『天路の旅人』"THE TRAVELER ON THE CELESTIAL PATH. " by Kotaro Sawaki 沢木耕太郎 読了

www.shinchosha.co.jp

celestial pathの意味・使い方・読み方 | Weblio英和辞書

著者のアルファベット表記は下記ジャパタイの記事から。この人の英語版ウィキペディアがないとは思いませんでした。著作の英訳があればそれに従えると思いましたが、アマゾンで絵本『わるいことしたい!』のハングル訳「나쁜 짓이 하고 샆어!」(담부스)"Dumps"と中文訳《我就是想要幹壊事!》(連環画出版社)が見つかっただけでした。"Kohtaro"で検索すると、World Cat Plusで『凍』の台湾版『凍 : 挑戰人生極限的生命紀錄』が出るのですが、World Cat Plusはアルファベットをピンイン表記で統一しているらしく、沢木サンが澤木と繁体字になっているのをさらに"ze mu geng tai lang", 北京語のゼームーゲンタイランサンにしていて、使えません。

www.japantimes.co.jp

https://www.worldcat.org/ja/title/727703880

下は角幡唯介サンの書評。

bunshun.jp

角幡サンは西川本を「北極のカヤック行で浮氷に閉じこめられ長期停滞を強いられたテントの中で」読んだそうで、「文庫3冊1800頁にもおよぶ大作は、こんな暇な時でなければ読めるものではない」これは、沢木耕太郎サンのあとがきとも一致します。「確かに『秘境西域八年の潜行』という本は存在する。だが、それはあまりにも長大すぎるため、最初から最後まで読み通すことのできた人がどれだけいるかわからないほどである」要するにみんな積ん讀で、内容を精査して、誤字や事実関係のおかしなところを洗い出そうとする人が少なかった(いたとしてもその成果が広く世に共有されていなかった)ということで、同時期にもうひとり潜行者がいて、彼も又ルポを書いた、その木村肥佐生チベット潜行十年』と照らし合わせることにより、またとないファクトチェックが出来るのに、誰がどこまでそれをやったのか、ということで。やった人はたくさんいるはずですが、その成果が公開されて広く知られていないということだと思いますけどね。

 その旅を沢木耕太郎が今になって書き直す。となると、当然ながらその意味が問われることになる。西川氏の本は木だけを書いているところがあるので森を書きたい、と沢木氏本人は記すが、ではその森とは何なのかということだ。

(略)

 では造形された作品において沢木氏の主題はどこにあるのだろう。それは西川氏の人間としての覚醒ではないかと思う。

これまで、一冊にコンパクトにまとめられた木村十年を私なぞはまず読んで、西川本は積ん読だったわけで、みんな同様だと思っているのですが、これからは、みんな簡潔に要約された沢木本を読んで、やはり西川本は積ん読のままになると思います。その意味で、沢木サンは、しょわなくてもいい責務をしょってしまった。西川サンという人間をインタビューで浮き彫りにする形で本書を書けなくて、けっきょく西川八年を要約するしかなかったことで。私はなんとなく、沢木サンが、西川サンの人間性に敗北したんじゃいかと思ってます。ペンで的確に浮かび上がらせることが出来なかった。

例えば、沢木サンが、蛭子能収の伝記を書いたとしたらどうでしょう。何を書いても、蛭子能収サンご本人のミリキを、引き写したとはいえないと、自問するのではないかと思います。紙の上に残ったものから、何かが出て行ってしまって、物足りない。蛭子サン自身、語り起こしだからだと思いますが、たくさん活字の本を出していて、しかしそれと、マンガ家時代の『旅芸人の記録』『呆れた金持ちの怒り』などの作品と、どう整合性をとったら、おもしろいエンタメノンフ©高野秀行が書けるかというと、かいもく不可能な気がします。

沢木さんは、たまたますぐ西川さんご本人がコンタクトがつく方なので、ご本人八十歳でまだ自営業を営まれている時に、月イチくらいで週末に三時間半ほど、酒を飲みながら話を聞いたそうで、まあ酒が入った話だからいくらやってもまとまらないだろうと外野が思う通り、それで本は書けなかったようです。頁21。最初は二合徳利をひとり一本ずつ手酌で飲んでたそうですが、しだいに一人四合にもなったそうで、八十歳で四合はちとどうかと思いました。こがないで引いて歩くにせよ、よく自転車でひとりで帰れたなと。

岩手の盛岡で、八十越えても、美容室や理髪店相手に器具や消耗品を卸すお店を経営していたそうで、雑然とした店内だったそうですが、高齢者が経営するお店のそうした店内は、どこの商店街でも一時期目についたので(最近は減りました)違和感はありません。しかしチベット仏教の僧院があかりが貧弱で、そこで長年木版のお経を読んで覚える修業をしていたからか、頁538、視力のせいで運転免許がとれなかったそうで、それでよくそのお店が経営出来たものだと、その点はおどろきました。配達に人を雇ったそうで、そうとすると、それだけで支出ガーなはず。たぶんそういうことは、一切語ってくれなかったのではないでしょうか。線を引かれた。

前にも日記に書いたのですが、西川一三を「いちぞう」と読んでいた、アムド支援関連の人がいて、西川サンより年長者だったので、興亜義塾や善隣協会、あるいは特務等の絡みの人だったのかなあと思ってます。こうした人たちは実はたくさんいて、諸橋大漢和がとても中国辺境の地名を網羅しているのは、彼らが足で探った成果の一部だと私はひそかに思っています。

本書にそうした西川サンより年長の人たちは、西川サン八十歳の取材スタートなので、出ません。物故等でインタビューは無理だったと思われます。そして本書では一三サンは「かずみ」と読まれるままです。私としては、阪急の創業者でもあるまいに、なんで「いちぞう」なんだろうと今でも思ってますが、沢木サンは、そう西川サンを呼んでいた年長者がいたことに、気づいてすらいないかもしれません。そういったことを、一切語らない人物っぽいと、そこは本書を読んでも思いました。人たらしがするっと内に入り込めず、線を引かれた。

そんなこんなで鵺的に時間だけが過ぎ、ご本人が逝去し、夫人のインタビューや、当時の編集者が存命で、肉筆原稿が発見されたこと、ここが第二のターニングポイントだったと思いますが、発見された肉筆原稿は、あくまで活字化された分だけで後は散逸しており、生原稿をもとに完全版を復元して、整合性の取れなかった分、つじつまの合ってない分をフォローアップすることは出来なかったようです。出来ていれば、木村サンの十年が英国人の聞き取りによって『偽装の十年』としてフォローアップされたごとく、西川版『偽装の八年』となったかもしれない。でもそうはなりませんでした。

それから時間がたって、本書を、こういう形(大半が中公文庫のダイジェスト版)であっても書き残そうとしたのは、ご遺族の娘さんがひとりもの?かどうかは分かりませんが、今後、資料が散逸しないようどこかに寄贈するにしても、なんらかの世の中へのニュースなどがあって再度脚光を浴びないと、ツラいと考えられたのかもしれません。私には、そう思えました。実際、今、西川本も木村本も、日本の古本屋で出物なし、アマゾンでボッタ値ついてます。資料として読みたい人は、図書館ではぜんぜんリクエスト予約待ちないので、問題ないのですが。

本書はリクエスト予約順番長いです。私は十七人くらい待ちましたでしょうか。

で、本書を読み始めて、まず思ったのが、用語がアップデートされていないこと。あるいは、用語の不統一性。

まず、頁63に、「活仏」という単語が出て、まあ転生霊童で、私にとってはなつかしい言い方で、おそらく中文では今もそう呼んでそうなのですが、近年活性化されている、チベット現代文学ほかを邦訳する試みのなかでは。これは、「化身ラマ」と書かれるようになっています。下は白水社のニューエキスプレスチベット語2020年版頁126。

同じページで「ラマ教チベット仏教)」という言い方もあり、ラマ教という言い方を、現在はチベット仏教と言い換えていることが多いことを著者も編集者も理解してると思われますが、チベット仏教と言ってしまうとモンゴル人も信仰してることとアレじゃないかと勝手に思ったのか(モンゴル人はそんなこと思わないです)本書では「ラマ教」と書かれた箇所が多いです。「活仏」⇒「化身ラマ」の用語変遷も知っていると思われるのですが、おそらく西川一三サンが当時使っていた用語をそのまま使おうとしたためでしょう、あまり現在の言い回しに変えてません。

このページは、もうふたつ気づきがあります。包頭郊外の石拐子というところ伸びる軽便鉄道?について、沢木サンは京大がウェブ上に公開してるアーカイブに辿り着いているのですが、そこに記載された石拐子のピンイン"shiguaizi"を、シグァイと誤読しています。正しくはシグァイです。"zi"を、カタカナにあえてすると「ズ」になることは中文学習の基礎のキなのですが、おそらく沢木サンにその知識はなく、またブレーンや編集にもチェックした人がいなかった。

codh.rois.ac.jp

当時西川サンともうひとりの興亜義塾の人は石拐子郊外のバタゲル廟というチベット仏教の僧院に身を寄せていたのですが、そこは信仰とは無縁の八路軍に襲撃され、金目のものは全て持ち去られ、あろうことか僧侶まで二名連行され、身代金を要求される事態になります。デングリ化身ラマは西川さんらに救援を懇願し、西川さんらは特務機関に被害を訴え、日本軍と内蒙古軍が出動し、二人の僧侶を奪還します。ここ、私は読んでて、南モンゴルにおける八路の掃討作戦には祖先が従軍しており(戦争はこりごりだそうです、飢餓と紙一重だから)八路は実は戦っても強いと聞いていたので、なるほどと思いました。人民のものは針一本盗まなくても、旧社会の搾取階級である牛鬼蛇神の邪教寺院はその限りではなかったのだし、《朱毛匪》と恐れられたのは、こうした人質の身代金取り立てなど、まんま匪賊としても活動していたからだな、と納得しきり。まさに《朱毛匪》

頁136、西川サンは酔って人を殴って興亜義塾を放校処分となり、禁酒を誓ったのですが、それは潜行中も守れなかったとあります。女犯は一切してない感じなのに、それもまた業なのかと思いました。頁143、バンデという、男色の相手の若い少年を指す言葉が出ます。本書の単語の多くはチベット語でなくモンゴル語と思われるので、これもそうだと思います。沢木サンは、どの単語がモンゴル語でどの単語がチベット語か、おそらくぜんぜん精査してないと思います。西川サンが使ったことば、それだけでよいと思っていたのかも。木村サンの本によると、肛門性交でなくスマタで、モンゴルとチベットは前からと後からのちがいがあったはず。本書の言い方だと、男色は性器挿入がないので女性との性交渉より性病が移りにくく、性病持ちの僧侶は女性とセックルしたと告白しているも同然だそうです。しかしそこで、梅棹忠夫『回想のモンゴル』まで読んでいれば、僧侶に初夜権があり、梅毒持ちの僧侶が多かったこともモンゴルの人口減少の一因だった、というくだりにまで到達出来、本書後半、性病に罹患すると旅が続けられないので女性との接触を慎んだという西川サンの告白のバックボーンがよく理解出来るはずです。背景には梅毒の蔓延があった。

頁166、「タングート族」という言葉が出ます。「チベット人が蒙古人の影響を受けることで形成された人々」とここでは書かれており、本書に「アムド」ということばが登場しないことから、語り部バカ一代の人が、昨年8月15日に公表した女子会七つの大罪なるとっぴょうしもないメールニュースやFBの文章で、アムドは藏流女子会の捏造で、古来はこの地域はタングートと呼ばれていたのではないか、との珍説を発表(現在はFBからこのくだりは削除)したことは、私だけの記憶に新しいです。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

楊海英サンによると、モンゴル人はチベットをタングートと呼ぶそうで、木村十年でも、頁82ではツァイダム盆地のチャガン・オスの住人について「タンガット人(チベット系アムド族)はアランガンと呼ばれ」と、アムドの呼称を出して書かれ、頁113では、チベット人=タンガット人、と、ハッキリ書いています。偽装の方では英訳邦訳を経て、用語を整理してしまっているので、チベット人としか書いてなく、タンガットの記載は消えちゃってますが… ほんとにケサルバカ一代のひとは、自分がだれよりいちばんガンダムを動かせる、否ケサルに詳しいと思い込むのみならず、その思いが高じて、目が曇った。

ページ69には、中国の民族区分で、モンゴル系なのにハッキリそうと書いてくれない、土族が出ます。楊海英サンの若き日の思い出にも登場する人たち(大通だったかで若いころ工場勤務をしてたそうで)を、本書は「三川人」と書いていて、この言い方は私は気に入りました。今度使ってみよう。機会はありませんが。

en.wikipedia.org

タングートを歴史用語では「党項」と呼ぶことを、世界史必修以降の世代なら、授業サボってなければ知っているはずで、本書も党項と書いてもいいと思いました。

というのも、頁187に「多羅菩薩たらぼさつ」という単語が出て、これは偽装でも現代文学邦訳運動でも、「ターラー菩薩」とカナ交じりで表記されますので、それをすんならタングートも党項でしょ、という。下はこれまたニューエクスプレスより。

通常は「ゴロク」と書かれるゴロも、「ゴルク族」と書かれます。ロシア語の「苦い」でも、夏目漱石の坊ちゃんに出て来る小骨の多い魚でもなく。頁267、「ゴルク族はチベット人の一部族で、その意味ではタングート族と変わりないが、体格のいいことと、陰気な印象を与えることが異なっている。それと、このあたりのゴルク族は盗みをすることで有名なのだという」と書いてあり、しかしこれを張承志『回教から見た中国』のジャフリーヤネットワークから見ると、ゴロは回族商業圏に完全に組み込まれており、いいようにボッタされていたりします。アッシはマルチコンシャスネスの持ち主、という人が見ればそう見る、かなあ。

頁212の「ハサク」という表記はほんとうにひどいと思いました。いったい誰が沢木サンにこんな教示したんだろう。木村十年ではもっぱら「コサック」と書いているのですが、ロシアの騎兵がこんなところにいるわけもなく、中国側の資料を見ても、盛世才への援蒋ルートを襲って新疆から追われ、ツァイダム盆地へ逃げて青海モンゴルを虐殺した遊牧民集団はカザフとハッキリ書かれているので、それを参考にした「偽装」ではカザフ族です。族表記が気に入りませんが、そういうことです。しかし本書は、ハサクという、カザフの漢語表記《哈萨克》のピンイン"hasake"をそのままカタカナにしたものを使っています。いったい誰がこんなバカな用語使用の教唆をしたのか。アホすぎる。立派な日本語の「カザフ」があるのに、なぜそれを捨てた。

その反面、じゅうらい、特に共産党支配のチベット旅行記に頻出した、「チンコー麦」という表記は本書には出ません。ならなんと書かれてるかというと、「青稞せいか」です。チンコーの漢字を今度は日本漢字で読んでる。日本語読みにすりゃいいってもんでもないと思います。ハダカムギという立派な日本語があるのだから、ハダカムギと書けばいいのに、「青稞せいか」なんて、「麦」がつかないので、なんだか意味不明の単語になってしまうのを、よくもまあという… 本書は、キチェ河だったかヤルツァンポー河だったか、カタカナ部分に原語の「河」が含まれているので、本来はつけないほうが「ハングル語」みたく重箱重ねにならなくていいのだが、慣用的にキチェ河だったかヤルツァンポー河だったかみたくなっているので、そうしますとどっかに書いてるのですが、それなら、「青稞せいか麦」と書けばいいのに、なんでなん、という。

ja.wikipedia.org

ちなみに私のビニルハウスの大麦は、もう穂が出てます。アブラムシがつくので、消毒しました。

ハダカムギ麦こがしのようにした粉もんを、ツァンパと呼び、チベットフリークのあいだではあまりに普遍的なことばなので、特にカッコの注釈をつけずにツァンパと書いて仲間内では当然通じるのですが、これ、チベットフリーク以外だと、完全に分からないですよね。本書の監修を誰がしたのか知りませんが、ツァンパだけはチベットフリークのはしくれだったらしく、なんの注釈もつけずにツァンパと書かれます。残波は沖縄の泡盛、ツァンパはチベットむぎこがし。私は麦こがしを食べたことがなく、見たこともないので、ツァンパみたいなものだろうと想像してます。

tomiz.com

本書にはあと三つ、最初にちょろっと注釈が出て、あとは出ないので、読んでくと、あれ? これ何の意味だったっけ、と惑うかもしれない単語があります。①「アルガリ」家畜の糞です。頁88。たぶんモンゴル語。検索すると、下記の本が出て、書名も著者名も壊れてると思いました。

www.shumpu.com

北九州のナントカ大学の院生なのかな、もともとこのテーマで学術論文や発表も積極的に行っていた方なのですが、この題名は明らかに悪乗りというか、悪趣味で、チベット愛のある人にとっては屈辱を感じることもあろうかと思います。作者か編集のどっちかが壊れてると思いました。で、張(张)平平という人なのですが、なぜ姓を日本語読み、名前を漢語読みでチョウ・ピンピンと読ませるのか、さっぱり分かりませんので、壊れてるとしたら前者なのかも。ジャン・ピンピン"zhang  pingping" or ちょうへいへいの二択のはず。なんでミックスしてしまうのか。臭蓬蓬choupengpengまたは臭喷喷choupenpenと掛けてるのだろうか。

②「バナク」本書は、パオとかゲルとかユルトという、遊牧民のテント式住居を指す慣用的表現を使わず、えんえんバナクと書いてます。漢語の〈包〉"bao"、モンゴル語のゲル、トルコ系の「ユルト」(「偽装」では何故かロシア語から英語化した言葉としています)でなく、バナク。

ja.wikipedia.org

「タングート人はバナク、あるいはバツナグと呼ばれる天幕を住まいとする」(頁249)この文章のウラをとろうと検索して、パリのチベタンレストランホームページに辿り着きました。店名が「バナク」だった。よってこれはチベット語

www.banakcuisinedutibet.fr

Banak fait référence à la tente nomade faite à partir des poils de yak située dans les montagnes enneigées du Tibet. 

(グーグル翻訳)

バナクとは、雪をかぶったチベットの山々にあるヤクの毛で作られた遊牧民のテントを指します。

bo.wikipedia.org

しかし旅行者や隊商が張るテントは「テント」と書かれ、牧民の住居「バナク」と明確に区別されます。頁357、夏にラサ貴族がキチュ河に張る川遊びのテントも「テント」でした。エキスプレスでウラとろうと思ったのですが、エキスプレスに、ヤクは出ますが移動式住居は出ません。

③ウールグ。牧羊犬に追われながら必死にウールグを担いで走って逃げる、などの描写がひんぱんにあるのですが、かんじんの説明は頁230に、「背負子」とあるだけ。頁278「背負子のウールグ」などと書かれると、さらに混乱。モンゴル語だと思うのですが、チベット語なのかも。シャンという、ツァイダム盆地の街でのラサ行き準備の場面から登場する単語なので、どちらとも言い難い。

この「シャン」という地名は、ゴルムドと青海湖のあいだのどっかだと思いますが、知りません。「偽装」頁136に、「中国語からの借用語で倉(シャン)と呼ばれている」とあり、〈倉(仓)〉は”cang“ ツァンですので、「ツ」と「シ」を見間違えるという、戦後日本語教育の一大問題の一波及例かもしれません。「十年」「八年」ともにそんな説明文はナシ。

本書の地名呼称は、漢語のあるものは漢語表記でそれを日本語読みしようという方針のようで、夏河はラブランやシャーヘーでなく「かが」、徳格はデルゲでなく「とくかく」、玉樹はジュクンドォやユィシューでなく「ぎょくじゅ」です。頁197。打箭炉をダルツェンドと書かず、「だせんろ」と書いてる本を初めて見たかもしれません。でも、何事にも例外があるというか、昌都はなぜか、最初だけ「しょうと」とルビが振られるものの、あとはチャムドです。ギャンツェやシガツェ、ラサと同じ扱い。

本書の地図は折り返しにあるので、自腹を切らず図書館本でお茶を濁そうとすると、こういうことになります。いたしかたなし。

huhehaoteとピンインで書くと何が何やらで、ただ、f音でなくh音なんだなということだけ分かる、フフホト呼和浩特は、本書では厚和とずっと書かれ、梅棹忠夫サンの本でもそうだったかなあと、さだかでないものの、ちょいちょい悩みました。頁521でやっと「帰化城」という、綏遠と並ぶ知った表記が出て、ほっとするやらなにやら。

頁127、かつては鳥葬、今は天葬と呼ばれる埋葬のいち形式が、なぜか「風葬」と書かれています。川喜田二郎『鳥葬の国』が山田詠美風葬の教室』になったわけではぜんぜんなく、風葬は、チベットゾロアスター教で行なわれる、死体をハゲタカなどにくわせる葬送とはまったく別の埋葬方式なのですが、本書は間違えて使ってます。沢木サンクラスになると、王様はハダカだ、で、編集も諫言しづらいのか。

風葬 - Wikipedia

stantsiya-iriya.hatenablog.com

stantsiya-iriya.hatenablog.com

西川サンのカム紀行、「人殺しつつ、経唱えつつ」だと思ってたのですが、記憶違いだったようで、頁372「人殺しつつ、寺巡りつつ」でした。我ら冥府魔道に生きるもの、死して屍拾うものなし。ケサルと心中のしとが、なぜ殺生を禁ずるチベット仏教で殺生をするのかとかヘンなこと言ってましたが、タフな環境というだけの話だと思います。このページはチベットなのに関帝廟が出てきて、アムドのチベット人も治水の神さまの二朗真君など信仰していたなと思い出しました。太陽がいっぱいの黒いマリアみたいに、二郎真君を川に流す。

頁116に栞を挟んでいるのですが、意味が分からないです。ここだけ、自分で自分が分からなくなっている。

思うに、人には、コマンド、指令というものが、必要なのかもしれません。天命、使命と自分では思っているかもしれませんが、「プログラム」などということばがあるように、「助言」というかたちでなくても、指示があって初めて動く人間は、指示があるとここちよい。西川サンにとって前半のそれは、内示的な吉田松陰と、昭和天皇の密命で、途中それが糸切れた凧となり、木村サンは正気にカエレと荒療治したつもりかもしれませんが、本人の承服出来るところではそれはないかった。そして、戦後のコマンドは、伴侶となった女性からの、地に足をつけて生きなはれ、のひとこと。これですべてが決せられた。私は本書をそう読みました。

というわけで、女子会とケサルバカ一代のバトルに言及せずに本書の感想を書き終えることは不可能と思ったので、誰が読むのか知りませんが、きちっと書きました。何がどうなるか分かりませんが、チベット関連書籍の出版も活況を呈していて、うれしいです。『絶縁』はまだ読んでませんが、村田紗耶香サンがセーラー服と機関銃の同姓同名のしととトークショーやった時に感激したとか、確実に女子会のほうは一般分野に広がりを見せていると思います。沢木サンの本書が、誰がブレーンでこんなトンチンカンなのか、不明なのとは対照的。

www.iwanami.co.jp

かねてから女子会の邦訳は男性作家ばかりで、男尊女卑社会ではあるのですが、同様に男尊女卑のイスラームにおける女性文学の苦闘を考えると、それで納得してはいけなくて、チベットの女性文学というものは現在いったいどういう位置づけなのか、と疑問に思っていましたが、段々社から『チベット女性詩集 ― 現代チベットを代表する7人・27選』(現代アジアの女性作家秀作シリーズ)が四月に出るそうで、訳者は海老原サンという方。詩集なので正直読むかどうか分かりませんが、メモ。もっと正直に言うと、女性は男性に転生しないと解脱出来ない(女性のままでは成仏出来ない)という経文がある限り、最終的に女性の仏教徒がひとりもいなくなる可能性もあると思っています。

また、ホショト部の人が『物語 チベットの歴史 - 天空の仏教国の1400年』(中公新書)という本を四月に出されるそうで、なんでそんな花盛りなのかと驚きを禁じ得ないでいます。禁じてもいいのですが。
これからは、みんな簡潔に要約された沢木本を読んで、やはり西川本は積ん読のままになると思います、と、先に書きましたが、そうなると、本書は、木村DISりが激しいので、木村サンの遺族的にはどうなんだろうと思いました。ご遺族がいるのか、内容的におかしくないか見てもらったりしたのか、それは分かりません。とにかく二人旅行の際は、徹頭徹尾キムラサンが足を引っ張り、足手まといになり、策士策に溺れてすべて台無しにする連続です。で、さいご、糸切れた凧のように、物乞い放浪を続けようとする西川サンをインド政府にサシて密告して、日本に強制送還させるのも、先に身バレして収監されたキムラサンです。本書は、西川さんがこう語ったからこうです、的な体裁をとりながら、キムラサンのマイナスポイントを挙げることにきゅうきゅうとしており、沢木サンはキムラサンがキライなんだろうかとすら思いました。あげく、頁548では、西川サンに、あまり恨まないで的フォロー入れようとして、線を引かれるくだりまで入れて、マッチポンプしてます。こんな策を弄する人とは思いませんでした。

あとがきで、『西蔵漂泊 チベットに魅せられた十人の日本人』の江本嘉伸サンへ謝辞。校正の上村栄サンへも謝辞。装幀緒方修一サンへも謝辞。編集武政桃永サンは、家族に次々コロナカに陽性反応が出る中、本書刊行にさくさく邁進してくれたんだとか。

沢木さんは、コロナカでちょっと難しくなってるけど、事態が好転したら、南モンゴルからインドまで、バスや鉄道を使って西川サンの旅路を辿ってみたいんだそうです。監視カメラいっぱいあるのと、VPN遮断にきおつけてね、あと理由なき公安によるスパイ容疑の邦人拘束には、本当に注意してほしいデス。それと、天空列車に乗りたいのは分かるので、あとのバスの部分は、トイレで停車ひんぱんだとほかの客が迷惑だから、ランクルチャーターくらいしよし、お金アルジャナイデスカ、と思いました。終わり。以上