装幀:白畠かおり 装画:長光雅世 編集協力 秦鋒 編集 戸田賀奈子 訳者あとがきによると、本書は2012年の初版でなく、2018年の改訂版の邦訳であるとのこと。
冬牧場 | 株式会社アストラハウス(ASTRA HOUSE)出版社
近隣の図書館に蔵書がなく、リクエストしようかとも思ったのですが、いつ読み終えることが出来るか分からないので、延滞不可のリクエストは躊躇しました。で、購入に関しては、税込定価¥3,740はさすがに手が出ないというかリミッターを越えてるかなと思い、日本の古本屋やアマゾンの中古とも比較した上で、ブッコフで税込¥2,255だったので衝動的にポチって、それで読んだ本です。本書の前に同じ訳者さんによって邦訳された『アルタイの片隅で』が面白かったので、これも読みました。
帯
帯裏
最初タイトルを「ふゆぼくじょう」と読んでましたが、湯桶読みを避けて「ふゆまきば」としていると、表紙をよくよく見て知りました。
英題は帯、中表紙、各章見出しなどに散見されるので、それをそのままです。
著者の英語版ウィキペディアによると、英訳もされていて、同じアストラハウスから出ているとのこと。日本の出版社の公式だけ見てると分かりませんが、国際的な出版社なんですね。
原題の"dongmuchang"は、最後が後鼻音なのがややアレですが、日本人の名前をちゃんづけで北京語で呼ばれる時、鈴木さんは「リンムーチャン」になりますし、青木さんは「チンムーチャン」になりますので、「○木サン」という名前の人にとっては、なにかとこそばゆい名称かもしれません。ドンムーチャン。冬木サン。モト冬樹はドンシュー(スー)チャンなのでちがう。
作者のリケンサンは、『アルタイの片隅で』感想を書いた時に検索して、新疆生産建設兵団なのに戸口がどうのこうので新疆の学校に通えなかったり、アルバイトしながら投稿を繰り返し、そのうちイーニンとかアルタイの辺の暮らしのエッセーが認められ、ということを知り、苦労されはったんやなと思いました。検索結果の中では、一切父親が出てこなかった(名前すら)のも印象的です。
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カバー折。台湾にもこういう人いるし、四川人と言われれば四川人だし、という方。頁14によると、リケンサンはカウトウ村、否アクハラ村では謎の漢人で、母親の宣伝によると「作家ズオジァ」だが、①未婚②未労働③人の家に遊びに行かない④ぼさぼさ頭でサンダルで、という人物で、それが、2010年度、《退牧還草》政策(牧畜を控えて草原を復活させる政策)に基づく《生態移民》(定住化政策ですが、中国政府による遊牧少数民族の「定住化政策」という日本語キーワードと、《生态移民》という漢語キーワードは、ものの見事にクロスしません。片方の検索ワードで出て来る記事が両方の単語をカバーしない)によって消滅が確実となった遊牧生活の最後の一年二年に同行、バオガオウェンシュエ(報告文学、ルポルタージュ)を書く仕事が回って来て、やったね○○!明日はホームランだ!てな感じで苦心惨憺書き上げたエッセーが本書です。
厳冬の草原では、夜は《地窝子》と呼ばれる半地下の住居で暖をとって人も家畜も暮らすとか。
飲料水は雪を溶かすしかなく、雪が厚く積もるほどではないので、ゴミ交じりの雪を沸かして飲むしかなく、雪探しにも苦労したとか。しかし、逆に降雪量が多い年は、即家畜の凍死に直結しますので、それに比べれば、髪を洗う水にも欠くことや、お茶が家畜のフンまじりであることくらいなにさ、だそうです。
しかし、そんな環境でも太陽光発電だかなんだか忘れましたがバッテリーがあって、メモリーカードもしくはUSBメモリーで音楽を聴くプレーヤーもあって、のちにはテレビのチューナーが来て毎晩テレビ放送を見て過ごすという展開になります。スマホは基地局が近くにないので(最後のほうはそれもなんとかしたのかな)ゲームや音楽プレーヤー専用みたいな扱いです。音楽は、「走る黒い馬」という、原題が知りたい歌がよく出ます。黒駿馬かな。あと、春節の前だけ、漢語の歌が聴きたいだろうと、ジョリン・ツァイという台湾の歌手のカセットテープを聞かせてもらいます。あとはカザフ語の歌だけ。
所謂参与観察のジャンルに属しますので、どの家族と同行するかがまず大変で、結局は漢語を能くする人物(定住生活ではべろべろの酒飲みだが、遊牧中は酒がないこともあり、シャンとしている)とその妻、年頃の娘さん、共同で牧畜を営む隣人は若い夫婦で、生まれたばかりの赤ちゃんがいて、いつもきゃっきゃ笑って座を和ませている、という理想的な環境(しかも街から絶望的な程遠くない、むしろ近い)にありつき、頁19、出発前に、やっと時計の針を北京時間から新疆時間(シンジャンタイム)に二時間ずらすという描写があります。これ、読んでて、作者の狙いどおりなんでしょうが、はっとしました。新疆に暮らしてても、シンジャンタイムでなくて大丈夫な生活もあるのかという…
頁60《冬宰》は最初ラマダンと混同してしまい、さらに、冬支度のため家畜をほふる行為とのくだりで、回族に刺されたチベット人が、“宰羊宰羊,为什么杀羊,宰自己好呗”と言ってたのを思い出してしまいました。また、頁63、カザフは馬肉食べると知りました。食べるんだな、知らなかった。野菜不足でビタミン不足が冬の遊牧生活の常態で、また、日夜をわかたぬ労働は体への負担も大きいので、早くから関節ガーという感じになり、サントリーのグルコサミンなんかでなく、痛み止めとアスピリンを常用する生活を送っているとのことです。
頁200に、ラグメンが出ます。バウルサックという粉もんの揚げもんも出ますが、それは知りませんでした。
頁222には牛の初乳が出ますが、酢を入れると固まるという、醍醐みたいな特徴は書いてませんでした。
カザフ語は、「フォッチェ」ということばがよく出ます。いいよいいよ、みたいな。不在乎不在意。リケンサンはシュラフで寝るので《麻袋姑娘》と呼ばれ、"madaiguniang"なのですが、例の清音濁音は有気音無気音にあらずルールなので、ルビは「マータイグーニャン」です。《茅台姑娘》ではなく。
どんな本にもこういう遊びがあるもので、一ヶ所だけ、「カザフ族」でなく、「カザフ人」と書いてあります。みんなも買って探してみよう、という意図かもしれません。
漢語に関して、頁103に、カザフ人は学校で”礼尚往来是不可缺乏“(お礼返しは欠かせない)や“人命有限,时间无限”(いのちは有限だが時間は無限)などの漢語を習い、実践会話で役に立たないとあります。あと、九歳の子が“你笑什么笑!”(何がおかしいの!)という漢語をとてもキレイな発音で言うので、たぶん学校の漢語の先生がしょっちゅうそう言ってるんだろう、と推測する場面が頁302にあります。*1 頁108には、カザフ語の発想でしゃべる漢語の例や、夜七時のテレビニュース《新闻联播》のキャスターの口調そのままを真似た喋りで人を笑わせる場面もあります。こういうの、少し勉強すると、やってみたくなりますよね。サッカー中継とか、趙リッケンバッカーサンの口真似とか。頁280の段階だと、リケンサンの漢語自身が、カザフ語の影響を受けてきます。
カザフの牧羊犬は、狼対策などで夜間の羊の動きをよく感知させるため、仔犬のうちに耳をそいでしまうそうで、この「パンダ犬」もそうなってるそうです。この犬は、リケンサンが街に帰る時に、もらった犬の写真だと思います。はじめに写真のページが16ページもあり、よく分からず流し見するのですが、マイナス数十度の気温でろくすっぽデジカメが動作しなかったことや、鉄塔に馬の頭骨をかける慣習など、読んでから見直すと、いろいろ発見があります。雪原から村に帰る時、雪の斜面に、カザフ語の「サヨナラ」の漢語音訳みたいなのを書いてるのですが、さっぱり読めませんでした。口偏に「阝」もしくは「予」という字に見え、その後に「可」が続くのですが、新華字典を見てもそんな漢字ないかった。なんて字なんだろう? カザフ語は、人の外見と異なり、モンゴル語との共通語彙が六割あると聞いたことがあり、グーグル翻訳の「さよなら」のカザフ語はサインボーリンとかなんとか、さいんばいのうに似た言葉で、漢字二文字にあてられそうもないかったです。頁225にも、カザフ語は出ます。いいまつがいでからかう場面。
生態移民に関しては、チベット語文学の邦訳『黒狐の谷』でも読みました。本書とはまた違う角度から鋭く切り込んでるので、読むが吉です。
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訳者あとがきによると、リケンサンは台湾のサンマオになぞられたりするそうですが、ずいぶん時代も違いますし、サンマオくらいしかぱっと思い浮かべる対象がいないのかよ、とはお燃しました。しかし、(邦人がこの中央の少数民族定住化政策について批判することとは別に)このような生活誌執筆に関しては、アイヌがまだアイヌ語で生活していた頃に飛び込んだ文学者とその文学作品がありましたか? くらいの反論は速攻日本語ペラペラの中国人からされそうだなあとは思います。北原白秋の『フレップ・フリップ』は違うしなあ。リケンサンの住むアクハラという街も、井戸水のアルカリ度がどんどん強くなって、それでリケンさん親子は、遊牧民の為に作られた新定住村に引っ越します。頁302。引っ越した後のレポートも読みたかった。『黒狐の谷』みたいな不都合なこと、手抜き工事他ががあったのかなかったのか。
参与観察なので、いろいろなおうちにおじゃました方がいいんじゃないというサジェスチョンもあったそうですが、リケンサンはそうしてません。結果的によかったということで、私も同意します。最後のほうに、カザフの習慣として、いろんな家に遊びに行ったり来られたりの場面があり、そこで、ほかのおうちを覗き見てます。居候先の娘さんと一緒に行くので、相手も打ち解けてくれて、よかったのではないでしょうか。頁255には、流暢な漢語をさべる学校の党支部書記があらわれ、いろいろ主人公とやりとりしますが、まあ、さぐりに来たんだろうなと思います。
カザフスタン側のこの人が、たくさん、冬の馬の動画を挙げてました。
本書執筆後、著者は登場する人物たちと連絡がとれなくなり、よって肖像権の許諾を得ることが出来なくなったので、彼らの写真を入れれてないそうです。これも参与観察の難しさで、頁324、子だくさんのお宅を訪問した後で、ホームステイ先の主人が、「計画出産管理をしてるのは、彼の親戚だから、自由に産んでも、罰金をとられないんだよ」と言うせりふなどが、狭い地域社会で、その後大きく波紋を呼んだであろうことは想像に難くありません。さいごの1ページも無免許運転だし。
本書はなぜか注釈が"Glossary"で、前書に登場した、四川人リケンさん一家が営む雑貨屋さんを彷彿とさせます。と思ったら、"Glossary"に「用語集」の意味があることを私が知らないだけでした。注釈はだいたい本文にあって、巻末にあるものとのすみ分けはちょっとさだかではないです。
本書はリケンサンにとってたいせつなたからものだそうで、私もそう思いますので、登場する人たちとリケンサンが幸福に再会出来ることを願ってやみません。中国で参与観察をするということ。以上
【後報】
あと、印象に残った、ファルマスという青年がいます。家族からひとり離れて、縁戚の世帯に預けられた、言いつけられればいい加減なというか、どことなく頼りない感じで仕事をするのですが、それ以外は、ヒマさえあればスマホをいじっていて、電波は飛んでないので音楽を聴くだけなのですが、それで受け答えもあまりしない、しかし愛想が悪いかというと、という青年で、二十歳を二つくらい越してるのに未婚で、そうすると家作がないので共同体内では児童と同じ扱いで、漠然と都会に憧れている。
読んでいて、もやもや病というか、伝統生活の急速な激変にメンタルが追い付かない一例として、西北でも聞いた話だなと思いました。日本ではどうかというと、21世紀の今は「適応障害」という言い方があり、逆にファルマスが日本の心療内科に行くとそういわれるかもしれないと思いました。
(2023/2/19)