ひとりで行く『旅の技術・アジア篇』"Travel Technic : Asian part" edited by travel Technic Engine Room 読了

旅の技術 (風濤社): 1976|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

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若気の至りの同人誌みたいな本。のちの中国現代文学の大家、藤井省三サンが東大院生時代に書いた旅行記が収められているということでしたので、読んでみました。

裏表紙は掌のイラストで、両脇の指の第一関節がピクピク動いています。イラスト描いた人の名前は無記名。発行から五十年経ってない本の表紙裏表紙の同時コピーは法律上出来ないんだそうで、表紙のみコピーしてもらいました。表紙裏表紙は、外気に触れるものなのに、今はそこまで神経使うようになってるんですね。複製技術の進歩と調和。

本書を知ったのは、新井一二三サンが2009年に台湾の大田出版から出した『獨立,從一個人旅行開始』で本書を紹介していたからです。私が読んだのは、上海訳文出版社が2021年に出した改定新版(最初の大陸訳は2011年)ですが、やっぱり、藤井省三サンが横浜からバイカル号に乗って香港に行って、羅湖から広東省を眺めていたと書いてあります。

Google マップ

页030《一水之隔》

有一本书叫做《旅游的技术:亚洲篇》,一九七八年在东京出版,内容是四个日本大学生单独去亚洲各地旅游的报导。其中一篇是东京大学中文系的研究生,丛横滨坐苏联籍船舶贝加尔号,花五天四夜去香港,在罗湖边境远望大陆的记录。一九七〇年代价钱平民化的海外游只限于团体旅行,个人旅行仍旧相当昂贵,因为廉价机票还没普及到日本来。对当时的年轻人来说,船舶往往是离开岛国唯一的交通工具。那位研究生是一九五二年出生,大我十岁的藤井省三,一九七九年作为最早期的日本留华(大陆)学生之一到上海复旦大学念书,后来成为著名的中国文学家,任教于东京大学。

貴maogui」で何も出ずあせりましたが、〈贵ang gui〉でした。さらば、すばるよ。

cjjc.weblio.jp

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博客來-獨立,從一個人旅行開始 (電子書)

しかし、原書にあたってみると、違いました。バイカル号で横浜から香港に行って、羅湖からのちに深圳となるだだっぴろい荒野(大躍進で木を伐り過ぎた)を眺めたのは、西澤晴彦という人です。藤井省三サンではない。

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上記が本書の目次。藤井省三さんが書いてるのはマカオ滞在記と、デリーからイラン行きを試みて、アフガンで力尽きるの記。,怎样! 

崔健 - 新长征路上的摇滚滾 - MV - YouTube

旅の技術を検索すると、前川健一サンのブログも本書に触れていることが分かり(人にこの本を貸して忘れられたので恨んでるとか)そこで、西澤晴彦サンが西澤治彦サンの誤植で、のちに武蔵大学の教授にまで出世した、これも中国畑の人であることが分かります。

中国食事文化の研究 - 株式会社 風響社

前川サンのブログで西澤サンと前川サンが本書について会話したところによると、ほかのふたりの著者のその後の行方はようとして知れないそうです。死して屍拾うものなし。天に飛ぶ鳥なし。地に走る獣なし。

高橋直美『戦場を旅した女』は聞き語りで、文章を起こしたのはこれも藤井省三サン。刊行当時は商社勤務の女性が、高校時代、今でいうスタディツアーみたいなもので、赤化前のカンボジアに行き、貧乏旅行は最初に行ったところが運の尽きといつも私は思うのですが、歴訪するようになり、現地はどんどん内戦でシリアスな状況となってゆき、米軍機に拾ってもらって帰る時など、その米軍機は掃討作戦に従事する機体だったので弾倉満タンで、帰りがけの駄賃にあちこち爆撃しもって帰途につき、それまで滞在していた村かなんかの住民がなぎたおされて道ばたに倒れて動かないのが機内から見えたりなんだりという、ちょっと一般人の旅行記録として、見たことのない記述があったりします。よくそんな体験が、『旅の技術』という題名の本に潜んでたものだと。

それにも懲りずに、というか、落としどころを探し求めることになったのか、何度も現地を再訪し、ベトナムから陸路、タイから陸路と攻略し続けます。後半はマッチョなイギリス人女性のバディも出来て、力任せの旅になる。で、この女性は、カンボジアで、ものすごく現地華人社会に助けられてるんですね。ことに移動のさいの有料ヒッチはもう、現地華人ネットワークにおんぶにだっこ。これ、私がカンボジア行った時と、いっしょです。私はベトナムから往路バス、復路は担ぎ屋のセダンに同乗してベトナム国境まで行き、国境から先はバイクタクシー乗り継ぎだったのですが、帰りはもう、市場で華人に筆談で乗っけてもらって、そのまんま。扱う商品は、UNTACで学校が再開したので、子どもの制服の白いシャツと半ズボンという、えらい人が外ヅラだけで援助金をそのように使ってるのかしら、という物資でした。古いニッサンかなんかのセダンの車内で、大量の小学生の制服の山のなかに埋もれて、イサーンとさして変わらぬ風景を、国境まで走ったです。この時、ミネラルウォーターを「白水」と書かれたのですが、後年、中国語を習っても習ってもそのような用法はなく、いまだに「白水」はナゾです。また、このような庶民の華人ばかりではむろんなく、休憩時にその辺のレストランで、ビデオカメラで自分たちの食事風景を自撮りしてた、おそらくシンガポール華人の、仏教関連の盗掘品かなんかドサクサGETの金満連中も見ました。後年そういうのが、幼児売春のメッカとなっていったのかなあ。

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中村治という人は、貨物船に乗組員として雇われるという、天然記念物的手法で竹のカーテンの向こうの上海上陸?を試みて、バレて洗いざらいゲロるという話。谷恒生小説ではチョフサーと書いてある船員の尊称を、チョッサーと書いていて、へんなのと思いましたが、検索すると、そう呼んでいたところもあったようです。ボースンとか、ほかの呼称は出ません。

藤井省三さんは新井本によると1979年日本からの公費?留学生第一陣として上海復旦大学に留学したそうで、その前の本書編集へののめりこみかた(編集室と書いてエンジンルームとルビをふるなど、ただごとではない恥ずかしさ)を見ると、留学がなければライターとかになっていたクチだったのかもとも思いました。マカオ編は英語以外北京語で通そうとしていた(それはむろん広東語がしゃべれないから)ので、現地から見たら、めずらしい台湾外省人の若者旅行者にしか見えなかった気もします。マカオからメインランドも見てますが、マカオと珠海なんてすぐで、特にペンペン草一本生えない更地があいだに広がってるわけでもないので、あんま感傷はなかったのではないかと。サーキット場のとなりがフェンスみたいな感じだったと思うのですが、記憶がちがってるかも。あとはサトウキビ畑(中国の砂糖生産量はインドに次いで世界二位のはず)

パキスタン熱中症気味になる記述は、私もおぼえがあり、思い出しました。あまりに乾燥して温度が高いと、それだけで体調がおかしくなる。この旅行は、パキやイランに知人がいるのでおしかけでそこを頼ろうとして、さらに、色川大吉ばりにユーラシア大陸思索行を試みた連中がまわりにいたので、彼らと現地で落ち合う予定だったそうです。しかし現地在住の駐在と思しき人たちとは、メールもLINEもない時代なので、すれちがいばっかで、欧州からアジア自動車旅行を試みた連中はパリで浪費して全財産使い果たして即解散だったとか。藤井省三サンのハシシュ体験が読めますが、別になんともないです。東大東洋史の異端児であったであろう高島俊男が後年呂明賜論争で藤井サンに噛みついたのは、サハのナンパ小僧へのルサンチマンが、この時代からすでに形成された末のことだったら面白いかなとも思いますが、そういうのは床屋談義。

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読んだのは二刷。同人誌みたいな本でも二刷。作者同士はどういうつながりだったのかなあ。宗教?政治セクト?なんなんでしょう。

以上です。