『シネマ屋、ブラジルを行く ー日系移民の郷愁とアイデンティティ』" Cinemeiro Viaje pelo Brasil. --Nostalgia e identidade dos imigrantes japoneses." "Cinemeiroes troddin' through Brazil. --Nostalgia and identity of Japanese immigrants in Brazl." HOSOKAWA SHŪHEI 細川周平(新潮選書 SINCHŌ SENSHO)読了

『サンバの国に演歌は流れる』*1中公新書)がおもしろかったので、著者のほかの本も読もうと思って読んだ本です。グーグル翻訳で英語とポルトガル語をつけました、と書くと、「AIそんなバカか」と思われそうなので、頁39、バタータ(じゃがいも)がバタテイロ(じゃがいも農家)になるように、シネマ屋という日本語をシネメイロというコロニア語にして冗談めかして呼ぶこともあったというので、それを使い、レニングラードカウボーイズゴーアメリカみたいな感じにしようと思ったですが、気が変わって、バッファローソルジャーの歌詞の、遍く旅するみたいな部分にしました。文法ほか合ってないと思いますが、別に。

シネマ屋、ブラジルを行く : 日系移民の郷愁とアイデンティティ (新潮選書) | NDLサーチ | 国立国会図書館

頁19

「日本人が日本でうどんを食べると、それは食欲の問題であるのに、日本人がブラジルでうどんを食べると、それは郷愁の問題である」(『エスニシティとブラジル日系人』前山隆)のはなぜか。

これが本書の命題です。なぜかな。

(1)

私はむかし何かで、寅さんはブラジル日系人からは全く評価されておらず、それはなぜかというと、彼に類する人物はブラジルではウヨウヨしており、石を投げればあたるわけで、それは「ジャポネース・ガランチード(勤勉で信頼出来る日本人)」*2を旨とし誇りとする日系人社会の建前にそぐわないから、と読んでいて、それを信じていたのですが、本書によると、ブラジル日系人社会でも寅さんはウケていたそうです。頁155によると、ブラジルでも東映の任侠ものと松竹の寅さんはウケていて、日活の裕次郎ものと東宝のサラリーマンものはさほどでもだったとか。

(2)

細川さんといっしょに調査にあたった岡村淳サンという方の本*3で、勝ち組の壮絶な捏造戦勝映画の記述を知り、「國民の創生」よりすごくないかと思ったのですが、本書はそれにまつわる枝葉のエピソードを拾ってます。いわく、「負け組」(認識派)は「ハイセン組」(敗戦組)と呼ばれ、そう呼ばれることは恥辱だったとか(頁102)それで日本も今は敗戦を抱きしめてとは言わず、終戦と呼ぶようになった、わけではないと思います。ミズーリ号で米国が降伏調印を行う映画で「わが無敵の皇軍、颯爽と大空に飛び立ちます」と弁士が語る場面は中国機の発進場面だそうで、「こまけえことはいいんだよ」ではなく、鰯の頭も信心で、信じているから誰も気づこうとしないんだそうです。頁105。当時もう戦後移民が始まっていたので、日本から事実を知る人も来ていたのですが、本当のことを教えれと言われてもちゃんと言わなかったとか。また、日本が実は勝っていたことを背景とした詐欺事件も発生し、戦勝国日本がインドネシアを開拓中で、熱帯気候に慣れたブラジル移民は優遇されるとふいちょうして手付金をガメるインチキ野郎が出たとか。ブラジルで日系人が日本語で撮ろうとして企画のまま終わった「ノーヴォ・エル・ドラード」には、「同じ日本人でいながら、日本人を密告したり、くい物にする奴は、同胞のつらよごしだ。貴様のような毒虫のために、正直な日本人が泣かされるんだ」というせりふがあるそうです。この「ボルネオ・スマトラ土地売り事件」と自称朝香宮とその側近がサンパウロ郊外の土地をだましとって日系農民をあやつった「偽宮様事件」と新円切り替えで紙クズになった戦前の舊円札を帰国後の資金としてブラジル通貨でためこんだへそくりと交換しまくった「円売り事件」が、戦後勝ち組相手の三大詐欺事件だそうで、高木俊朗『狂信ーブラジル日本移民の騒乱』(朝日新聞社)、ブラジル日系人日系人のために作ろうとした映画のために渡伯して何も進展しないので帰国した役者さんの本が詳しいとか。頁122。頁135。

(3)

この、ビデオの劣化コピーで細川サンは見ることが出来たが、フィルムの原板があるかどうか分からない、と本書に書かれた(頁143)この映画「南米の広野に叫ぶ」は、本書刊行前に入れちがいに日本国内でフィルムが発見され、現在の国立フィルムアーカイブに寄付されたのかな、だから絶えずアンテナはってれば上映の機会に遭遇出来るかもしれません。

https://www.nfaj.go.jp/wp-content/uploads/sites/5/2020/10/199911.pdf

で、この映画では円売り事件の実際の黒幕大物、日系銀行重役、元移民会社官吏、日本語新聞社社長を仮名ながら観客にダイレクトに伝わるように描いたので、妨害脅迫嫌がらせ圧力がガンガンあったそうです。本書にはひとりだけ、没後勲章を受けたサンパウロ新聞(勝ち組)社長水本光任サンの名前が出ています。細川サンによると「市民ケーン」みたいとのこと。頁138。ジャポネーズ・ガランチード(信頼出来る日本人)の風上にもおけない振舞いで、かつ日本円に対する侮辱でしかない。この映画は勧善懲悪で、悪は戦いによって滅せられるんだったかな。善玉は白馬に乗って、悪役は黒い馬に乗るなど、西部劇のお約束を踏襲してるんだとか。

(3)

「ノーヴォ・エル・ドラード」と「バルガス平原の決闘」(「南米の広野に叫ぶ」)以外にも日系人による日系人映画がつくられたそうですが、演歌が日本のそれをそのままトレースする方向でたっとばれたように、邦画を忠実にブラジルで縮小再生産、あるとすればカソリックの国なのでそのエッセンス付加、くらいの作品だったそうです。頁109。

(4)

頁94、サンパウロ新聞が勝ち組の新聞なら、負け組の新聞は「パウリスタ新聞」だったそうで、認識派だけが読者ではないかったでしょうが、私は日系人が「パウリスタ」ということばに込める意味を知らず、大泉のブラジルレストランでシェラスコ(大泉ではシェハスコ)が有名な店の名前が「パウリスタ」であることに、そこまで深く考えてませんでした。日本語新聞の名前でもあったんですね。戦後日本から輸入された邦画は、焼け跡の場面などがあって、ブラジルに事実をしらしめようとしたそうですが、「敗戦映画」「国賊会社」「排日映画」「アメリカ製」「ユダヤ人から買収された」「焼いてしまえ」「立ち退き命令」「見たら女子青年会除名」「ポスターはがせ」「火薬をしかける」などさんざんだったとか。頁96。でもそれも、事実にはかなわないのか、神武景気朝鮮戦争ほかでうやむやになったのか、五年くらいの出来事だったとか。

(5)

1945年夏はどうだったかというと、八月十七日にはソビエトウラジオストック陥落、九十九里浜で米艦隊全滅といった祥報が入り、九月十日が戦捷記念日となり、サントス港に帝国艦隊が到着するというので、奥地から次から次へと邦人が現れ、海岸を日の丸の旗で満たしたとか。「陛下は移民を見捨てなかった、いよいよ故郷に錦を飾る日がやってきたのだ」(頁88)その熱狂がどう変化したかというと、1946年3月臣道連盟行動派が認識派リーダーへのテロ開始。六月末までに三人暗殺約十人負傷者、七月八月は七十件の襲撃、死者十五名負傷者八十五名逮捕者二十四名となり、同月日本移民のブラジル入国全面禁止がブラジル国会で可決(議長採決で廃案)となったとか。頁89。

(6)

そういう状況下なので、何がウケたかというと、戦前の「瞼の母」「杉野兵曹長の妻」の母と息子の物語を母と娘の物語に変換した三益愛子主演「母」シリーズだったりしたそうです。さいごは絶対ハッピーエンド。でもおしんのようにそれまではとても大変。ハリウッド映画「ステラ・ダラス」が下敷きになっているとか。

ステラ・ダラス (1937年の映画) - Wikipedia

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で、こういうお涙頂戴をクサしたのはやはりインテリだそうで、悪い意味で「オタク」が使われた時代までこの辺の構造は変わらなかったのかなと思いました。今は知りません。オッペンハイマー見なかったな。頁100。

(7)

本書は邦画専門(ブラジルの法律ではそれはNGなのでほかの民族の映画もかけたそうですが)映画館の盛衰にも触れていて、さいしょの日系ゴージャス映画館「ニテロイ」はサンパウロ繁華街の動線まで変えたほどゴージャスで、さらに、下駄ばきで気楽に映画を観る邦人社会に、映画はネクタイしめてみませう的ブラジルマナー取得昂進にも役立ったとか。内装がリッチだと着流しでふらっとは来れない。頁147と頁35。細川サンは学者サンなので、ブラジルでかかった映画一覧とか、ブラジルで舞台挨拶をした俳優さん一覧とか、ぜんぶをまとめるのは資料が散逸してるので無理だけど、出来る限り書いてます。で、だいたいむかしの役者さんなのですが、1961年の東映まつり三田佳子が来たとあり、おどろきました。頁148。当時二十歳くらいですか。子どもさんをブラジルに送り込んでたら、またちがった人生だったんだろうな。

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暗闇で場内を案内する案内人がいて、懐中電灯をもって動くので、蛍の意味のバガルーメと呼ばれたとか。ブラジルも全席指定だったのか、席は自由だけれども空いてる席を見つけてあげたのか。頁152。自国の映画ばっかり見てたのは邦人だけではないようで、1954年サンパウロでかかった映画は、米国一位ながら、二位日本三位イタリア四位メキシコ五位フランス六位ブラジルだったとか。イタリア移民は80年代からの二世女性監督映画でも邦人移民と並んで出てくるそうです。

シネ・ショーチクがさいごにかけた映画は神山征二郎監督「ふるさと」で、さまざまな思いを込めたかんじだと細川サンは感じたそうですが、ニテロイがさいごにかけた映画は「典子は、今」と「ホワイト・ラブ」だったそうで、感傷とは無関係やねとしています。つきみ野イオンシネマが閉館する時、フィルムでニューシネマパラダイスをかけたようなことは、そうそう出来ませんなのか、どうなのか。頁182。ブラジルで日系テレビ番組が始まったのは1970年、「イマージェンス・ド・ジャポン」日曜の三時間番組だったそうです。それで、現地化が進む二世三世がまんぞくしてしまえば、家族で週末は映画という習慣もなくなるのかなあ、とは細川さんの筆。頁178。

(8)

初期の弁士さんの話は、岡村さんの本にも書かれます。おちょうしものがおおかった点について、細川さんは「移民は全員生まれた村だけでなく国からも飛び出してきた大いなる「流れ者」」とほほえましく書いていて、笑う反面、それだから日本から軽くみられて配給のプリントはすりきれた流れ星が大量に入ったボロプリントばかりなのかと、配給会社と南米がバチバチやりあうあたり(㌻忘れました)を思ったりしました。弁士さんはコロニア語で一席ぶつので、「おもてへ出ろ」が「フォーラに出ろ」になったり、「靴下がにおいがひでえや」を「メイアがシュレーがひでえや」とやって、奥地の移民社会で「弁士さんはブラジル語しゃべってる」と感心されたりしたそうです。頁59。

(9)

本書は巻末にデータや参考文献。本書は映画史であるいっぽう、ブラジルが北米と異なり、メルティングポットを前提とした社会で、ナニ系アメリカ人、チャイニーズ=アメリカンといった「=」の多用をしないので「すでに混ざってしまった人々」をこころづよく肯定してる一方、ニューカマーに同化を強いる社会だとしていて、そこで新しく活動してる日系女性監督ふたりをとりあげて終わっています。日本で安木節(どじょうすくい)は國を代表するナショナルダンスにならず、ブラジルでもかつてはサンバはエッチなものとしてフタをされようとしたが、パラダイムシフトで前面に出、これこそブラジルになった。サンパウロから南では今でもイタリアやら中東やら各民族の特色を競うフェスタがあったりするが、リオから北、バイーアなんかの黒人はイボ族とかヨルバ族とかいうふうにしないで、バイーアの歌舞音曲というふうになるんだそうです。ここを読んで、確かナイジェリアには、ブラジルから戻ったものの、地元と壁があって、ポルトガル語で暮らしてる人たちがいると聞いたことがあったので、( ´_ゝ`)フーンでした。「私はブラジル人、日本人の子」(頁192)そういう国で、日系女性監督と沖縄系女性監督のエスノグラフィーを描く。

(10)

また、本書は、ブラジルで邦画がさかんに上映されたころ、邦画に魅入られた生き字引のようなブラジル人も紹介しています。「いれずみ判官」「警察日記」「ひも」「馬鹿まるだし」「モンローのような女」「今日もわれ大空にあり」「日本のおばちゃん」「美しさと哀しみと」ほとんど映画史に残らない粗製乱造映画を輸入された分すべて見て、日系紙にポルトガル語で評を書いた。大菩薩峠の封切り時の葡語タイトルが"ESPADA DIABÓLICA"(魔剣)で、喜劇各駅停車が"HOMEM DO FERROVIÁ"(鉄道員河内カルメンが"SENSUALIDADE"(官能)といった日葡対照が分かるのは彼一人なんだとか。

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その人はジョゼ・フィオローニ・ロドリゲスというそうですが、直接インタビューして大菩薩峠のすばらしさを伺ったりしてる反面、著書がないのか、巻末の参考文献には出ません。"José fioroni Rodrigues"で検索してもよく分からない。

このくだりを読むと、「七〇年代以降、カンフー映画が果たしたエキゾチックな役割をサムライや柔道映画が果たしていた時代が、サンパウロ州パラナ州にはあった」(頁168)が実感をもって迫ってきます。細川さんは非日系の主婦がミフネやセツコ・ハラ(アラ?)に夢中になった時代を語った資料などもあげて、熱く語ります。トシローは日本人の代名詞で、「ブラジルの声」の異名を持つ歌手の歌にも「トシロー」があるそうですが、聴いてみて、何がどうトシローなのか分かりませんでした。トチローと戦士の銃くらい分からない。

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ただ、角野栄子サンの本に二度も出てくる*4サンパウロ近代美術館に作品がドーンと出る画家が、(庶民に好まれるのとは別ですが)クロサワやミゾグチやなんやらに傾倒していたのも思い出しました。文化に貴賤はないというブラジルの気風(安木ダンスもサンバ)がこのように色眼鏡なしで邦画を鑑賞してくれる土壌を作ったのかもしれない。よい文化交流とはそういうことかもしれません。

(11)

それはそれとして、ブラジル日系紙のコラム書きの人の文章が、中央林間の通称「ツリガ」今はもう変質した公園のかつての賛同者で中央林間の東急などにほそぼそとフリーペーパ―などを置いていた人の文体にそっくりなので、笑いました。私が思うだけで、ちがうかもしれませんが、似てると思う。

頁82 1939年5月12日「日伯新聞」

 この頃奥地を持ち歩いとる映画「吉原」はアリャ何じゃね。日本人の女郎が毛唐とナモラ(恋愛)して変なしぐさをやらかす荀かも時世時節を考えない不届き至極なフィタ(映画)じゃネエカ。

 輸入した人間は日本人じゃあるまいが、契約で借り出したのは相当名のある日本人のシネマ屋さんじゃないか。他の地方の評判はいざ知らず、奥ノロノロエステ線)のビリグイやグアラベスで見た連中は「フザケタ野郎だ」とフンガイしとるぞ。

(略)

この映画の主演女優田中啓子サンは戦後1952年サンパウロでリサイタルを開いたが、国辱女優ゆえに?日系人総ボイコットで、泣いちゃったそうです。戦後の映画のブラジル当局の検閲にも本書は触れていて、エッチナシーンはだいたいカットだそうです。それでも、ブラジル封切り邦画動員ナンバーワンだかなんだかは「愛のコリーダ」だったそうで、さすがブラジル。いかにもブラジル。オーチンハラショー、未来世紀かくあるべし。以上