『モンゴルとイスラーム的中国 民族形成をたどる歴史人類学的紀行』"The Mongols and the Islamic China -A Historical Anthropological Journey Tracing Ethnic Formation."《蒙古與伊斯蘭中國: 一段貼近民族心靈的旅程》by Yang Haiying 読了

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←著者名のモンゴル文字表記(左縦書き)がはてなブログで表記出来るか試したです。出来た(´Д⊂ヽ

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日本語版ウィキペディアには英文著作が載ってるけれども、モンゴル文字キリル文字の名前はまだ追記なし。

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漢語版ウィキペディアにはモンゴル文字キリル文字の名前、Оонос Цогтが載っていて、日本語版へのリンクもあるけれど(日本語版は漢語版にリンクしてないです)英文著作や、梅棹忠夫の論考についてや、香港本土派の主張にキュィンと吸引されたことなどの、东瀛很拿手的杂学闲话几乎没有。

上は、モンゴル名オーノス・チョクトで登場の、世界モンゴル人連盟ツイート。杨海英"Yang Haiying"は同姓同名がゴッソリいやはんで、しかも「英」はなぶさは、中華圏では女性名に使う漢字なので、同姓同名の女性の、书法のセンセイやら何やらに、ツイッターもユーチューブも名前の垢使われていて、それもあってオーノス・チョクトでSNSやってるのかなという。

上は"Yang Haiying"の画像検索結果。どれが、本書著者のジンガンダーシュエジャオショウか分かりるでしょうか。

モンゴルとイスラーム的中国 - 株式会社 風響社
2014年に文春砲からも出たそうですが、もともとの2007年の風響社版もまだ在庫あるみたいです。

装丁・ポッドデザイン・佐藤一典

英題は、奥付の"The Mongols and the Islamic China"に、グーグル翻訳した副題をくっつけました。メインタイトルのグーグル訳は"Mongolia and Islamic China"で、グーグル訳のほうがいいのになあと思ってます。モンゴリアンでなくモンゴルの複数形というのは、"Mongolian"だとモンゴル語の意味になってしまい、モンゴル民族と言いたい場合は"Mongols"になると、検索して理解しました。

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本書はかなりセンチメンタルな紀行文で、私としては、先日読んだたかのてるこサンの本になぞらえて、『張承志に恋して』"Fall in love with His Soul Zhang Chengzhi" とでもすべきではないかと思うくらいの本でした。なにしろ张承志にゾッコンなので。台湾で漢語訳された本書の副題が《一段貼近民族心靈的旅程》で、张承志の代表作《心灵史》を踏まえた題名なのを隠そうともしてません。大好きなんですね。

張承志 - Wikipedia

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私自身も、張承志『回教から見た中国』(中公新書)の朝日新聞の書評を林真理子が書いたことを今でも覚えてるくらいですから、張承志大好きなのですが、ほかは何にも読んでおらず、というか、モンゴル下放紅衛兵手記とか、新しい中国の文学とかは、読んだはずなのですが、いざ語ろうとすると張賢亮とごっちゃになってたりするという…

頁380「あとがき」で、自らを、漢族研究者から民族主義者と呼ばれ、邦人研究者からエスノセントリスト(自民族中心主義者)と呼ばれることは構わない、しかし「日本人が中国崩壊を期待するかのような発言をするのは」慎むべきだし、「私たちには腰に爆薬を巻いて自爆する勇気もない」と書く。豊かになったからといって民主化が始まるなどと楽観視は到底出来ないが、さりとて、ハードランディングの崩壊は、少数民族が豊かになる道も閉ざされてしまうだろうと危惧する。こうした2007年の作者の姿勢は、GDP世界二位の中国がハイテク監視社会強化しまくりの現状を前にして、《共同富裕》还是撒谎と、失意のうちにパンドラの箱の中に閉じられ、別に阿修羅と化したわけでもないでしょうが、現在の楊海英サンがあるのだろうと思います。あたかも、高野秀行が、UMA研究家だったころと現在と、連環はしていても別人なように。

本書が文春に入る前年の2013年に京大は回族研究でスマッシュヒットを飛ばしてるのですが、それに関する楊海英サンの感想は知りません。京大のモンゴル研究の泰斗、杉山正明サンは意識してるようで、しょっちゅう出ます(頁233など)この辺も面白かった。大元ウルスは中華王朝史のいちページでなくユーラシア史の一環、という主張を、楊海英サンも考えていて、おそらくは清朝もその路線で考えたいし、少数民族史はすべて中国の少数民族史でなく、その民族ひとつひとつの歴史としたいのでしょう。当初は、そう考える楊海英サンが、日本では学者は象牙の塔に立て籠もって「政治」には関わらない姿勢を貫ぬくのに、望むと望まざるにかかわらず中国の研究者は「政治」に対し旗幟を示さざるを得ない、にあてはまってしまう(楊海英サンはモンゴル人で、モンゴル人は中国を形成する民族のひとつではあるけれど、漢人ではないのに)のは皮肉だと思いました。しかし、この人の姿勢は、「中国の研究者」のそれとはまた違う、モンゴルに立脚したそれと考えてあげたいと思うようになりました。日本国籍をとったのが割と早い2000年で、東亜産業のボスなどと同じ時期なので、実利も鑑みたのだろうと思ってますが、のちに朱建榮教授が公安にナゾの拘束されたりするような時代になると、中国籍でないほうがいいこともあるかも、と、邦人ビジネスマンも時々スパイ容疑で公安に拘束されたりするけどナーと思いつつ考えます。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

モンゴルといえば、北モンゴルやロシア領のモンゴルを対象とした滋賀県立大のシャーマニズム研究者が日本の一般人世界ではここ数年評価が高いですが、楊海英センセイが彼の著作をどう考えているか、知りたくもあります。二人の名前を併記して検索しても何も出ないので、現状、まだ交わってないんだなと思いました。

Ippei Shimamura - Wikipedia

頁138に〈苫単〉という単語が出て、聖者廟のなかの墳墓に布をかぶせる行為とあり、ムスリムベンガルの下記小説に出て来る「シャールー」を連想しました。シャールーも、墓石にかける布です。

上苫单_百度百科

stantsiya-iriya.hatenablog.com

上記の京大出版物なんか見ると、回族アラビア語ちょくで回教思想を導入したわけでなく、いったんペルシャ語を介して取り入れたことが分かります。チンギス=ハーンがまず攻めたのもホラズムですし、中国西北は、ペルシャ語圏を介して西方の知識をとりいれ、インドも又、ムガル朝時代ペルシャ語公用語になってたように(ムガルはそもそも「モンゴル」の意味)イランを通じてイスラムを取り入れていたわけです。しかし本書の時代は、許されるようになったメッカ巡礼をとおして、回族アラビア半島への帰属感を強めた時期ですので、「原点、原理主義としてのムスリムっぽさ」=アラビア半島と、中国各地のアホンが考えたとしても何の不思議もないかと。本書は、漢語名でない中国ムスリムの人名は、なるべくアラビア語に即した記述を試み、それが難しい場合、現地音を優先したそうです。メッカをマッカ、コーランクルアーンと書いているので、その辺の気配りはシロウトにも分かりました。

本書の漢語表記は、(1)〈学董〉という言葉がそのまま日本語の文中に出て来ますが、Weblio中国語辞書にも載ってない中国語のようで、「学校の董事長だから学校長」でFAのようです。(2)「帰真」という表現が、なんの注釈もなく出てきて、イスラム教関係者で、ゴンベイを作ってもらえるクラスの人の逝去、昇天をさすのだなと、文脈から理解出来、「帰真」って、いい言葉だなと思いました。二子玉川に「帰真園」という庭園があります*1が、ぜんぜん回教と関係ないようです。(3)甘粛の「粛」を何故か一貫して「肅」と旧漢字で書いています。簡体字の〈肃〉を機械的繁体字「肅」にしたものの、繁体字と日本の当用漢字が異なる点について、編集者と擦り合わせがちゃんと出来てないのかもしれません。これは、『チベットに舞う日本刀』でも、チベット自治区は「蔵」で、それ以外の各省のチベット自治自治県は「藏」と、何故か漢字を分けていた点を想起しました。(3)頁152で「孩子」に「ハイザ」と北京語でないルビを振ってたりして、ほかにもところどころそういう箇所がありますが、西北方言ということにしたいと思います。

チベットに舞う日本刀』でも、チベットの地名やお寺の名前などをモンゴル語で呼んでいるのが新鮮で、誰かを思い出しそうになりながら思い出せませんでしたが、「「タングート」とは、チベット人に対するモンゴル側からの呼称」(頁83)で、ああ、木村 肥佐生と西川一三じゃん、と思い出しました。沢木耕太郎が夏に雑誌に発表した、かつて西川一三にインタビューした記事でも、いちぞうサンはタングートタングート言っていたそうです。それを読んだそそっかしいチベット現代文学憎悪者が、現代文学憎けりゃアムドまで憎いで、もともとは「タングート」と呼ばれていて、「アムド」なんてことばはなかったのでは、と珍説を披露してました。木村 肥佐生と西川一三は特務機関の一員として、モンゴル人と同化し、モンゴル人としてチベット入りしてるわけですので、そりゃタングートタングート言いますよね。憎しみで目が曇ってしまった人のいい例です。

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本書はなべて、2003年から2004年の現地調査に基づいていて、日本学術振興会科研費助成を受けています。あとがきに謝辞。第二章と第三章はもとになる論文があるが、ほかはすべて書き下ろしとか。正直、四章寧夏、五章青海、は、それほどでも、なのですが、六章ボーナン、七章東郷が実に読ませます。〈亲戚〉ダテじゃない。下記は臨夏の描写。

頁242

 一八世紀からスーフィズムが入ってから、河州はイスラーム宗教学者を多く輩出した。そのため、張承志は河州を「中国イスラームの学術センター」と呼んでいる。(22)市内は見渡す限り白い帽子のムスリムたちの世界だ。ここはまちがいなく回民の聖地だ。中国というよりどことなく中央アジア的な雰囲気が漂っている。私はこの雰囲気がたまらないほど好きで、観ているだけで興奮してくる。

西寧も清真大寺のあたりに行けばそんなんですし、寧夏の南のほうも相当に濃いはずなのですが、著者は張承志基準なので、こうなるわけです。ムスリム人口が多いだけの地域と「学術センター」のちがいもむろんありましょう。でも私も、ここを読んで、ジーンと来ました。臨夏はいいです。ほんとにいい(ラプランにつながる道だから、というのもありますが…)

以下メモ。

【四章寧夏

長征をこういう切り口でくさすのは初めて読みました。そういわれればそうですが、私自身は、パーロはおっかないと、楊海英サンが、ホトン人(モンゴル語で回民の意味と理解)よりも言葉が通じにくいと言ってた東モンゴルで、掃討戦に従事した先祖から聞いてますので、まあそこまで戦力温存してたわけでもなかろうと思います。

毛沢東の弟が毛沢民という名前とは知りませんでした。

私は河南省から青海に流れてきたオッサンから、回民の前で"zhu"と言うな、"zhurou"は〈大肉〉"darou"と言い換えろ、と教わり、実際その辺で天秤量りで脂身の多い豚肉売ってるオッサンらーもそうだったのですが、頁126、エドガー・スノーも『中国の赤い星』にそれを書いている、ように読める箇所があり、あまりチャンと読んでなかったので、今度そこだけ探して読んでみようと思いました。スノーが書いてる、で、いいんですよね。楊海英サンが書いてるではなく。

〈门宦〉は〈口换〉から来ているので、〈门换〉と言い換えるべきだ、という教団内部からの主張が頁136に出てきますが、「宦」も「換」も"huan"で同音、という知識が我々にはなく(初級の漢語話者は「宦」なんて単語を音波で使う機会はなかなかない)そして、「門宦」"menhuan"に「モンホワン」というルビが登場する頁244六章ボーナンまで、ずっともやもやし続けるのでした。

頁121に〈寧夏大米〉が出ますが、私が蘭州や西寧の米屋で見た時は、〈银川大米〉でした。陸の孤島のように、回族の砂漠に浮かぶ漢族都市、銀川。山東黄河が干上がるもとになった黄河上流の灌漑で稲作を成功させた、その陰の功労者には、朝鮮族もいたと聞きます。稲作指導のため移住させられた朝鮮族が居ついて市内に住んでるのを、当時銀川の大学に大挙して進出していた韓国人留学生たちが街で見つけてナンパして、自分たちのまかない食事を作ってくれるオモニとして、カネを出し合って雇って、毎食韓食に舌鼓を打っていたのを、この目で見たので。朝鮮族がいたせいか知りませんが、なぜか銀川の市場の麺屋台のレパートリーにはチャジャミョン(炸酱面)もありました。キュウリ刻んで載せる、歯が黒くなるやつ。

頁149等に登場する「寡婦村」について、楊海英サンはモンゴル人で、性にインビなムッツリスケベの漢族とはちがうはずなのですが、別のモラルからか、筆が重く、具体的な描写なしで、以心伝心で読者に伝わるように書いています。しかしこれが漢民族の常識としてフォークロアになっているとするなら、男子を理由不明で刑務所に送られたウイグル人の女所帯に、親戚という名目で漢族男性が同居する、悪いジョークどころか現実の話は、こうした本土十三省内ムスリムに対する口承伝承「寡婦村」〈寡妇村〉"guafucun"の果てに引き起こされているのかもしれません。ワックのマンガを読んでもいいですし、その抜き刷りの無料配布版をウイグル料理店で読んでもいいです。じっさいに本人に会えたりするので、何も言えない。

【五章青海】

原爆工場とその町について、細かく書かれています。1987年冬に、北外日本語学科助手の楊海英サンは何故か大通城郊外土族集落の日本外資のビール工場で学生たちと実習をしていたそうです。その頃は、海晏県には日本人を連れて行くなと厳命されてたそうですが、今はどうでしょう。現地は観光資源として活用したいけんども、みたいな話は2007年の本書にも載ってますが、さて。

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トゥマト人というモンゴル系のムスリムを訪ねるのですが、訪ねた先のムスリムは、回族アホンの説得で、親戚づきあいのあるウイグルでなく、回族に民族籍を変更したそうです。何か深読みしたくなる記述ですが、憶測もしたくない。頁176。

青海に限った記述ではありませんが、所謂「生態移民」について本書も折々につけ触れています。青海の牧地のそれは、私にはチベット文学の『黒狐の谷』を思い起こさせます。

stantsiya-iriya.hatenablog.com「生態移民になる」という選択 pdf

https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/3/35624/20141016205758656579/AjiaShakaiBunka-Kenkyu_15_65.pdf

「生態移民」で検索すると、南モンゴルなどのそれについて、日本での論文がワンサと出ます。

内モンゴルの「生態移民」による牧畜経営の変化
中国における生態移民政策の執行と課題
中国における生態移民政策と貧困・環境保護対策との関連性
黒河流域における「生態移民」の始まり
中国内蒙古における生態移民政策の現状と課題

上記は、頁219「強いチベット人と「民族」の壁」という箇所。国際的に注目を集める、ノーベル平和賞受賞者と亡命政府を擁するチベット人がうらやましい、という箇所なのですが、私は、黄南でこんなことが起こっていたことと、現在、有名になっていてもおかしくない、この地域に入れ込んでいた人たちの消息がまるで聞こえてこないことに、不気味さを感じています。いったいどうなってしまったのか。

【六章ボーナン / 七章东乡】

杉山正明の反対語は張承志なのか、というくらい、傾倒がハッキリと分かり、ここからグイグイ引き込まれます。頁249のボーナンの街の写真など、ぞくぞくするくらい好き。

この人の調査のやり方は、現地につらなる人脈を探し当てて、そこから現地につないでもらい、現地へは、旅ごとに現地で車と運転手をチャーターして臨んでいます。この頃はそういうやり方が多かったと思います。今は中国もマイカーが普及し、道もよくなったので、自分で運転するかもしれない。

頁278 崖頭門宦

(略)アメリカ軍によって逮捕されたイラクサダム・フセイン元大統領に同情の念を抱くムスリムたちと握手してから別れようとした時、彼らは私に聞いてきた。モスクは文化大革命中に破壊されたが、政府に賠償を求めることはできないのか、という。私はどう答えていいか分からなかったが(後略)

蘭州市内でもどこかそれっぽい関係個所に行ったと読んだはずですが、どのページだったか分からなくなっています。

ボーナンも、東郷も、ホトン人も、トゥマト人も、イスラム教徒の異民族が言語面でモンゴル化したのか、それともモンゴル人が回教に改宗したのか、という面を、性急な結論を避けながら、それぞれ愚直に追ってゆきます。しかし、今現在、モンゴルということなのだが、相互の意思疎通はどれくらい出来るのか、という点は、あまりはっきり書かれていません。主観に左右される面もあるからでしょう。どこか忘れましたが、カザフ語もある程度分かる、と書いている箇所があり、私はカザフ人から、カザフ語の語彙の六割はモンゴルとかぶると聞いたことがあるので、さもありなんと思いました。

その一方で、土族については、トゥー人とは書いてますが、モンゴル系の、どういう感じの距離感なのかが書いてなくて、土族はムスリムでないから話を拡散させないためにはぶいたのか、あるいは青春のいちページで、何か甘酸っぱい思い出があるのか、等々勘繰りたくなりました。私の認識では、土族は、農耕をよくし、纏足の習慣もあるので、モンゴル人とは別枠の扱いになっていたはずで、ほかの青海のモンゴル人が、あとから発見された河南モンゴルもモンゴルなのに、大通や互助を分けるのはどういうクサビだろうと、いまだに分かりません。楊教授の見解を聞きたいです。

東郷に比べ、ボーナンはやや弱いというか、モンゴルとの距離感がはっきりしない気もしました。本書は、「~人」「~族」という書き方について、中华人民共和国ルールの、「~人」は国民の意味で、「~族」は民族、とりわけ、民族名を冠した国家を持たない民族の意味、というおかしなルールの日本語への強要から自由で、かなり自在に「~人」「~族」を使っています。ほんとはすべてモンゴル人、チベット人ウイグル人漢人、日本人、みたく、「~人」に統一したいのだけど、ムスリムチャイニーズだけは、回族と書かざるを得ず、やりにくいなあと、思っているのではないでしょうか。

あまりにオーノス・チョクト教授の張承志愛が激しいので、私も、心霊史と黒い駿馬読んでみます(後者は再読になるのでしょうけれど…)それが本書の熱い思いに応えるたった一つの方法ではないかと。爱ではなく、愛。以上

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