カバーデザイン 南伸坊
1993年単行本刊。1998年ちくま文庫。電子化未。この本を読む限りでは、コンピュータの知識摂取に貪欲に見えるのですが、それはパソコン通信の時代?だったからか。1991年のバブル期にパソウコン通信があったか知りませんが。その後、書籍の電子化に対し、どういう考えになられたのかは知らない。本人要因でなく、ちくま事情からの電子化未かもしれません。
1991年から1992年まで「思想の科学」に連載したコラムが初出。「なかじきり」と冠した箸休め的コラム(箸休めの箸休め?)が三つ入っていて、これは著者が友人と出していた「水牛通信」と「山猫劇場通信」という「雑誌」からとったそうです。雑誌というより「ミニコミ誌」のカテではないかと最初思ったですが、後者は分からねど、前者はリッパに雑誌だったようです。頁88にそのくだりがありますが、片岡義男と高橋悠治どっちと組んだのがどれなのか、漫然と読むのでごっちゃになりました。前段に、小野二郎という人から誘われて、昭文社、否晶文社草創期のメンバー五人に名を連ねたとあり、そっちに気を取られたせいとも言えます。
JOJO第四部とスピノフの岸部露伴は人間を本にするスタンド能力を持っていますが、津野サンは相手をすべて目次化してしまう能力を持っていて、だいたい全七章くらいにしてしまうとおさまりがよいそうで、目次にはなべて「はじめに」と「おわりに」を置くそうです。プロローグとエピローグがないと落ち着かないんだとか。この文庫は、思想の科学版のあとがきと、文庫あとがきふたつがあり、「まえがき」はありません。単行本には佐伯隆幸という人との対談が入っていたようなのですが、文庫にそれはなく、「諸君!」1998年2月号に載った、山口文憲と関川夏央との鼎談が載ってます。
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山口文憲『団塊ひとりぼっち』(文春新書)2006年に出てくる本。その本ではワリとケチョンケチョンですが、それは業界の仲良し同士が紙面を使って遊んでるだけだと、本書を読むと分かります。鼎談で使われた「背教者ユリアヌス」「背教者カウツキー」がそのままブンケンサンの文春新書に出てくる。鼎談では、通りすがりに見知らぬ女性から「歩く裏切り者」と言われたエピソードを開陳しています。和光大學の学生が本書を読んでいれば、真似してからかったかもしれない。読んでないかもしれない。
なんでそういう目にあったかというと、シングルラフについてえんえん書く本書のようなものを出しておきながら、還暦婚したからです。ブンケンサンの本だと、あとがきでやっとそれに触れるのはアンフェア、文庫版まえがきを添えて、そこで明記すべしちうのですが、鼎談でもさんざんからかわれてますし、文庫版あとがきでこうも書いてるので、いいんじゃいかと思いました。
頁254
もう一つは結婚。つい最近のことだ。それについて語る度胸はまだ私にはない。
阿川佐和子や春風亭昇太も結婚したし、まあ別にという。ただ、世の中には、荒俣宏のように、籍をいれてないだけで、事実婚のパートナーがずっといるケースもありますので、よく分からない。ベンゲルのようにハッキリ分かるパートナーもいれば、わざわざ広言されないばあいもある。
いっしゅん、こんな顔のしとなら還暦婚アリかと思いましたが、これは小沢信男さんの写真みたいです。2021年の記事。
こんなひと。和光大学の図書館長と教授をつとめ、現在も同大の名誉教授ということなので、お顔を知ってる人は多いと思います。
本書カバーのご尊顔。
単行本での謝辞は、「思想の科学」編集委員黒川創、編集部秩父啓子、川口和正、装丁の南伸坊、対談相手の方。友人諸氏へ、ことわらないで登場させてメンゴメンゴと書き添え。文庫版の謝辞は筑摩書房編集部金井ゆり子、打越由理。
文庫版あとがきや本文のあちこちで、先行する人たちの物故について書いてますが、そこにイヤンジも入っています。
こういう、本の世界に埋没した人の本は、引用や参考文献がかなりあって、読んでるとそれも読みたくなるという難点があり、本書も警戒しましたが、私が読むような軽い本は少ないので、ラクでした。
<読もうと思った本>
- エリック・ホッファー『波止場日記』みすず書房が1971年に出したものが、2002年新装版、2014年新編集版と、今でも新刊扱いで出てます。頁9
- 海老坂武『シングル・ライフ』ブンケンサンの本にも出てきますし、こっちでも出てくるので、じゃあ読もうかと変心。頁34。
- 小林カツ代『虹色のフライパン』(青春ノート6⃣)国土社1984年 頁50 後述
<読もうと思わなかった本>
- ソロー『森の生活』著者が読んだのはJICC出版局版。岩波文庫でも今でも買えるみたいです。頁11
- モナ・オズーフ『革命祭典』頁36
- 長谷川如是閑『ひとりもの』1907年。作者は「近代日本ユウモア叢書2」双柿社1981年の古書バラ売りで読んだそうで、それ以外、全集等のどこに収められているかも分かりません。かなりはやいページ。
- 広津和郎が島村抱月のエピソードを記した本。岩波文庫。
- スーザン・ソンタグ『隠喩としての病』頁79
- サルトル『汚れた手』頁79
- 『コンピュータと認知を理解する』産業図書 1989年 頁82
- ウィリアム・モリスの本
- 鶴見俊輔の夢野久作伝
- ヴィトゲンシュタインの本。
- ブレヒトとその女性関係にまつわる、それなりの本複数。
- 『マックはタイプライターにあらず』ピーチビット・プレス 1990年。頁127
- ミラン・クンデラ『不滅』1992年 集英社 頁140
- 川崎彰彦『夜がらすの記』ノア編集工房 1984年毎回、夕方外飲みに出かける場面がとてもいい連作小説集だそうですが、近隣の図書館になく、古書も四千円台なので、誰かが目をつけて再版しない限り読まないでしょう。 頁174
- 植草甚一『経堂から新宿の繁華街を歩くとき』1969年 晶文社『植草甚一読本』所収 経堂に住んでたのは狩撫麻礼だけじゃなかったんだなあと。
長谷川如是閑から始まって、近代日本の「ひとりもの」列伝を書いてゆくなかで、それぞれ、実は身辺の世話をする女性(近親者が多い、だいたい若いのかな)がいたことが分かり、作者は衝撃を受けます。会津八一や、三上章など。早逝しなければ賢治と妹の関係もそうなる可能性があったと。大変だなあ。それで行くと中勘助もかな。
で、姉の人が身辺の世話をしてるという小泉純一郎元首相はその点でも特異点だなと思いました。相手が年上の親族というのは本書には類例がありません。また、森茉莉のような、女性のひとりものをバッサリ切って、「ひとりもの」イコール男性としている点は、21世紀的にどうかなとも思いました。だから電子化されないのかな。
小林カツ代は、私はアンチなのですが、それまでの料理本の「~ねばならぬ」をくつがえした、時短、タムパの先駆者として、本書では評価されてます。ケンタロウ的立場にいた、コウケンテツを、さいきん、テレビで見ないと思いますが、私がテレビを見ないだけかもしれません。鄭、テイトウワと並んで、コウケンテツさんも、華人でなくコリアンだけれども日本語読みさせる人。玉村豊男『料理の四面体』もカツ代本と同じベクトルだそうです。カツ代論の、野菜に力がなくなったので、あく抜きや下茹でしないでそのままやらんとダメというくだりは、大根なんかは下茹すべきなので、あんまり賛成しません。中国で下茹でしないで煮物作って、えらい味になって、貴重なダシの素を無駄にした経験から。
私と同じく、作者も、カツ代さんは戦中に皇軍必勝を祈って「カツ」と名付けられたのだと思っていて、それが『虹のフライパン』を読むと違うことがわかるそうです。そこでは、父親がかかさず戦友会に出る理由が書かれていて、中国人をぬっころしまくった戦友(戦後は機を見て大金持ち)に、「お前、夢にみいひんか?」と言うためだけに出掛け続けたそうです。ただここは、原典にあたると、私が本書のあとがき部分で作者の還暦婚を引用した部分もそうですが、書いてあることの半分だけの切り取りで、ぜんぶ読むと、是々非々の感想になる気もします。
手紙嫌い、正確には、幾多の雑多な手紙を開封するのを嫌う、というのは、分かります。特に通知など。有名人は、よく分からない仕事がらみもくるので、ひとしおであろうと。それがメールやSNSのたぐいにも広がってるのが昨今だと思います。docomo Wi-Fiが終わってd Wi-Fiになるから登録しろとか、このフィッシング詐欺全盛期に、何を通知してくるねんと。
「なぜ結婚しないの?」という問いは、性の多様化以降、カムアウト(秘密の共有提起)や主張含めた多様な返しがコワイので、封印された感もあります。それとは関係なしに、単身中高年人口は右肩上がり。
裏表紙(ちくま公式と同文)
独身主義ではない。ただ、いつのまにかひとりで生きるのが癖になったというだけだ。そして、ひとりが癖なら結婚生活だって相当な癖ではあるまいか。
すべての人が例外で、例外がすべて。
街を歩き本を読みコーヒーをすすり、老いを迎える準備にとりかかる。都市生活者のハードボイルド・エッセイ。
関川夏央・山口文憲との鼎談を収録。
神は細部に宿る、は、やおよろず的な日本的感性かと思ってましたが、頁128によると、汎神論的な意味で、西洋で、特に理系のコンピュータ業界でさかんに用いられてきたとか。"God is in the detail." 数学者ドナルド・クヌースや建築家ミース・ファン・デル・ローエ氏の文章に出てくると言われても、もの知りですなあとしか。そのことばをどこで使うかというと、老眼鏡は安物を買うべきか眼鏡屋でちゃんとしたものを買うべきかの二択問題で使ってます。無駄遣い。このクヌースという人は作者や二宮尊徳同様、歩きながら本を読む人だとか。頁135
頁165、岡倉天心がタゴールに贈った、キモノ風自己流デザインの機能服の話。クルタパジャマの人に中国の道服と和服のハイブリッド贈って、それがむこうで保存されるというのも、器のデカい話だと思いました。タゴールの器という意味で。
川崎彰彦のくだりは、長谷川四郎や小沢信男が出てくる箇所で、「政党でも文化運動でも、運動組織の事務局員や書記局員というのはあれなんだよ、こんなところに長くいると、皮膚の下に黒いものがたまってくるぞ」(頁176)という名文が飛び出します。誰が言ったかは書いてません。大江健三郎がアジアアフリカ作家ナントカで極左に乱入されて泣いちゃったとか、思い出しました。今、政治がらみで見る中国人などにも同じ感想を抱きます。まあ、中国語にも、黒厚学とかあるそうですし、”他有点儿黑“,”他比较黑“とか、聞いたなあと。
長谷川四郎の葬儀で、懐旧談を語るのが中園英助で、とにかく縦横無尽に人名が出ると思いました。頁184
頁188、三十の大台に乗った作者に、当時芝居をやっていた絡みか、樹木希林がプレゼントを贈ったそうで、その頃は悠木千帆と名乗っていたそうです。
頁227、京劇に出てくる、張飛や関羽などの将軍を、「大帥」と呼び、そのあだ名でいきつけの台湾料理店で呼ばれていたというエピソードは、「大帥」を「ターツァイ」と書いているのが分かりませんでした。作者の耳には「ザーサイ」と聞こえたそうで、「ダースァイ」だったんじゃいかなあと。それなら分かる。"dashuai"〈大帅〉
どこだか忘れましたが、タイ料理屋に行く時、友人知人がみな、所謂リーマン風のかっこうでないので、ひとりものであるか否かを問わず、自営業とでもいうか、ちがう糊口のしのぎかたで服装のTPOが変わる、みたいな箇所があり、サークルの同窓会でそれは実感したなあと思いました。ライターや編集者と、そうでない職業(派遣とか)で、如実にちがった。しかし、ひとりものと所帯持ちがどこまで交友関係が持てるかは、津野海太郎さんの世代と、ブンケンさんや関川夏央世代とではもう違ったようで、所帯を持っても似たようなもの、だった世代はもう10年下ではレアだったようです。なんだっけ、中央線沿線だと、シェアハウスみたいなところでたくさんの大人に育てられた人のドキュメンタリーフィルムも見たのですが、やっぱり珍しいんだろうな。
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以上です。あとで、文庫では割愛された対談も読んでみます。
【後報】
本書は、「老い」について、二段階ブーストで書いていて、①本人が何歳とか考えず精神年齢で生きる場合。②そして、それが他者との関係性で、けっきょく社会のなかで生きているわけですから、社会のなかで、他者からの目を通して、老いを意識する場合。(異性に流し目をくれる仕草がキマリすぎているが、いかんせん年輪がそれを際立たせない、に本人が気づかなくても、他人の反応からそれに気づかされる)
それを、本書の言い方ですると、集団ぐるみで、時間を経過させていくという言いまわしになります。その意味で、家族単位の世界だけの話だと、新しい家族が加わらないと、家族関係の変化がないので、そのままの構成でときがたってゆき、そして家族は消滅する。
わけですが、そこで、さらに、では単身者は? という問いを自問しており、答えは何にも書いてませんが、ひとつには、近代のジンブン関係等のひとりもの、身の回りの世話をじつは近親者の女性がしていたような例では、自分より若い世代の取り巻きがいて、そうしたひとりものたちは、絶えず弱年齢層の連中との関係性を大切に保っていたとあります。私はまあ、それはなんだかなあと思います。若者たちから嘴甜心苦な扱いを受けていて、ホメ殺しに気づかず有頂天なだけだったら、それはみっともない。
それで、作者自身が、もうひとつのパターン、自分のケースを、明記してるわけではないですが明示していて、それは、家族持ちとも誰とも、広く交友関係を保ったまま生きている状態です。これは真似出来ないなあと読んでて思いました。鼎談者も同じ感想をもらしています。もっとも、年賀状のやりとりをするくらいなら私にも出来るので、これからもそれはしていこうと思います。
(2022/2/8)