気だて気くばり気ばたらき (リヨン社): 1988|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
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Google翻訳は"mood, attention and energy." だったので採用しませんでした。チャットジーピーティー、なんとかしてけろじゃ。
日下野良武という人の本を読んだら、バイブル的な扱いで出ていたので、読んでみました。アマゾンの出品で¥100。送料(アマゾン手数料含む)¥257。
stantsiya-iriya.hatenablog.com
design……………森下年昭
大島渚サンの奧さんの女優さん*1ですが、日下野良武というブラジル畑の人が取り上げてるのは、アマゾンにピメンタ(胡椒)を持ち込んでひとつの産業の基礎を築き上げた、移民官臼井牧之助という人の娘さんだからです。
●妻として、母として、女優として
私も女優として映画やテレビや舞台に出るだけではなく、いろいろな所から
講演のお声をかけていただく機会が多くなりました。さして専門的な知識があ
るわけでもありませんので、 ごく日常的なことがらを「妻として、母として、
女優として」 という演題でお話をさせていただいております。
その講演の話を中心にまとめて本にしてはいかがですかというお誘いがあ
り、こうしてエッセイ集という形で本にしていただくことができました。
(まえがきより)
二人は京都で、助監督と女優という形で知り合ったそうで、初めてのデートは、夏に琵琶湖に行き、その帰りに南禅寺で湯豆腐を食べたそうです。頁14。私は、京都でデートで湯豆腐を食べたことがありません。会う前からワンカップをひっかけて、仕事をやめたばかりなのをおくびにも出さずに、京都に来た知人を湯豆腐でもてなしたことが一回あるっきりで、相手は私が失業中だったことを「なんとなくそうじゃないかと思ったんだ」と、おみとおしだったようです。その後すぐ京都を引き払って、神奈川に戻って聞きました。
本書には、大島渚のラブレター直筆がふたつばかり収録されており、手書き読めねえと思いました。それなりに「草」(wwの意味でなく、中文で、判読困難なほどタッピツに書いてしまう人のことを、他写字有点儿“草”,と言ってしまう、アレです)ラブレター全部取ってあるそうですが、むかしの人はそれが当たり前だったのかも。
大島渚は、かつての朝ナマタレントで言うと、野坂昭如ほどは酒に飲まれてないと思っているのですが、頁30にはちょこちょこ書いてあります。臼井牧之助サンが晩酌程度の酒量なので、結婚するまで、昼酒上等な男性など想像もしてなかったそうです。お酌の仕方が悪いのは誠意がないからで、お酒をつぐことは情をつぐことなので、それをこぼすとはなんちゅうことや、だそう。
頁31
「お酒と私とどっちが大事なのよ!」
夫は答えに困ったことでしょう。
「君も大事、お酒も……」
と言いたくても口にはできないでしょうから。ひょっとすると、お酒のほうが捨てがたいものがあるかもしれません。
「もちろん君のほうだよ」
と言ってくれたことも、残念ながらありませんでした。
私はつくづく思いました。
「私がいなくてもこの人は生きていけるけれど、お酒がなかったら生きていけないだろうなあ」
イネーブラーの誕生。
小山サンは、前に出るタイプの女性なので、頁87、戦メリの資金が足りなくなったときは、さっさと自分の一存で家を抵当に入れて借金したそうです。読んでいて思ったのは、義母と同居して、義母とうまくやっていたそうなので、義母とはさすがに家を担保に入れる際相談したのではないかということ。頁109には、貯金通帳と印鑑は義母に任せていたとあり、じゃー義母の了承なしに、家を借金のカタにするなど出来っこないなと。たしか、朝食は姑が作ることになっていたか、家にいる時は明子さんが作っていたか、どっちかです。
頁174、「マックス、モナムール」の主演女優がシャーロット。ランプリングとは知りませんでした。矢作俊彦の『気分はもう戦争』のワンシーンしか思いつきませんが。あとなんか、ルキノ・ビスコンティの映画でなんか、ナチスの前でおっぱい出して吊りバンドでずぼん穿いて歌ってたような。
頁182、友人とは別に、「人生の出会いの中で印象に残るすてきなひと」として紹介されるのが、大塚全教という方と、その師の大石順教という方です。
また、頁202で、「すてきな生き方」として紹介されているのが、川喜田かしこさんと、大宅昌さん。
本書執筆の1988年時点で、臼井サンは93歳でぜんぜん元気だったそうです。本書には、早世した母親の思い出と、ずっと自分が世話をするのでなく後妻を、とのくだりや、彼女との関係性にも触れています。よい箇所。
さいごの章がブラジルです。クサカベサンが、本書を大切にしているのは、ここがあるからなのか、それとも、ここまでの部分で、良妻賢母と女優業を両立させた(姑の功労も大)彼女を邦人の鏡と思っていたからか。石井サンは、移民八十年記念に父の名代として訪伯し、預かった原稿をなくして太平洋越しに怒られながら即興でスピーチ。
しかしというか、こんなエピソードがこの本で語られていようとは思いませんでした。
頁232
「もし、サンバのリズムが狂うことがあったなら、そこに日本人がいるからだ」
と言われ、長いあいだ、カーニバルに日本人たちは参加することができなかったようです。
なんとなく想像はついてましたが、直球で言われると、きついなあ。大泉をルポした上毛新聞の本*2で、日系人個々の聞き語りの箇所で、故国ではまったく踊っていなかったが、訪日後、ブラジル愛とアイデンティティを体現するため、恥ずかしいけど踊るようになったなど、いろいろ語られているのは、母国のこうした音感リズム感を巡る状況を踏まえてなのかもしれません。
赤嶺清幸さんという三線使いが出ます。柳生アリセさんというカポエイラ三段の人も出ます。トメアスーというアマゾンの日系入植地については、ピメンタだけでなく、マラリア特効薬を合衆国が確立して初めて、人が定住するようになったそうです。西表のようだ。
綿花王とも呼ばれ、マツバラというサッカークラブも持っている松原武雄さんの話も載っています。養豚を営んでいた頃豚が全滅し、日本人社会を東奔西走したが資金を借りれなかったこと。ピストル片手に満天の星空の下自裁も試みたが、「生㌔」という深奥の自分の声を聞き、思いとどまったとか。
頁237
「ブタが死んだのは、おまえのせいじゃない。おまえが怠けたわけじゃない」
その地主はそう言いました。松原さんは借金が返せないので、
「私にはもうお金がなにもありません。借金のかたに土地を受け取ってください」
とお願いしました。すると、
「私は農業をやっていないので、土地だけもらっても何もできない。だからおまえはもう一回一からでなおして、金を返してくれればいい」
「でも、それでは自分は何年間も食べずにやらなければいけないが、それではやっていけないのです」
「それでは、食べるために毎月いくらいるんだ。その分は私が払ってあげるから毎月とりにこい」
というわけで、一家全員が助かったのです。
松原さんは皮肉にも日本人でなくブラジル人に助けられたのでした。それから、彼はブラジルへ骨を埋めるまでがんばろうと決心したそうです。
1988年初版ですが、読んだのは1989年の二刷です。発行はリヨン社ですが、発売は二見書房。
以上