『ゴサインタン ー神の座ー』篠田節子著 शिनोडा सेत्सुको द्वारा लेखिएको गोसाईथान भगवानको सिंहासन "Gosainthān. -THRONE OF GOD-" by Shinoda Setsuko 読了

扶桑社ミステリー『チベットの薔薇』解説が挙げていた本。『チベットの薔薇』のヒロインは雲南漢族の化身ラマで、チベット創世神話羅刹女の生まれ変わりなので、毎年祭礼の時期には、創世神話でつがう猿が憑依した僧侶とセックルするのですが、そこが本書のヒロインの設定に似ている箇所もあるということみたいです。

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歩かずに行く 8,000m峰五座大展望|西遊旅行の添乗員同行ツアー(146号)

14座ある8,000m峰の中で、完全に中国領内(チベット)にある唯一の山。チベット語で「牛も羊も死に絶えて、麦も枯れる地方」という意味があり、サンスクリット語では「ゴサインタン(神の座)」とも呼ばれます。初登頂は1964年、中国隊によって8,000m峰の中で一番最後に

なんしかタイムリーなことに、昨日2月2付で下記ニュースがリリースされてました。

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ゴサインタンのデヴァナガリー表記 गोसाईथान を音声出力すると、「ごっさいたん」と言ってきて、それだからか、日本語版ウィキペディアではアルファベット表記を"Gōsāīthān"としています。英語版はこの読書感想も使った、"Gosainthān"

ただし、409ページ二段組の双葉社単行本で題名の意味が明かされるのは339ページ。えっらい待たされます。また、この辺りまで来ないと、ネパールらしいネパールが出ない。それまでえんえんと、日本の八王子農家を巡るドメスティックな状況とその解体の描写が続く。

転落の快感か、再生の愉悦か。人類に注がれる神の双眸。新しいエンターテイメントの世界。

というわけで読んだのは双葉社単行本。1997年7月の五刷。装丁 柿木栄 装画 門坂流

ゴサインタン : 神の座 (双葉社): 1996|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

1996年9月初版。2000年に双葉文庫。2002年に文春文庫。電子書籍有。

ゴサインタン 神の座 - Wikipedia

「小説推理」1995年11月号から1996年2月号まで連載。ぜんぜん推理小説じゃないと思うんですが、ミステリーといえばミステリーなのか。中森明菜がラビズミステリ~、翼広~げて~、と歌うくらいのミステリー。

チベット小説の解説の紹介から読み始めたせいか、農家の中高年男性がアジア女性と集団見合いで結婚する相手国がネパールで、彫りの深いインド系の顔立ちの女性たちに混じって、ひとりだけ日本人とほとんど見分けのつかないような顔立ちの女性がいたので、子どものことやら同化やらなんやらを見据えた母親の意向もあって彼女と結婚するのですが、カトマンドゥーまで飛んで式を挙げる際にも彼女の親族が姿を現さず、出身がド田舎の辺境だから(そこからカトマンドゥーの工場に出稼ぎに来てそこから日本の甲信地方に飛ばされた)という説明で丸めこまれてしまい、多言語多文化入り乱れるネパール辺境から来てまだ年も二十代前半なのにさっぱり日本語がおぼえられず、しかし未知のヒーリング能力を発揮して、元気のない野菜が彼女の手にかかればたちまち活力をとりもどすという冒頭の展開を読んで、ネパールのチベット系民族か、あるいはそのものズバリのチベット難民なのではないか、それがふしぎちゃんというエスエフ的要素を備えて、さあ仕掛けをごろうじろなのか、と思ったのですが、ちがった。

主人公は多数派である兼業農家以外の都市近郊農家のパターンで、地代で食っててかつ専業でという男性で、未婚でありながら、あーこれ女性にぜったい引かれるよね、というような性格描写や性癖や不潔な描写が一切描かれない(いや、キレて女に手をあげる男性なので、それでザッツオールかも。でも90年代だしなあ。とほほ)ので、ナゾのままの男性です。外国人女性と集団見合い結婚する邦人男性あるあるで、ヨメをとったらすぐ地元の同級生とバッタリ再会不倫スタートするほか、かつても女性と縁があったが、親つき旧家への嫁入りに難色を示されて別れてばかりという回想に、そんなんいらんわと思いました。そんなんで飼い猫だけが癒しの人生になるんかな。

で、まず、不倫相手が死にます。その次に、寝たきりの父が母に毒殺され、母も心不全脳梗塞で急逝します。ヨメは一度失踪し、天狗の神隠し状態で埼玉県秩父地方、飯能で発見されます。所持金なしでどう移動したかも謎。ヒーリング能力が徐々にエスカレートし、失せもの探し、占い、病回復などにあらたかな霊験を見せるようになり、まあやっぱり創価学会なんだろうなという新興宗教から信者をモギとって軋轢を生んだりなんだりしながらも、その奔放でデタラメな行動から、教団化しえないまま事態が推移します。新興宗教の美術館という言い方の箇所が出てきて、伊豆のエムオーエーとか信楽のミホナントカとか連想したのですが、よく考えたら八王子には富士美術館があるので、やっぱりかという。1995年10月の連載開始ですと、同年1月の阪神淡路大震災、3月のオウム真理教地下鉄サリン事件は大きく作品に影響したはずで、社会不安を背景とした虚無的な展開は実によく世相を反映してると(アフターバブルにまだはっきりと実感が持てなかった頃)思ったのですが、それにしても。

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つるこ教は出ません。当時は共産圏崩壊で勝共連合が無用というか有形無実化したと思われていた頃ですし、金剛山開発など北朝鮮投資が活発化し、勝共から容共への唐突な方針転換ありえないということで、縮小化の一途だろうと希望的観測が持たれていたからではないかと推測します。まあ外れた。

八王子にフォーカスして言うと、中央大学を筆頭に、陸続と山手線内の大学が移転してきて、地方出身下宿JDを狙った風俗スカウトの悪質かつ強引な勧誘が活発化する素地が作られつつあったり、それ以前のバブル期には関西の広域暴力団が進出して没義道がより没義道に、みたいな話があったりなかったりで、例のナンペー事件、髙村薫が断筆宣言した、縛って正座させた三人の後頭部をじゅんばんに拳銃でうちころした事件が同年、1995年7月末日、連載開始数ヶ月前に起こっています。

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それでまあ両親が死んだ後の中年ぼっちゃんなんかチョロイというわけで、家産がぜんぶ溶けるのですが、これがまあ、近代現代ポストモダーンでは考えられないような原始的な、否、江戸末期のええじゃないか的なやりかたなので近世的な方法で、ラッタイドというかポトラッチというか、マタイによる福音書で、"Take! And eat! This is my Body!"と言ったくらいのイキオイで、納税に備えて金庫にしまった現金をいつの間にか開錠されてバラまかれるわ、借地人や借家に対し譲渡の一筆を、筆跡クリソツに書かれて実印もどっかから持ってこられて押されるわ、当然預金も、神なので暗証番号など当然のごとく突破されてバンバカ引き出されて(配偶者のやることなので当時の法制では止められなかったとか)それ目当てで集まったエセ信者が、もうペンペン草一本生えないと見放してどっか行って、その後も残ったモノホンの信者と共同生活を始めるまでえんえん貴重な財産(キモノとかいろいろ)が土蔵を開けたら行李はもぬけのからみたいな感じで、神の手であれやこれやがされてしまいます。ここが、作者の怨念なのか、長い。いちばん長いパートな気がしました。

ゴサインタンを読む。平凡な男と貧しい女。家族と故郷。土と信仰。著者は、日本のどこにでもある、農業と家族の問題を見すえる。は重いが、苦しくはない。悲惨だが、爽やかでもある。は、著者が用意していたものが たと気づく筈だ。大沢在昌

カバー裏。単行本の中には大沢在昌の解説文はありませんでした。『少年と犬』後の馳星周が書きそうな文章。生島治郎片翼だけの天使にすべてかっぱがれて文無しで死んだ後の葬儀を取り仕切った後でも、大沢在昌サンは同じことばが言えるのか、気になるところです。

90年代の小説なので、京王線と思いますが、券売機にお札を入れるところがなく、それはカードと小銭専用の券売機で、隣に紙幣が使える券売機があったが、お札の表裏を正しく入れないと戻ってきてしまうと描写があり、そうだったっけと考えてしまいました。お札の投入に表裏、あったかなあ。頁247。

インド・ネパール社会の男尊女卑について、頁32、例の生贄の首を切る石の血痕を見るくだりで、生贄は必ずオスで、それはメスが子どもを産むから(貴重な存在)ではなく、オスのほうがメスよりいいものだから神さまに捧げるのにふさわしいから、という記述が出て、そこからしばらく八王子の陰鬱な生活が続いた後で、頁339、再びネパール社会の女性について語られ、「こっちの女の結婚なんて、日本の何倍、何百倍って不幸なのよ」「ぼろ雑巾なのよ、妻なんて」「能天気な日本の学者やヒッピーが勝手なこといってるけど、ここは女にとっちゃ地獄よ」な~んてカトマンドゥー在住ン十年の、現地人と結婚した邦人女性の口から語らせるわけですが(彼女らが国際結婚の現地側コミッショナリー)それはいちおう、重層的構造とでもいうのか、首都以外のネパール、外国人に解放されてないグルカ、山岳民族の村では男女関係はもっと対等ですよんというふうに、読者の肩を軽くさせてくれます。反対に、インドのボンベイあたりにどんどん性の商品として輸出されてるし、そのへんのかどわかしも多いというくだりは、『ガンジス河でバタフライ』原作エッセーで、邦人女子大生がひとりでボンベイ歩いてたら、インドのインテリオバサンが補導というかガッチリガードでゲストハウスまでついてきてくれて、ツレの邦人男性に、彼女に何かあったらどうするんだ、男性がいながら女性をひとりで街中歩かせるんじゃない、ここは田舎の村じゃないんだ、と説教する場面を思い出しました。

なかなかこのカトマンドゥー女性はすばらしくて、下記のような発言もあります。

頁343

「あの子供たちは?」

「ナイキが村から連れてきた子供たちよ。絨毯をチベット難民が自活のために織ってるなんてガイドブックには書いてあるでしょ。そんなものは、先進国の歓心を買うための嘘八百よ。今じゃ、山岳民族の子供たちを連れてきて織らせているの」

ナイキってのは、派遣業というか仲介業者というか、人買いというか、の職種のれんじゅうです。本書によると。

農業に関しては、頁68で、助成金補助金漬けの農業から脱却して、都市化に対応した自営の道を探るべきだ、なんて青年たちが出てきて、八王子あたりでそんなふうに複数で盛り上がれるものだろうか、八王子は郊外住宅化が進みすぎてる、と思い、その後が気になったのですが、その後彼らは登場しませんでした。残念閔子騫

農業に関してもうひとつ。下記、共同購入会幹部の作ったチラシ文句。

頁287

「結木さんちのブロッコリが来週から入ります。ポストハーベストの心配があるカリフォルニア産のブロッコリと違って、安全で自然な甘味。どうぞおためしください」

元パヨクの人なのかな。今ではもう、無農薬有機栽培を「うたう」だけなら誰でも出来て、そのことばの信頼する担保はナニ? という時代だと思いますが、それはこの時代からしばらく真贋ごたまぜが続いたからだと思います。JAS認証なんて、前は五十年無農薬が証明されないと下りなかったので、原野を資本のある農業参入企業が切り拓きでもしないとGET出来ず、代々農業をやってるところなんかは、60年代などに一度は農薬や化学肥料を畑に使っているはずなので、いくら今使ってなくても認証とれなかった。めちゃくちゃだったと思います。ただ、農協の出荷所なんかは、育成日誌をちゃんとつけたとこだけが出荷してるので、農薬の使用量なんかもきちんと記録したものだけが出て来るので、そこの責任は果たされていると考えています。なんだかよく分からないものが責任の所在もあいまいに売られているわけではない。

いちおう、アル中の依存症者も出ます。暴れるタイプ。一度改心してまた出来心で大金持ち逃げして、その後また金が底をつきて酒でボロボロになって戻ってきて、癌が見つかる。

頁110、そばを茹でようとしたら虫が湧いてた、という箇所。袋入りの乾麺を途中まで使って、残りを輪ゴムで口止めてたということかなと思いました。チョンガー生活なので(妻は神がかってるので当然家事などしない)そのまま茹でて食べたというくだりで、めんつゆもまだ残ってたんだなと思ったり。

レビューにも書かれてますが、主人公は、優柔不断のマザコンというふうに書かれつつ、作者の分身というか、それなりに顔が広くて、妻がカチカチやる石(それで痛みをやわらげたり人の運命を司った託宣をのべたりする)の成分分析を高校の理科教師に頼んだり、集団見合い絡みからですが、ネパールチベットのことならなんでも聴け、どんと来いみたいな種子会社勤務の男性に会ったりします。そこで、神に処女を奉納し、寺に囲われた女性は下働きや儀礼、呪術に従事し、ときには宗教儀礼として売春も行うとあり(デパキというらしいですが検索で何も出ません)ここが『チベットの薔薇』解説者に共通点として想起されたのかと得心したのですが、それより、頁191「売春行為の果てに不妊症になった女を紹介された、という被害者意識めいたものを抱いている自分」という描写に、ハレと思いました。私も90年代に、書名は忘れましたがカルカッタの売春窟レポを収録した文庫本で、としはもいかない少女が、「こういう生活してると赤ちゃん産めなくなるってホント?」とルポライターに尋ねる場面を読んだのを思い出したのです。作者の篠田サンも類書を読んだに違いなく、それでこういう感想を主人公に抱かせたに違いないのですが、主人公はそういう本を読むようなキャラってわけじゃないので、ああ、ここも作者が主人公男性に憑依してる、と思いました。

デパキに関しては、頁337でカトマンドゥー在住ン十年女性に、そんなのネパールでも西やインドの話で、おそらく東の、彼女の出身集落のほうの話じゃねーよ、半可通が効いたような口を叩くのを信じちゃったのね、アホかと一蹴されてます。ではヒロインは最近ゴルゴにも登場したクマリかというと、クマリは由緒ある家柄の娘しかなれないので、山岳民族のヒロインなんかにはとっても㍉、と、これも一刀両断されてます。

ネタバレというわけでもないのですが、私自身の忌憚のない感想を言うと、親同居の、三割の結婚しない出来ない男性の奈落とこころぼそさ、しっかりしよし、という部分以外に、ヒロインは、神は神でも、ネパールやチベットとは関係ないと思いました。彼女はよりましとしての存在なだけで、そこに憑依した入れ替え可能な神は、八王子の土地神、城隍神で(あるいは主人公の先祖)だからこそそこまで徹底的に旧家を破壊し尽くしたのではないか(それも相当理不尽な方法で)と思いました。それが私の感想です。八王子出身の篠田節子サンの本は、相鉄瓦版経由で知って読んだ、『内助』が収められた短編集と、ビッグコミックオリジナル『前科者』に出て来た宇能鴻一郎短編集の解説で拝見しましたが、本書に関しては、この解釈、如何でしょうか。

城隍神 - Wikipedia

篠田節子 - Wikipedia

双葉社版は、この、ヒロインの持つ石を思わせる、目を持つ猫が表紙です。裏表紙も。

以上

【後報】

1995年は世紀末を控えて様々な事象が発生した年ですので、チリ人のアニータサン事件も同年で、本作のモチーフのひとつになったのかしらと思ったら、アニータサン事件は新世紀、2001年発生でした。現実のほうが後。

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アニータ・アルバラード - Wikipedia

(2023/2/6)