『ある日系人の肖像』"Southland" by Nina Revoyr ニーナ・ルヴォワル著 本間有訳(扶桑社ミステリー / 扶桑社海外文庫)読了

チベットの薔薇』の巻末の、扶桑社ミステリー既刊の広告を見ていて、ふと目についた本。

ロサンゼルスに住む日系人女性ジャッキー・イシダは、病没した祖父フランク・サカイ の遺言状にでてくるカーティスという人物を探しはじめる。 カーティスは、1965年におきた黒人暴動のさなかに、 祖父の店の冷凍庫にとじこめられ命を落とした黒人少年四人のうちの一人だった。 事件を調査する過程で浮かびあがる、 若かりし日の祖父の姿とは......。 日系人女流作家が、 人種のるつぼ L.A.の現代史を、 過去と現在を自由に飛翔しながら圧倒的な筆力で描ききる、 MWA賞候補作! <解説・池上冬樹> "Southland" Nina Revoyr 2003 Akashic Books

https://www.fusosha.co.jp/books/detail/9784594050085

カバーデザイン:バーソウ 写真提供:©DAISUKE AKITA/ A.collection/amana 解説・池上冬樹 本間有=訳

本書は、第二次大戦中の日系人強制収容、1965年のワッツ暴動という二つの歴史的事象を背景に、1994年、ダメ押しの1992年ロス暴動から未だ立ち直れないままのロス、そこここ廃墟や空きテナントになったままのロスのその地区を舞台に進行する、過去の犯罪の謎を解き明かすミステリー小説です。解説の池上冬樹サンは、日系人収容というストーリーの片翼を取り上げて、デイヴィッド・グダーソン『殺人容疑』を本書の同カテゴリー作品としており、私はグダーソンのその作品を知らなかったので、検索して、ハリウッド進出した工藤夕貴が出た映画「ヒマラヤ杉に降る雪」の原作ということでしたので、今度読んで見てみようかと思いますが、しかしそれだけでは、本書のもう片輪、黒人を巡る西海岸オーラルヒストリーが語れないので、そこのフォローアップが必要だと感じました。原題のサウスランドは、フロリダマイアミもしくは「南部」とはまた違う、アメリカの南のほうという意味合いのようです。登場人物がそう語る箇所がある。

ロサンゼルス暴動 - Wikipedia

ワッツ暴動 - Wikipedia

Snow Falling on Cedars - Wikipedia

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作者のニーナ・ルヴォワルサンは、ポーランド系米国人の父と日本人の母とのあいだに日本で生まれ、米国で育ったLGBTQの"L"の人です。"B"でなければ、たぶんそう。日本語版ウィキペディアの日系アメリカ人作家のカテゴリーにこの人の名前はありませんが、それは日本語版ウィキペディアにこの人の項目がないからで、英語版にはあります。

Category:American writers of Japanese descent - Wikipedia

まず一点。私には、なかなか、本書に描かれたような、日系人と黒人が宥和し共存する地区があったことが信じ難く、ちょっと今でも受け入れられないです。イッセイの黒人に対する偏見には、本土日本人のそれに通底するものがありますので、ヒサエ・ヤマモトサンの小説や、果ては現在の大坂なおみサンへの(メンタル面への攻撃をどう分離したものか悩みますが)言説まで、枚挙にいとまがないわけですが、ニワトリが先かタマゴが先か。黒人側のジャップへの偏見にもなかなか根が深いものがあるように思われ、アメリカは私がちょくちょく聞く、白>黒>黄色の世界ですので、オリエンタルより優位な立場にいる黒人の中に、オリエンタルを見下すヤカラがいるのは、ある意味不可避なことのように思われます。本書にもノー・ノー・ボーイが登場します(頁269)が、本家の小説『ノー・ノー・ボーイ』に登場する、ジャップを見下す米国黒人。これもまた、人種のモザイク米国の一つのスケッチだと思っています。ので、両者が相互扶助する社会があるとするなら、黒人側も優越性を脱ぎ捨てなければならないわけで、それはカラテとかゼンとかだけでこちら側が引きつけても成功しうるものでもないなあと思っています。

頁3 日本のみなさまへ

(略)あれは一九九六年に、ロスのクレンショー地区の、喫茶室のあるボウリング場〈ホリデーボウル〉に初めてでかけたときのことでした。モーニングの時間帯とあって、喫茶室は一杯でした。テーブルについていたのは、黒人と日系人。お年寄りがほとんどで、みんなそろって食事をしています。六十代の日系のウェイトレスがメニューを渡してくれました。スパイシーソーセージ、フライドチキン、ジャンバラヤなど、アメリカ南部の郷土料理が盛りだくさんでした。それに鮨、焼きそばといった日本食も。スクラングルエッグにポテトかライスをつけたものも、オーダーできました。

 きっと天国に迷い込んだに違いない。食事する人たちを見まわして、わたしはそう思いました。人種の異なる人たちが和気あいあいと入りまじる様子が、自分自身の経験とあいまって、心の琴線に触れたのです。わたしは、(略)半分白人なので、在日中は自分が場違いに思えました。五つのとき、父といっしょに、父の田舎にあたるセントラルウィスコンシンの小さな町に移りましたが、そこでは混血にしろ純血にしろ、アジア系は自分ひとり。この町はわたしを迎え入れてくれず、単なる非白人とみなし、ときには敵意を剥きだしにすることもありました。

 九つになってロサンゼルスに移ると、わたしはようやく自分とおなじような相手に巡りあいました。カリフォルニア州は日系アメリカ人の人口が多く、アフリカ系アメリカ人ラテンアメリカ系、日系以外のアジア系はもとより、ありとあらゆる異人種間に生まれた混血の人の数も半端ではありません。黒人、メキシコ系、ユダヤ系、ベトナム系――それこそいろんな民族の子供たちと仲よくなったわたしは、生まれて初めて疎外感から解放されました。それに新しい友だち、とくにアフリカ系アメリカ人の友だちのおかげで、小さいころに自分が体験した、人種的な差別と偏見を語る言葉を持つようになりました。日系人になる方法を知るには、アフリカ系アメリカ人とともにすごすことが必要だった、とでもいえばいいでしょうか。

 しかし、親たちはそれほどさばけておらず、おなじ民族どうしでかたまりがちなので、子供たちの友情をどうとらえていいか、わからないこともあったようです。このような異人種間の絆については、親たちのあいだに例がないだけに、〈ホリデーボウル〉のお年寄りの姿は、ほんとうに思いがけない光景でした。人種が混じりあう人込みのまんなかにすわるのは、生き別れた身内との再会にも似ていました。

このホリデーボウルは小説内にも登場し、メニューや老人たちの黒人日系人混成チームのボーリングも詳細に描写されます。そんなすごいところがあるんなら、一目見たかった。

ニーナ・ルヴォワル「日本のみなさまへ」では、ホリデーボウルは2002年閉業、再開発のため取り壊されたとありますが、英語版ウィキペディアでは、地域融合の象徴的建造物として、一階フロアは移築もしくは別の場所に再現されたようにも書いてあります。

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ディスカバー・ニッケイにも、クレンショー地区とホリデーボウルに関するインタビュー記事があります。

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でも嬉しいのは、日系人の住んでいた家の日本庭園を黒人が綺麗に手入れしてくれていること。若い時から日系人と共存して日系のいい影響を感じてくれていたんだと思います」

こうやって上からかぶせると、何も知らない部外者がブッ壊しに来るというのが、21世紀超情報化社会の傾向な気がしてなりません。ISなんかまさにそうだ。

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上の記事はクレンショーとホリデーボウルと、本作の主要登場人物、神の声が聴こえるというか、人生の要所要所に神が隣りを歩きながら忠告してくれたりする、ケンジ・ヒラノのとても大事なエピソードをそのまま引用しています。ケンジ・ヒラノは、神の忠告を無視して収容所内でも新婚生活を続けますが、ワイフが難産で、白人医師がヤブ医者だったので母子ともに死にます。そこからケンジ・ヒラノは、ある種の白人に対し殺意を抑えられなくなる人生が始まるのですが(それで二世部隊に志願して欧州戦線でドイツの白人をたくさん殺した)戦後、両手がからっぽだと、その手で憎い相手の首をしめたくなるので、その手にずっしりと重い、ボーリングの玉を持ちなさいよ。それがあなたの人生だよ、と、街角にいた神がそう告げてすたすた歩き去ってゆきました。のち、ケンジ・ヒラノは、仕事場と家とボーリング場を往復する人生を送るようになります。ここはよかった。

話を戻すと、縁は異なもの味なものというか、ニーナサンが『サウスランド』を書いてから14年後、ホントウに黒人地区で育った58歳の日系人作家が、黒人を主人公にした推理小説で遅咲きのデビューを飾っています。この人の弁は、上のディスカバー・ニッケイの、上からかぶせてくる感じとは無縁の、素朴な、白>黒>黄色のアメリカ社会のリアルを反映した告白です。

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 イデの両親はどちらも日系アメリカ人だが、育ったのは犯罪が多いことで知られるロサンゼルスのサウス・セントラル地区だという。イデは、自分の故郷を、親しみを込めて「ザ・フッド(低所得者が多い黒人街の通称)」と呼ぶ。
 二世や三世の日系アメリカ人からは、親から「一生懸命勉強して医者になれ」とか「ベストな大学に行け」といったプレッシャーを与えられたと聞くが、イデの両親はそうではなかったという。「(政府が設定した)貧困ラインは、見上げないと見えない」と冗談を言うほど貧しかったイデの両親は、どちらも長時間労働で、4人の息子の教育に立ち入る時間もエネルギーもなかった。「自分たちで勝手に育ったようなもの」とイデは言う。
 イデの友だちはほとんどが黒人で、仲間として受け入れてもらうために、彼らの話し方、スタイル、態度を真似した。羨望もあった。家族が貧しくてお下がりしか着られないのは自分と同じなのに、黒人の友だちの着こなしは、なぜかクールだった。イデ少年を魅了したのは、スタイルだけではない。ヒップホップのようなストリートの言葉もだ。リズム、構文、言葉の選択、抑揚、限りなくクリエイティブなスラング……。そのすべてがイデ少年には詩的に感じた。彼らの真似をして溶け込むことで、内気だったイデ少年は、タフなフッドで勇敢に生きることができたという。「偶然に日本人に生まれた黒人として完璧に通用はしませんでしたが、子ども時代のこのバージョンの自分をずっとありがたく思っているんです」とイデは振り返る。

私はロス暴動のさい、日本の、三大紙に次ぐ大新聞社の記者たちが、略奪に走る黒人たちのテレビ映像を見ながら、口々に黒人をバカにしてたのを伝聞で聞いたことがあり、政治家の発言より、そっちが印象に残っています。とりあえず人類はここまで来た。

頁48、幼少期に外食した際、家族に渡し箸、否、箸渡しをしようとして母親から箸を叩き落された経験と、のちに葬儀に参列して、それがいかに縁起が悪い行為だったか思い知る記述があります。こうやって日系人社会にも慣習が伝承されてるのはよいことだなあと思いました。

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ならぬことはなさぬものです。by会津

二点目。上の、ケンジ・ヒラノサンのところでも出ましたが、本書は、黒人と日系人の友愛を描く半面、白人に関しては、いい白人は死んだ白人だけだ、とでも言いたいのかと思うほど、いい白人が出ません。悪い白人と、そうした白人に何も言えない、消極的態度の、まあマジョリティーがそうやって一部のアホを支えてるんだな、という白人しか出ない。スパイク。リーは「ジャングル・フィーバー」で、あえてアフリカからの黒人留学生をいじめる白人子弟に勇気を出して注意する気弱な白人青年を描きましたが、本書には、そういう行動に出る白人はいません。収容所ももちろんですが、頁193や頁199、二世部隊、通称アメリカンジャップの勇敢な戦いと、その捨て駒としての扱いの連続描写は読んでいて胸糞が悪くなります。頁350には、帰国後勲章を授与され、その写真が新聞に載る時には、強制収容で空き家だった家の窓ガラスが割られているのみならず、ゴーホームジャップと落書きされているのをフレームに入れないように新聞社のカメラマンが写真を撮ったとわざわざ書いています。勲功碑から日系人の名前だけ削り取られるなど、米国のために戦った日系人に対する戦後米国人(一部)のしうちの記述はうんざりするほど出ます。

関係ありませんが、頁238、やはりLGBTQの"L"の主人公(主人公は"L"であって、"B"ではありません)とバディの黒人男性(女性恐怖症というわけでもないけれど、いつもうまくいかないのでしまいには誰とも付き合わなくなった人)が外食しながら打ち合わせをしようとして、主人公がイタリア料理店はどうかと提案して黒人男性が即座に却下するのでセカンドチョイスで行ったタイ料理店で、「パドタイ」という料理が出るのですが、パッタイだと思いました。原文だとどういう綴りになっているのだろう。

ロースクールを出て法律事務所に就職する日系社会のエリートな主人公にとって戦争は遠い存在で、頁271、西海岸のビーチで湾岸戦争中、膨大な戦闘機が低空飛行するのに出っくわす場面があるくらいです。戦闘機の低空飛行、相模川にそって飛んできた戦闘機が海老名のモスクの上で角度をつけたりすると、意味ありげに見えてしまう時があります。

話を戻すと、冷たい白人の態度については、頁331にタイ人不法就労者監禁、搾取工場が語られ、民主党議員も口をつぐんでるなんて記述があって、そこでバトンルージュの日本人留学生射殺事件*1(被害者の名前を服部和己サンだと思ってたのですが、これも模造記憶でした。)が出ます。また、私は知りませんでしたが、コネチカット州ノーウォークで日系人公民館爆破事件があったそうで、検索しましたが、何も出ませんでした。

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日系人コミュニティはあるのですが、"bomb"でアンド検索しても、ヒロシマしか出ない。いや、このノーウォークは、CAとあるので、コネチカットCTではないのか。

現在のアメリカ(作中の1994年)にはびこるエスニシティー間の軋轢について、主人公の友人の日系人のやはり"L"いや"B"女性レベッカはいきどおり、「軟弱なリベラル」をこきおろします。

黒人バディの父は、やっぱりというか、バディが成長する前のある時期失踪するのですが、朝鮮戦争に従軍していて、戦地で、保護していた朝鮮人少女を、黒人の彼を憎む白人兵士にレイプされて殺され、それから、父親は北朝鮮ゲリラを装っては、折を見てレイシストの白人兵士を兵舎内で惨殺し続け、最後までバレなかったということになっています。

とにかくこんなんばっかなので、白人が好きな人というか、自虐史観でない白人読者は、途中でこの本を読むのをやめて、「この本はトゥーマッチ偏ってる」と言う気がします。主人公も作品を覆う空気に感化されてか、それまで自分の中の日系の血や外見に反発して、同じ日系人で"L"いや"B"のレベッカを受け入れられず、ヤッピーやユダヤ人が多く住むフェアファックス地区が大好きで、恋人もユダヤ人なのですが、だんだん、恋人が「行動しない」白人であることにいらつくようになり、肌をあわせることもなくなり、同じ日系人レベッカに急接近、ついにはくっついちゃいます。

三点目。ニーナサンの小説は、二作目の本書が白人と日系、日系同士のカップリングで、一作目は日系と黒人のカップリングで、どちらも"L" "L"同士のハッテン場や、そこでのモーションのかけあいの描写がすごく微に入り細に入っていて、くちびるをちろりとなめまわすそのしぐさや、髪をはらっとかきあげる動作いちいちが、"L"のモテとはこういうものかとうならされます。ロウヤーズスクールには"L"しかいないのかと思われるイキオイで、クラスメイトにひとりだけいるゲイは、一行出ます。それ以外は、分からん。徹底しすぎでした。小室サンのロースクールは、"L"ばっかではないかったと思います。

「ヒマラヤ杉に降る雪は」は見てないのですが、こうした日系人の活動が大成功しすぎたので、正面切ってそれをつぶすべきでないのでニガニガしい思いでガマンしていた白人たちが、レイプオブナンキンや少女像に関して、いいぞいいぞ、オリエンタル同士でやりあって消えてなくなっちまえ、と、影でコリアンやチャイニーズに燃料投下してたり支援してたりしたら、こわいなと思いました。それくらい本書は、一時期のそういう正義漢ぶって悪側を叩きまくる風潮に、忠実です。

本書解説は、小説を売ることにとってリーダビリティ、読みやすさが最優先の時代になって、分厚い本の出版が敬遠されるようになったのは、まことに遺憾な風潮であると、冒頭で苦言を呈してますが、もう少し公平な白人キャラを出してくれたら、もっと短く出来たのではないかと、思います。むじゃきな少女時代の主人公が、ガールスカウトのチャリティーでショッピングモール駐車場で移動販売するクッキーを、いらないわ、しつこい、と、にべもなくはねのけた白人婦人が、同じ白人生徒が駆け寄るととたんに脂下がっていそいそと財布を出して、あらえらいわねえ、社会にコーケンする立派な大人になるんですよ、なんて購入し、変質者対策で警戒にあたっていた祖父の復員兵あがりが激怒する場面など、とてもありそうに思うだけに(婦人の面前で婦人の車に十円パンチする)少しはいい白人も出してやれようと思いました。水原希子サンの意見を聞きたい。以上

【後報】

かなりヒステリックに黒人を攻撃するヨッパライで銃持ちのネイティヴアメリカンが出るのと、当然黒人には悪い黒人も出て、日系人には手加減というか、非の打ちどころのない善人なんかいないんだよ、という感じです。でも、いい人がここまで出ないのは白人だけ。そういう、なんかおかしな誘導までおっぱじめてしまっている意識高い系とか"woke"への反発が現代アメリカの分断を呼びこんでいるのかもしれません、と言っておくと、なんかたいしたこと言った気になるのでお得です。

(2023/2/7)