stantsiya-iriya.hatenablog.com
頁241
「殺るよ、殺るしかないんだよ」ウイグル人街で若者のひとりが言う。(中略)「漢人ならだれだっていい、そいつがこれまでウイグル人に何をしてきたのかはたいした問題じゃない。このトルファンの街じゃ漢人であるということ、ただそれだけで死に価する」
カシュガルやホータンならいざ知らず、トルファンみたいな観光化した街でこんなことベラベラよく知らない外国人相手に話すかなあ、と思う人は思うはず。
頁242
「なぜわれわれが漢人を殺すのか、あんたがた外国人にも知って欲しい」とその若者がつづける。「理由は簡単だ、その何倍ものウイグル人が漢人に殺されているからだ」
「中華膨張主義の解体ー三民族自治区からの発信」"Demolition of Chinese expansionism. -Message from Three Nationalities Autonomous Regions" 1994年12月から翌年1月まで「SAPIO」掲載。この頃平均的なウイグル人がこんな過激だった気がしないので、過激な人は過激だったのでしょう、くらいにしか。しかし、これぜんぶ、同じ人の発言で、偏った意見の人ひとりの発言を、過激さゆえにウケると考えて著者がピックアップした可能性が否定できないです。
だいたいの穏当なウイグル人は、その後はいざ知らず、当時(八十年代)は、むかしやって来て、ともに苦労した漢人は気心が知れてて、お互い助け合いもあったものだが、近年の大量入植者は… くらいの感想が大半だったんじゃいかと思います。あくまで感触ですが。ただ、こういう出だしでありながら(こういう出だしだから?)船戸与一サンはネトウウヨに甘い顔をしないので、加々美光行センセイの著書に全面的に依拠しつつ、二度に渡る東トルキスタン独立の最初の1933年時は、漢語を話す回族も漢人排斥の対象に組み込んだため、回教徒軍閥馬仲英が反撃し、僅か半年で東トルキスタン政権は崩壊する中で、西北に触手を伸ばす日本特務機関も馬仲英を資金援助、馬仲英部隊には大西忠という邦人(大陸浪人?)も中国名千華亭(亨?)を名乗って参加したとわざわざ書いてます。ネタ本は加々美光行『知られざる祈り』(新評論)1992年。この本は2008年に『中国の民族問題 危機の本質』と改題、加筆修正して岩波現代文庫化されており、読んでみようと思ってますが、道浦母都子サンの『無援の抒情』が岩波現代文庫化された時、同時代ライブラリー版に収められていた大阪中華学校日本語教師時代のエピソードがまるっと削られて、なかったことになってたこともあり、岩波現代文庫は(岩波文庫や岩波新書とちがって)要注意との気持ちが抜けません。
加々美光行サンは晩年、今天中国ハイテク監視社会成立了について警鐘というか、もう遅い、いやまだ間に合うか、などと語っていたと、姫田小夏という人の記事で読んだ記憶があるのですが、今検索して、探し出せませんでした。
たぶん『知られざる祈り』によるのでしょうが、二度目の東トルキスタン、人民共和国はスターリンによって国府に売られ、潰えたとあります。スターリンはヤルタ体制を実は愚直に守る人なので、中国の代表を蒋介石とまずは考えていたという、聞いた話と一致する内容です。その蒋介石を台湾に駆逐した毛沢東がウイグルの民族自決を一顧だにしなかったのは、中華思想だからでFAで、船戸与一サンによると、「要するに、抗日戦争と国共内戦のあいだは少数民族の悦びそうな言辞を弄してシンパ化させ、権力奪取後は秦の始皇帝以来の手法、すなわち中華思想のもとに民族自決権を否定したのだ。東夷・西戎・北狄・南蛮を漢人のなかに取り込むことによって版図を拡大するのである」(頁247)ということになります。
国家と犯罪 (小学館): 1997|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
三大噺というか、ウイグル、モンゴル、チベットの三大少数民族について書いているので、次はモンゴルが来ます。
頁263
(モンゴル人の日本語学習熱について漢人のそれと比較して)日本語を喋ることによっての漢人化の拒否。これが見え隠れするのだ。そのことには蒙古聯合自治政府成立時の事情が若干なりとも作用しているように思えてならない。(略)その関係者だった連中がいまも若いモンゴル人たちを無償留学させつづけている。留学先はたいてい亜細亜大学なのだが、上海や重慶で動いていた特務関係者が戦後闇資金を私利私欲のためだけに運用していたのに較べるとその差は大きい。
これ、霞山会かと思いましたが、勝手な思い込みでした。上海で働いていた特務関係者で、その資金を持ち帰ってというと、児玉誉士夫サンを思い出しますが、偶然の一致でしょう。
ウイグル人の留学は流経大、のような事実があるのかどうかは知りません。
ウイグル人の項がこの調子なので、当たり前ですがチベットの箇所に関して、度重なるラサ暴動もありーの状況下で、ダライ・ラマ14世の非暴力主義に船戸サンは否定的です。以下チベット。
「非暴力の周辺」"Periphery of Non-violence." 1988年週ポス。チベタンゲリラの息の根を止めるために中国は、まずコロラド州の山岳地帯で米軍による訓練を受けていたゲリラたちについて、まず米中コミュニケのボス交でニクソンに武器供給中止を諒承させ、それでも二年間は戦い続けたチベタンゲリラたちに対し、ネパール政府に圧力をかけ、ダライ・ラマから、ネパール政府に迷惑をかけないよう武装解除せよとの声明を引き出したと書いています。
それで、「チベット青年会議」という亡命二世組織を出し、この組織兵は高校卒業とともにインド国軍に入って訓練を受けるとし、インド陸軍が中国国境近くに配備する特別辺境部隊(SFF)の中核はチベット人で、一朝事あれば動くのはチベット人兵士。インド政府はその存在を秘密にしているが、それ以外にも、インド=チベット国境警察(ITBP)があり、その半数はチベット人によって占められているんだとか。さらにまた、「チベット青年会議」メンバーによると、中国は核実験場を西域南路のロプノールからチベットのナクチュに移動させたそうで、そういうのも踏まえて、船戸サンは、当時、誰とでも会うのでその価値がインフレのダライラマに会って、高評価の反対の評価をしています。ここは、チベット人がいかにダライ・ラマを崇拝しているかをちょっとでも知っていると、ええんかなあ船戸サンよ~、という気になるのですが、逆に、おおかたの当時の日本人の意見、ダライ・ラマって、いつも作り笑いしていて、なんかうさんくさいよね、を前提として読むと、喝采するのではないかと思われます。現実にはその後21世紀、中国がGDP世界二位になるような世界が実現したので、それぞれの民族の歩みは予想と異なり、より弾圧され自由を奪われる方向に進み、誰もそれを真剣に止められないという現状になっており、船戸サンはそれをチラ見しながら草葉の影にいかはったです。
「大クルディスタン構想の栄光と悲惨」"The Glory and Tragedy of the Greater Kurdistan Initiative"岩波「世界」1991年7月号。大阪都構想とは関係ありません。イラク、イラン、トルコそれぞれのクルド人の苦難について述べた小考で、イラクではクルド自治区を利用した密輸に従事して一攫千金を夢見、イランでは政教一致体制のもと民族独自性を主張出来ず(同じ回教徒なのにやいやい違いを語るなと言ったところ)トルコでは例のケマル・パシャ以来の富国強兵、国民国家(ネイションステイト)創設の概念から外れる民族(エスニシティー)の多様性を主張しているためしいたげられている、としています。クルド人地域にはもうひとつ、シリアがあるわけで、船戸サンはシリアのクルド人については何も語っておらず、当時はアサド政権のもと、まがりなりにも小康状態だったからではないかと思います。諸星大二郎『マッドメン』で、マサライと呼ばれる、最後の森の部族が、ほかの部族は山を下りてそれぞれ文明の恩恵に預かっているのに、なぜマサライは山を下りないのかと問われ、だからこそさと返す場面を思い出しました。だからこそ山を下りないのさ。さいごに降りるものが、いちばん大きな利益を手にするというからね。マサライの地母神談。シリアのクルド人は、いちばん最後に戦乱に巻き込まれた(ダーイシュのそれに)がゆえに、いちばん大きな利益を手にしたかというと、それどころか、いちばん貧乏くじだった、いちばん被害を蒙ったわけで、それは最近の地震でも続いているというふうに、暗示的に読みました。怖い話。
「聖夜に向けての銃弾」"Bullets for The Holy Night."エスクァイヤ日本版1991年11月号。カモッラはムソリーニのファシズム体制下で窒息寸前まで勢力を縮小させるが、ファシズム体制崩壊で息を吹き返したとか。なぜ在日イタリア人はナポリ出身者ばかりだったのか、は私が以前不思議に思っていたことですが、それだけ南北格差が激しくて、ミラノやトリノから日本まで活路を求めてやってくる人は少なかったのだろうと解釈しています。
少し寝かせたので、冷静に感想を書けたと思います。面白味はないですが。以上