、別に入管のことを言ってるわけではないのですが、なかなかうまくいかないでしょう。
頁81、“貧しいながらも楽しい我が家” などというのはまやかし、とあり、どきっとしますが、限度があるということで、度を超すと、例のまんがにもなったタイトル、『健康で文化的な最低限度の生活』がおびやかされて、人間の尊厳が踏みにじられるということなのでしょう。これは、望まぬ結婚をして早逝した近親者を回想して、そう言う場面です。私は「尊厳」が踏みにじられると書きましたが、カツ代サンの言い方だと、「自由」が奪われる、です。どう違うか、またそれはなぜか、考えて1000文字以内で回答する小論文の問題は開成中学の入試でたぶん出ません。
父親に関して、立志伝というか刻苦勉励で商道で成功した人物と書いている一方で、戦争で一人も殺せなかった弱虫でビンタくらいまくったとあり、弱虫だったら逆に上官の命令というマニュアル完遂で、殺さなくてもいい戦闘能力の低い婦女子も平気で殺してたんじゃないかなあと思います。そんな人間が殺しまくって戦後も素知らぬ顔で金儲けに邁進するのをチクリとやり続けるのはいいのですが、殺さなかったというのは、そういう極限状況を回避しただけでなく、運もあったと思うので、殺したことで戦後おかしくなってしまったり、その手前で行ったり来たりするようになった人には、どう接していたかまで書いてほしかったかなと思いました。頁85。ここは津野海太郎サンの本でも少し書きましたが、ぜんぶ書くつもりはなく、でもここで書いてしまった。
頁113に、「アーもスーもない」と言い回しが出ます。つべこべいわないというか、いやもなにもない、どうもこうもない、みたいな意味と直感で分かりますが、知らなかったので検索しましたが、「あーもすーもねえ」(岐阜)と「あもすもにゃあ」(名古屋)が出ただけでした。大阪人カツ代サンですが、謎。
ちなみに、私は小林カツ代という人のレシピに関しては、どちらかというと、アンチです。あわないものをイキオイだけで「合う合う」と押し付けてくる感じを感じ取ることがあります。今で言うと、まちがいだらけなのに「これ絶対まちがいないやつだ」とか、何の根拠もなく、自身の直感霊感も無視して言う御仁に通ずると思う。
頁140に、暴走族について、当時はいろんな「母」が批判していた尻馬的に批判する箇所があるのですが、一生やってんならエラい、と言う部分に反応したわけでもないと思いますが、現在、舊車會という人たちがホントにいるので、それについてどう思うか知りたい気もします。本書執筆時、ケンタロウの人は小学五年生だったそうで、エントロピー増大の法則というわけでもないでしょうし、なんともいいようがないと思いました。本書時点では、娘さんもあとを継ぐかも的記述があります。
頁150、虐待された捨て猫を養う話と、どうぶつ好きなのに猫アレルギーがある娘さん(刊行時小学六年生)のくだりは、いやーこれは、という箇所で、二週間ほどたつと、なぜかアレルギーがなくなるという奇跡的(フィクションならばご都合主義的ともいう)展開が発生するのですが、カツ代サンの人が何か信仰を持っていれば、この時点でそれは深まったと思います。キリスト教関連に寄稿したりしてたそうですが、どうだったのか。もし信仰があったとすれば、その後、起こったことについて、裏切られたとかでなく、信仰が試される場面と捉えたのかどうか。
頁169にNHK特集とその活字本『なぜひとりで食べるの』が出て、カギっ子のカップメン食、ポテチと飴食、などの1984年(バブル前夜)の潜行社会問題と、塾と学校の往復のあいまに出来合いの弁当等で食事を済ませて夜九時十時に帰宅するエリート予備軍の児童と、両方を取り上げているというのが、へえ、と思いました。竹熊健太郎が言ってたのか他の誰が言ってたのか、まぼろしの美味しんぼ最終回は、いっさいの美味が通用しない、化学調味料万能味覚オンチ魔人がすべての食通をなぎ倒し、四郎と雄山はそれにどう立ち向かうのか、という展開になれば面白い、を思い出しました。ちなみに、ウィキペディアによると、カツ代サンは料理の鉄人で鉄人に勝利してるそうです。相手は美川憲一、否、陳建一。勝間和代は勝利してるか知りません。
この本は読んでみたいと思いましたが、これも近隣の図書館になく、古書は5k越えですので、そのうち岩波が同時代ライブラリー、否、岩波現代文庫にでもしないか、待ちます。でもホールを閉めるくらいだから、苦しいんだろうな、岩波。
なぜひとりで食べるの : 食生活が子どもを変える (日本放送出版協会): 1983|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
こどもたちの食卓 : なぜひとりで食べるの (NHKサービスセンター): 1989-00|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
小林カツ代と勝間和代もまちがえやすいですが、上のリストを見て、犬養道子が書いてるのかと思ったら犬養智子でした。が、後者知りません。
以上