"Enka toca na terra do samba -História dos imigrantes japoneses no Brasil vista através da música."『サンバの国に演歌は流れる 音楽にみる日系ブラジル移民史』"Enka plays in the land of samba -History of Japanese immigrants to Brazil seen through music." por HOSOKAWA SHŪHEI 細川周平(中公新書)

日系ブラジル人日本語作家松井太郎『うつろ舟』*1を読み、その解説者のひとり、細川周平さんの著書のこれをちゃんと読んでいなかったので読みました。

サンバの国に演歌は流れる : 音楽にみる日系ブラジル移民史 (中公新書) | NDLサーチ | 国立国会図書館

思わぬところに的確な批評があって、下記サイトの評が素晴らしかったです。どういうサイトなのか知りませんが、本書の特質を短い文章で浮き彫りにした炯眼に敬服。

日系ブラジル人コミュニティーに <型> としての音楽の有り様を見出し、A・J・エリス以降面々と受け継がれてきた <民俗音楽学的手法> に引導を渡す名著。  なぜ日系移民がアルゼンチン・タンゴに代表されるようなハイブリットな音楽を彼の地で創り出さず、本国のそれと違わぬ音楽を求め執着し続けるのか。故郷への憧憬では計り知れない <型> としての音楽の有り様を、20世紀のブラジル移民史を綿密に辿ることにより浮き彫りにした名著。

細川サンがブラジル移民を意識したのは、1990年のお正月に来日出稼ぎ家族の知遇を得てからだそうです。日本の何処の街かは不明。浜松なのか大泉なのか塩尻なのか綾瀬なのか。ブラジルにカラオケがあることを知り、サンバと演歌が融合したフュージョン音楽の新鉱脈が掘り出せればと勇躍したのですが、そんなものはないと即座に否定され、ならばなぜないのか、日系人はなぜ日本のとおりにやろうとするのか(やろうとしたのか)を調べる方向に命題をシフトしたです。

これはミラー構成の命題で、同時に、なぜ日本人はサルサやブルーズを演ずる時、オリジナルと寸分たがわぬ本物以上に本物(ハイパーレアル)な演奏をこころみるのかという疑問に気づくことでもあります。かたや、地球の反対側に日本人以上に日本人的な演歌三世がいて、こなた、こちらには日本人離れしたリズム感で踊り歌うオルケスタ・デ・ラ・ルススカパラもそうなのかな)がいる。両者の共通点は「規律と型の修練に価値と喜びを見出す」こと。形と技を磨き、そこに心(魂)を込める。このような芸道思想は古典芸能の専売特許でなく、外国音楽の受容にも、計算式や方程式、Excel関数のように幅広く適用され、実践されている。私たちはそれが好きなんだ、そういうメソッドで芸事を学ぶのが大好きなんだ、とまで細川サンは言いませんが、そういうことです。東京ディズニーリゾート(TOKYO DISNEY RESORT)

細川 周平(ほそかわ しゅうへい) | シエロ・オンライン・ミュージックサロン

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1995年の本なので、本の中で細川サンはマルシアを「ブラジル生まれの演歌歌手」とし、デビューが同じ年の小野リサと比較します。マルシアはブラジル色を排した演歌を指向し、小野リサは自身が歌うボサノヴァから和臭を徹底的に取り除こうとする。ブラジルの音楽ボサノヴァを、あくまでブラジルのとおりにやらねば「気が済まない」のだ。本場のようにやりたい、本物志向だいすきで、さらにいえば本家に追いつけ追い越せとなる。本家の換骨奪胎、簒奪こそ日本人の代えがたい歓び、〈本銭〉なのだと。

この国のすごい本質指摘で、おそれいりました。正統性ゲット、カメレオン倫理の国だからこそ、たとえば在日コリアンの通称使用などに神経をささくれだたせられるのであるような気もします。細川サンは同時に、日本文化を模倣だと悪く言う西洋人に、模倣への純粋な希求、なりすましへの無垢なよろこびの爆発を理解させることはむずかしいと書いています。創造(と言いつつ再生産)の過程で出自を隠すことが高く評価されることをどうやって彼らに納得させたらいいのか、と。

1995年ですので、21世紀からこの箇所を読んで、イヤイヤこのあと「コスプレ」が世界席捲しましたやん、西洋人もコスプレでなりすましへの愛を十二分に理解しましたんちゃうやろか、赤い髪やら緑の髪やらピンクの髪やら、ありえへん色の髪のようさんはびこる人類にならはったんさかいなあ、と思います。それは同時に、日本発信の文化を日本が力強く認識し出したことの始まりでもあります。

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ここで細川サンは小野リサに比較して小林アキラの「アキラでボッサ・ノバ」を提示しています。こんなんマラカス振ってるだけでどこがサンバやねんと思うのですが、サンバでなくボサノバだそうで、こんなスキヤキサウダージはじめて、イカス、なのかなあ。細川さんによると、アントニオ・カーロス・ジョビンが小林アキラ聞いたらあきれんでホンマ、って感じだそうですが… 細川さんがその後、マツケンサンバをどう評したか、知りたくもあります。ツイッターとかで残してれば検索で出るかもしれませんが、さて。日本以外でウケたかどうかは知りませんが、ドメスティックな視点では、マツケンサンバこそ、扶桑の国のスキヤキサウダージ

本書は「日本」「日系」「ブラジル」の三つの定義が、色とりどりに姿を変え、さまざまな形で読者に提供されます。細川サンによれば、

頁10

 ここでは民族の定義については論じない。プルーストがバルベックのホテルに集まるユダヤ人の一団を指して使っている表現を借りれば、「それ自体は同質、その通行をながめる人々とは完全に異質」な集団、このように把握しておけば、本書では足りる。民族性は「通行をながめる人々」がいて初めて構成される。異質な存在と接触して初めて同質性が確認されるのだ。一人一人の個人差を無視する視点がそこに(以下略)

観察対象と観察者のふたつがいて、初めて民族も客体として実存しうると言うと、かなり頭の悪い言い方になりますが、それがプルーストや細川サンが言いたいことなのかと。ながめせしまに。瀬島龍三伊藤忠。私は民族の定義についてはスターリンのそれに頼ってますので、この視座はたいそう新鮮でした。このくらいかろやかでもいいのかという。

以下後報

【後報】

本書は「伯」の一字でブラジルの意味にしています。日伯修好通商条約、日伯毎日新聞、など。ぜんぶ漢字で書くと「伯刺西爾」で、中国では使われてなくて、漢語だとブラジルは《巴西》と書いてバーシーと読まれます。《巴西》もなんかへんな漢字表記で、ベルマーレの漢字表記、《比馬》(ビーマー)と同じルール、"r"音をワザと排除した表記に思えます。別に北京土話でアルホワしてブラッズィー儿と言ってるわけでもあるまいに。

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頁12によると、本書は1991年から1994年のあいだ、合計18ヶ月調査の結果だそうで、そのうち一年はトヨタ財団の「隣人を知ろう」?かなんかの助成を受けたとか。丸山昌彦サン、生田目善助サン、中央公論社早川幸彦サン、河野通和サンに謝辞あり。

本書は三部構成で、第一章が「演芸会の時代」1908年~1945年まで。第二章は「のど自慢の時代」1945年~1980年ごろ。第三章「カラオケの時代」1980年ごろから出版の1995年まで。

第一章演芸会の時代」1908年~1945年まで。

頁5、統計に現れないヤミの労働を「シャドウ・ワーク」というが、日系人が組織を細かく作ってひんぱんに寄合を行い、新年会などの催しの式次第を決め献立を決め各自役割分担を決め終了後に慰労会、打ち上げをするなどは、ヤミの遊び「シャドウ・プレイ」をあちこちに仕込んでいるのではないか、とは細川サンの推察。
同頁5、日系移民の娯楽には現地に同化したものとそうでないものがあり、「飲む・打つ・買う」の三拍子は早くから現地化したという。①酒はサトウキビから蒸留されるピンガ。これが当初から日系社会にも普及したため、日系人どぶろく泡盛を積極的に作ろうとしなかったという。②賭け事は日本の丁半バクチ、花札、麻雀(日本じゃないか)より、ブラジルの非公認賭博、ジョーゴ・デ・ビショに夢中になるものが多く、動く金額が大きいので一攫千金を夢見て破産したり自殺したりの哀話が幾つも残されているとか。③売春に関して日系人男性は他人種を差別せず、むしろ日系社会での悪評をおそれて、積極的に外に出ていったという。①②③すべて、(1)ポルトガル語が話せなくてもなんとかなり、(2)個人で参加可能で、(3)ホモソーシャル前提が、共通事項とか。

頁7によると、(1)産業化が進むにつれて日系人が集団で歌を歌いながら単純作業にいそしむような光景は消え、(2)かつまた日系人は早期から小地主におさまるものが多く、単純労働から逃れることが出来、歌垣やら茶摘み歌的労働歌文化が日本語でブラジルに根付くまでのことはなかったとか。まああっても民族混淆状態で歌われたろうから、ポルトガル語でしたでしょうし。松井太郎『うつろ舟』に出てくる歌が日本語でなくポルトガル語のジャルジネイラ"Jardineira"だったように。

日本人の演芸会はまず移民船の甲板で赤道通過時に行われる「赤道祭」が最初のもので(頁16)1908年笠戸丸サントス上陸から下って1924年、大正年間には邦人商店の広告に、三味線、尺八、それから明笛(みんてき)という明治時代に人気のあった横笛、中国系の楽器ということになるのかな? や、歌詞や楽譜の本が載るようになります(頁17)

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頁24、昭和9年(1934年)になるとコロニア(本書でのそれは現地日本語のそれに従って、日系人社会、日系人居住地を指す)で国産品輸入愛国運動が勃興したとあり、細川サンは、背景には移民は徴兵延期願いという「日本男子にとっては屈辱的な書類を提出して」いたことを挙げており、さらには提出せず応召に応じて帰国、出兵戦死した移民青年たちの存在を指摘しています。時あたかも満州国溥儀即位、北米で排日運動の嵐が吹き荒れ、同年末に日本はワシントン、ロンドン両軍縮条約を一方的に破棄します。のち北米では"no no boy"やら"KIBEI"やらジャニー喜多川やらが澎湃と沸き起こり、南米では勝ち組と負け組に分裂し、前者による後者要人暗殺がひんぴんと起こるようになる。

頁25

(略)ただ日本人の顔をしているだけでは不足で、日本を恋しく思わなくては、そのなかには加えてもらえなかった。(略)

歌はそのための分かりやすいツールのひとつとして機能した、と。

頁38、日本人の宴会は、ピンガを徳利に入れて飲むそうで、徳利を投げ合って乱闘し、鼻水をたらすことが一世の「奉祝」だったそうです。運動会はスポーツでなく演芸的な競技が多く、勝ち負けより笑い、レクリエーションが重視されたとか。それに対してスポーツは、日系人各コロニア対抗の陸上大会や草野球などが盛んになり、「趣味で始めたはずが、ある程度集まるとより大きな目標を設定するために組織が必要となるが、次の段階では組織が権威を誇示し、その規則の運用を厳しく監視するようになり、脱退や分裂を招く」のが「日系社会の娯楽に共通して見られる現象」だとか。

頁39

(略)娯楽といっても遊びっ放しでは満足できない。完璧が要求され、訓練が始まる。そのために心理的には圧迫されるが、日系人は概してその緊張感を好む。(略)

まあ、ゆとり以降それは継承されたのか私は疑問。Z世代ということばは実体がないのでどうでもいいですが。

頁44、午後七時に始まり翌朝午前五時半に終わるという「途方もない長さの」演劇コンクールが紹介され、しかし細川サンは、歌舞伎やインドネシアガムランなどもこれくらい長尺があって、「一晩がかりというのはアジアの演芸ではめずらしくない」と、相対化でシメています。

頁46、日系人は演芸面で二極化し、白人など非日系人にも芸を見せるエリート層は邦楽、ピアノ、日本舞踊を非日系人にもポルトガル語併記の演目紹介で披露し、浪曲や村芝居といった日本農民の芸能は、邦人エリートから毛嫌いされ(しかし彼らの移住国ブラジルは、サンバやカルナバルといったアフリカの影響が強い民衆文化が、イコール欧州のエリート文化と異なるブラジル統合の象徴として燦然と輝いたわけですが)浪曲ポルトガル語で「カント・ブラボ」(力み唄、野卑な歌)と翻訳され非日系社会に笑いものとして紹介されたとか。

第二章のど自慢の時代」1945年~1980年ごろ。

日系社会を深刻に分裂させた「勝ち組」「負け組」の抗争の中で、負け組は積極的に「戦災同胞救援」「母国救援」のイベント活動を行います。演奏会、美人投票浪曲大会、演劇大会、バイレ(舞踏)なんでも祖国支援。対する勝ち組は、ほんとうの救国なら、ただカネだけ送ればいいじゃん、なんでイベント打って興行収益の一部を送るようなまわりくどいことせんならんねん、売名か? そんなカネ汚いわ、不浄やさ、と、21世紀のペットボトルキャップ回収ポリオワクチン運動とその批判とそっくり同じ構造の闘争を繰り広げます。1949年になるとさすがに勝ち組も日本が大東亜戦争という聖戦をポツダム宣言受諾という無条件降伏で投了したことは認めざるを得なくなり、母国は復興した、もう「救援」でなく「慰問」の名目で慈善興業しろよテメー、とイチャモンの主旨を変えます。また、各自個人的に送付した救援小包の値段は本土向けと沖縄向けでは値段が異なったとか。そうまでして送られた救援物資は一度北米を経由するというロンダリングを経て、米ドル換金された上、「ララ物資」と同化されたため、日本人の多くはその中に南米からの善意があったことをいまだに気づいていない、とか。「残念だ」by細川サン。

頁78

 日系のクラシック演奏家はこの後も生まれているが、いったんブラジル社会に出てしまうともどってこなかった。コロニアの内部では彼らを養う経済的・文化的ポテンシャルがなかった。いったん「中央」にでる機会をえれば、もう「地方」では物足りないし、評価を得られないのだから未練はなかった。日本で成功した歌謡歌手や小説家がブラジルにもどってこなかったり(あるいは凱旋帰国するだけ)、ブラジルで通用するようになったスポーツ選手が日系の大会を無視するのと同じだ。芸能全般に関してプロを頂点として成り立つだけの基礎構造のない日系社会は、プロをもつ外部に対してはあまりに競争力が弱いので、その内側で競争するしかない。民族集団の外に音も人も出て行かない歌謡曲は、競争するのにもってこいの材料だった。(略)歌謡曲の競技だけが繁栄した。(略)

そんな小説家いたっけ、と、検索してみたのですが、魔女宅の角野栄子サンくらいしか出ませんでした。

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戦争前にはかなりの日系人青年がコロニアでマンドリンハモニカをたしなんでいたのですが、戦争中は三人以上の日系人がおおやけの場で集まることが禁止され、警察の目をおそれて青年たちは活動をせずにいたそうで、ただ、音楽ならおめこぼしがあった地方もあって、戦後は雨後の筍のように各地で楽団が誕生したそうです。楽団は勝ち組と負け組を結ぶ触媒の役目も果たし、軍歌も演奏しないわけにもいかないし、軍歌だけではレパートリーが成り立たないから西洋歌も演奏しなければならない、と、プラグマティズムが両者の紐帯となったとか。

頁85まわりは日本芸能団のブラジル公演の紹介。第一次で私が知ってる名前は東海林太郎、第二次は古賀政男だけ。第三次はコケたそうです。

この後本書は文献研究からブラジルののど自慢の発祥と発展をたんねんに追ってゆきます。さらには、ウディ・アレンラジオ・デイズ」やブラジルの素人参加歌謡番組「カローロ」と日本ののど自慢のちがい、それがそれぞれの社会要素に起因することなどを論文として記述してゆきます。頁105、「コロニア歌手」は「コロニア小説家」や「コロニア力士」同様コロニアの外に出れない存在で、いわば軍票のようなもので、プロでなくセミプロで、よくてレッスン・プロでしかない。トーナメント・プロでメシが食えるほどのすそ野がない世界。

頁108、南アフリカの黒人ゲットーの素人合掌(イシカタミヤ)は、部族間の抗争を避けるため、白人を審査員にするそうで、しかし日系人ののど自慢は音楽の分かっている内部の権威的人間を審査員にし、のど自慢は審査員ありき、審査員抜きで歌っても仕方ないとみんなが考えるようになる。

頁114、美空ひばりのブラジル公演、力道山のブラジル公演。NHK紅白歌合戦は、衛星放送なんかのはるか昔、1960年代末に16mmフィルム巡回上映という形でまずブラジルにも普及。フィルムの貸し出しが期間限定なことから、地方上映が出来ないときには邦字新聞が批判キャンペーン、領事館にフィルムが死蔵されているというデマが飛ぶと日系新聞がやはり調査取材に赴くなど、一世中心の社会ではつねに関心のマトだったとか。

頁119、戦後移民によってサンパウロ日系人人口が増加。一時滞在の日本人商社マン社会の出現とともに、日本人向けナイトクラブも出現する。

頁130、一部の不良化した二世青年たちの紹介。しかし彼らは、親世代の演歌に対し、ロカビリーなどの日本の新しい歌謡曲を聴くかというとそうではなく、それならブラジルの同種の若者向け音楽、イエイエイエを聴いたとか。

その後、ロカビリーはないがGS、グループサウンズの影響は、戦後移民の若者にあったとか、青年交流というか資金稼ぎのパーティーを企画するのはどこの世界にもあるので、ブラジルのそれはバイレ(舞踏)で、戦前移民の二世たちはコロニアのそこで演奏し、二世主体なので年功序列とは無縁(ブラジル化)してたとか、書いてます。

第三章カラオケの時代」1980年ごろから出版の1995年まで。

頁150、ブラジルのカラオケは北米経由でなく日本から直で入ったのではとの細川サンの推測で、①アクセントが日本と同じ「ケ」の「カラオ」で、北米や欧州の「オ」アクセントの「カーラーケ」「キャリーキ」でないこと、②米国は1987年パイオニア進出、英国1989年テレビ番組"Kazuko's Karaoke Klub"放送開始(細川サンは「KAZUKO'S BAR」と書いてますが、検索するとカズコズ・カラオケ・クラブが正しい番組名のようです)スペイン、イタリアは1990年以降店舗やテレビ番組が進出に対し、ブラジルは1985年、日系社会からブラジル全体にブームが飛び火したというのが細川サンの見立て。

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Kazuko's Karaoke Klub - Wikipedia

北米はパイオニアより先に1983年カラオケ業者日光堂が代理店を設立したそうですが、対象は日中韓の在米アジア人社会で、米国全体をターゲットとはしてなかったとか。細川サンの推測では、人種のサラダボウル社会北米では、自然発生的に日系人の文化が他に広がることはなく、何らかのマーケティング戦略でパブ広告を打たねば広まらないのに対し(テリヤキバーベキューイベントでショウユを広めるなど)南米では、おもしろそうならほかも飛びつくのではないかとのこと(なので、廃れるのも早いとか)

日本人のカラオケは「礼儀正しく」一曲を最初から最後まで責任を持ってひとりが歌い切り、陶酔し、同じ曲を別の人がまた歌い、また歌いと、歌い手が変わるだけで曲はいっしょみたいなことをやるのは暗黙のタブーだが、ブラジル的楽しみ方ではそれはありで、さびだけを何回も繰り返しコーラスしたり、途中で歌うのをやめるのも自由。さらにいえば閉鎖的な室内でなく屋外で、誰かがギターを鳴らし、その辺の何かを打楽器にして広く踊りまくってれば、カネもかからないコスパがよいので結局そっちにもどるという。これは、南欧とも共通してると思います。イタリア人から聞いた話もそうだった。カラオケはそのテレビ番組を見ながら楽しんだが、ちまたの文化にはならなかった、みんなで合唱するから、とのこと。

イキオイブラジルのカラオケ店は、ナイトクラブ同様、商社マン向けのものにならざるをえず、しかし日系人社会、コロニアでは、ボックスでなくポータブルで、演芸大会、のど自慢の後継としてカラオケ大会は定着した。なぜか。細川サンはそこに、書道などとも共通する、世代間の文化の継承理念の尊重を見ます。ニホンゴはもうそんなにだけど、エンカ、ウタを歌うことは自身のアイデンティティー確立の一助になると。書道のとめはねを、漢字を理解した上で鑑賞するのか、なんとなくの親和性で「馴染む」のか。「巷にあふれる漢字やアラビア文字のデザインのTシャツでも事態は変わらない」(頁208)と細川サンは書いてますが、アラビア文字のTシャツ、私は四枚持ってますが、インドネシア土産の「ハラール」と書いてあるものと、通販で買った何かお祈りの文句、アラビア展で買ったアッサラーム・アレイクムと書いてあるもの、これも通販で買ったビリヤニと各種文字で書いてあるもの(デマヴァガリ文字もマラヤーラム文字もタミル文字もシンハラ文字もある)で、ちまたにあふれるのを見たことはありません。ブラジルに行くと、あるのかなあ。

頁210

 日本語教育では、言葉によって精神教育を行おうとする一派と、外国語という技術・道具として教えようという一派がずっと対立を続けている。勝ち組の流れをくむ前者は血のつながりをたてに取り、日本人の子は日本語を覚えて、先祖伝来の価値観や気持を自分のものにしなくてはならないと考える。チビッコがド演歌をよく歌うのは、歌によって精神も伝えられると親が信じているからだろう。その期待に反して、子どもは歌詞を覚えても言葉は覚えないし、精神も引き継がない。ただそれを見守る大人の間にそのような錯覚が生まれるだけだ。そのような精神主義は時とともに消えてゆき、ただ花まつりのお稚児さんのように、キモノをきて演歌を歌う子どもが可愛いから、という親が増えていくだろう。

これ、ものすごくうなづけるし、厚木やなんかの子育てプラザみたいなところでは、在日中国人のママたちが、子どもが中国語を覚えないグチをえんえん中国語で言い合うのにでっくわしたりします。横浜や池袋、西川口あたりのチャイナタウン爆心地ならするっとバイリンガルにもなるでしょうが、どうしても郊外は、という。これが後者の一派でなく前者の一派で、炎黄の子孫がどうのというくらいならまだしも、”小孩子们,大家都应该自觉自己毕竟是一个中华人民共和国公民的骄傲!“みたいな感じな御仁がいたりすると、ブラジル日系人はオッケーですけど在日華人はそんなん言うたらアカン、とダブスタになりそうになったりして。

頁210

  日本語の解らぬ吾が子に寂しくて、愚痴るがごとく邦語を使う(『コロニア万葉集』)

我的孩子不懂汉语使我寂寞,唠叨似的用中文说。(←五七五七七になってると思います)

頁210

  日本人の顔持つなれば日本語の解らぬ孫の頭のみ撫ず(1985年6月12日「サンパウロ新聞」)

华人之脸有的是我的孙子不懂汉语摸他头罢了。(←ギリ五七五七七になってると思います)

細川サンは上の句を評して、もしマゴが邦人の顔をしてなかったら、アタマなでるのすらしなかったのではないかとしています。四世くらいだともう邦人同士結婚しなくなってるので、まあ顔立ちはそりゃという。

細川サンはこの手のサウダージに対し、もう少し手厳しいです。

頁211

(略)言語の喪失は移民に特徴的で、非ポルトガル語圏からきた(連れてこられた)ブラジル人はすべて言語喪失者ということもできる。

日系人だけがそうなんじゃナイデスヨという。

頁221、あとがきで細川さん自身が述べてるんですが、まだ彼と移民のつながりは浅い、しかしどんどん移民一世が高齢化し、物故したり寝たきりになってゆく中、完全なロジックを構築するより、ヨーイドンで書いてしまわねばならないとの思いに駆られたようです。そうして本書は誕生した。

松井太郎『うつろ舟』に載ってる著作リストを作成したのはこれもブラジルにハマッた邦人ドキュメンタリー作家岡村淳サンという方で、細川サンは岡村サンと組んで、無声映画時代アマゾンで邦画上映の弁士を努めた人々についても本にしています。新潮選書なんで、ちょっととっつきがアレですけど、読むかもしれない。

シネマ屋、ブラジルを行く : 日系移民の郷愁とアイデンティティ (新潮選書) | NDLサーチ | 国立国会図書館

以上

(2024/4/23)