アイヌ カッコ『アイヌの学校』長見義三 "Ainu School" by OSAMI GIZŌ 「北海道文学全集 第十一巻 アイヌ民族の魂」〈HOKKAIDO LITERATURE COMPLETE WORKS vol.11 The Soul of Ainu.〉読了

立風書房が昭和五十五年(1980年)に出した北海道文学全集第十一巻は「アイヌ民族の魂」をうたっていて、下記作品が収録されています。

『風に乗って来るコロポックル宮本百合子

『コタン』違星北斗

『若きウタリに』バチェラー八重子

『原始林』森竹竹市

コシャマイン記』鶴田知也

アイヌの学校』長見義三

『暗い砦』今官一

『対談・アイヌ』鳩沢佐美夫

『重い神々の下僕』三好文夫

解説 高野斗志美

北海道文学全集 第11巻 | NDLサーチ | 国立国会図書館

ツルツルページの本作関連。

装幀者ー栃折久美子

アイヌ学校」「土人学校」を検索すると出て来るのが「皇民化教育ガー」と「もちろんアイヌ語は教えられなかった」で、いわずもがなな後者をあえてきちんと書いておくという姿勢が、鮮烈でした。いわゆる民族学校ならその民族の母語教育をするのが当たり前と考えている人に、「実はアイヌ語も教えてたんですよ」と言ったら信じるでしょうから。なので、「学校」という単語のアイヌ語がはたしてあるのか疑問で、検索で出て来る萱野茂サンの文章も、アイヌ語の文章に「学校」だけ漢語の「学校」を交えたものです。ただ、田村すず子さんの方で、"kakkó or un iyokane" カッコ オルン イヨカネ「学校に遅れた」という文章があったので、使いました。

私は不勉強なので、松前藩が同化を禁じてたのを、明治政府になってから国防上の理由から同化を推進したのかなあ、ころころ変わるなあ、くらいの認識です。全集についてる小冊子に載ってる長見義三サン自筆の『「アイヌの学校」を書いた頃』という回想録によると、本作は昭和17年2月から3月にかけて書かれ、4月にパートナーのひとが発病、5月逝去、6月から7月に疎開も兼ねて長見サンは北海道に帰り、10月に版元の大観堂から出版ということです。パートナーの人がやまいに倒れてからは、2歳になる娘さんをかかえてのやもめ生活で、なんもひとりでやらなければならなくなったので、とてもこうしたまとまった小説は書けなかったはずで、そこから逆算した執筆時期。のちに再婚してると思われますが、ウィキペディアはそこまで書いてません。八木義徳サンと親交があったとは書いてあって、町田のことばらんどともつながっているのかと思いました。町田に「うたり」という焼鳥屋があって、隣の古本屋(もうない)には時々行ってましたが、うたりの意味は知らないです。

長見義三 - Wikipedia

長見サン一家は、大正後期にこの小説のモデルとなる勇払郡むかわ町の旧穂別町地区に、私鉄北海道鉄道延伸の好景気に伴って移住。

ホーム/むかわ町 - 北海道むかわ町公式ウェブサイト

穂別町 - Wikipedia

北海道鉄道 (2代) - Wikipedia

穂別駅 - Wikipedia

月報11 「アイヌの学校」を書いた頃

頁2

(略)川下のコタン(部落)には古くから住んでいるアイヌの人々がいた。(略)

(略)川下のコタンの人々は、神社の祭典や、青年の村内運動会などに、集まって来た。たとえば運動会などに現われた老人も子どもも、コタンの選手に異常なと思えるほどの熱心さで応援していた。彼らの選手の中に、一人長距離に強い若者がいた。道内の代表に選ばれる実力を持ってい、彼が一周も二周も他のものを抜いて優勝すると、彼らの一画は跳びあがり、歓声をあげ、踊り狂った。

しかし本作の題材となった累標(るべしべ)尋常小学校に行くようになり、教員の佐々木儀作サンの知己を得るのは、昭和七年に北海道農産物検査所の仕事をやめて早稲田高校に進学してからの夏季休暇、冬期休暇のことで、作中の出来事のモデルは佐々木儀作サン赴任以前の出来事だそうです。講談社文芸文庫『現代アイヌ文学作品選』*1に収められてる貝澤正サンの自伝(もとは岩波書店アイヌ わが人生』)で、隣町(といっても北海道なので広いですが)の平取の舊土人學校のリアルエッセーを読んだ上でこれを読んだので、現実は空想を凌駕するが、身も蓋もないので物語にしにくそうと思いました。シビアとかつらいとかそういう意味でなく、あまりに人間くさいので…

月報11 「アイヌの学校」を書いた頃

頁3

(略)コタン独自の風習は当時でも急速に風化していたが、それでもまだ赤ん坊を背負っているくらいの女の人たちでも、アイヌ語で会話しているのを見たものである。祭りには年寄たちが集まって、酒を交わし、民族の歌を合唱していた。

 もうその時は帰らない。(略)

ヘブライ語みたいに、死語だったのに見事に復活した言語もありますが、文字資料も豊富だったし、宗教儀礼での読み上げも絶えてなかったでしょうし、イディッシュ語などで語彙がたくさん保存されていたというのもあったと思います。少数民族言語はどんどん消えていってますので、かんたんなことは言えないんじゃいかと。

主人公は蘭毛重太郎、アイヌ名バロオといいます。名古屋グランパスで7年間プレーしたGKで、2024年末に退団した元オーストラリア代表ランゲラックとは関係ないようです。

www.soccer-king.jp

蘭毛サンの人となりについて、コタンに一戸だけある大和民族の家(むかしは駅遁所=商人宿)の、むかしはそれなりに商家を切り盛りしてたオババ、桂レンの言葉を借りると、「コタンの大久保彦左衛門、いや、コタンの一心太助」(頁122)だそうです。風采は「アイヌながら髭を生やしていないうえに頭が半分禿げあがっている」(頁131)で、字は読めないが軍隊生活を勤め上げ、漢語が特に分からず、「軍隊の符牒」だと思っていたとのことです。だが後年五輪代表にまでなった馬術教官の下で鞍なし裸馬乗りの名手ぶりを発揮したことで、一目置かれたとか置かれないとか。頁131。実は土地のアイヌでなく孤児で、自身も子どもが生まれなかったことから、六人も貰いっ子を育てました。頁143によると、六という数字はアイヌでは神聖な数字だそうです。アイヌ語というかコタンの言い方では養子のことをアンレスケポと言うそうで、国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブで「学校」を検索した時に、下記のような文章にも出っくわしました。

昭和10年代に平取村内荷負小学校の先生が病気で死にそうになった時の遺言に,もしも子供を里子に出すのならアイヌにやってくれと言った.アイヌは里子であってもいじめないのを見ていたからである(川上勇治氏の話)

しかし長男と長女に所帯を持たせ孫が生まれ、次女と次男にも所帯を持つことを期待するというのは、なんというかスゴいなと思いました。(その下は三男と三女)

桂レンの長男は所帯を持って農業を営み、次男は札幌に学問をしに行ってアカの嫌疑をかけられ、なかなか故郷に帰ってきづらい身。レン婆は長男が嫁をもらうまでは白髪染めをしていて、煙管で煙草を喫み、今でも畑には出ない人間です。

頁128

(略)座敷を生花などで飾り、河谷生れの百姓娘に作法にかなった接待の方法を教え込まねばならなかった。そうでないと、女中たちは爪垢を子供にためて平気でいたり、無恰好な体の重みをことさらあらわにして乱暴な歩き方をした。自分では叮嚀なつもりなのだろうが、田舎言葉を早口にやってのけ、怒っているのかと思われるほどなのである。こういう畠からそのまま来たような娘たちは、和人でありながら、アイヌ部落にある駅遁所のため、アイヌ娘と思いこまれ、不潔にとられるのであった。(略)

蘭毛バロオの次女ムメは大和民族で、それがために前の校長先生は、ふだんは今の校長先生よりずっとコタンよりの人物なんですが、やっぱりアイヌと婚姻はどうかと思っているところがあり、それでときどき起こる軋轢があります。河の渡し船の船頭も大和民族ですが流れ者で、アイヌ人の妻を持ったことで大和民族の村人と疎遠になり、アイヌ人からはなんとなく受け入れられ、「アイヌ訛のこもった力ない声で、独り言をいう癖があった」とか。この渡し守が、夏の夜、とっぷり日の暮れた川岸で、村で一軒二軒しかランプをつけないその灯りも消えた中で、じっと佇む頁133がいちばんよかったです。抒情がある。

今の校長先生とアイヌの仲が悪くなったのは、①校長先生がこだくさんで、村への酒のつけとどけの儀礼廃止をしたこと、②校長先生の育てる野菜や果物をどんどんバロオの子どもが盗んで、時にはバロオまでそれを食べて、なんとも思っていないこと、③学校でも頻繁に盗難が起こり、放置しておくと、盗まれた子が盗み返してなんとなく元のサヤに戻る、④バロオが、これは明確に嫌がらせで、家畜を校内に入れて芝などを食べさせてしまう。秋には家畜の豚が野放しになって、校内に入ってきてあちこちにふんをする、などなどがあって、校長先生はアイヌ学校の周りを鉄条網で被い、校門に家畜を侵入させないよう横木を渡すようになったという。

私の友人が前世紀末北海道を旅した時車が轍にはまってしまい、助けてくれた人が、「アイヌに気をつけろよ、アイヌはものを盗むからな」と言ったという話は前にも書きましたし、彼は関西人なのでそうとうショックを受けたのですが、またそれを思い出しました。さてなあ。頁219、北海道庁学務部長と道庁視学と支庁視学が学校を見学に訪れた際にも、校長先生は彼らの脱いだ靴を(よく考えたら日本は高校まで土禁ですね)職員室の中に並べたりします。「よくお客様方の靴が盗まれるものでございますから」と言って。

頁156

 この河谷地方では、父のことをハポといった。アイヌたちの大部分は母のことをハポといい、父のことをミチというのだが、この河谷だけはその反対だった。

なんでですかね。愛新覚羅溥傑サンと慧生嫮生サンのやりとりをNHKでやっていた時、満族と漢族の父称母称が逆転しているように見えて(慧生サンが溥傑サンへアマーと呼びかけ、溥傑サンも撫順からアマーは子どもたちに会いたいよと手紙を書いたりしてた)へええと思ったことがあります。満洲八旗の一族がひそかに北海道に渡って同化… ということはたぶんないです。

前半の山場は衛生指導巡回での啓蒙映画上映で、集まった村人の中に、大和民族アイヌ人だけでなく、たぶんコリアン、「半島人」がいることになっていて、へえと思いました。「実直な農民」(頁157)とのことで、アイヌ人女性と結婚した彼はなぜか「臭い臭いとアイヌたちからさわがれた」(頁160)とか。ギョウジャニンニクがある土地なのにと思いました。別の理由でしょうか。

頁169は、アイヌ語しか話せない老婆との会話の場面があるせいか、アイヌ語がちょこちょこ出ます。若者をヘカチと書いていたので、『若きウタリに』はヘカチウタリでもいいのかと思ったら、ヘカチは若者でなく子どものようでした。酒を飲むときに髭を挙げる箸をカンパシュイというそうですが、検索しても出ませんでした。イランカラプテは(今日は)と意味が書いてあって、検索すると、沖縄のめんそーれに匹敵する観光挨拶にしようというキャンペーンもあったようです。だから二風谷やウポポイに行って使う人もいるかもしれない。

キャンペーン概要 | イランカラプテキャンペーン

頁182にチャランケが登場し、「言い負けた方が非となる掟」とあります。下記の草風館の本の紹介では、やっぱり激しくまくしたてられています。

http://www.sofukan.co.jp/books/96.html

■「アイヌ・チャランケ」とはアイヌ語であり、日本語に解釈すると「談判・論争」の意である。アイヌ社会では「裁判」の役割を果す目的で「チャランケ」が行われていた。ある時は、三日三晩も断食をして、精神力と雄弁をもって行われたのであった。その遺跡「チャランケ・チャシ・コツ」(砦・跡)が、釧路市春採湖畔沿いに原形を残している。  
  明治時代になって、和人の移民人口が急速に増えつづけてからの、アイヌモシリ(国)は、北海道と呼ばれるようになると「チャランケ」の精神は、和人によって一方的に踏みにじられたのである。
 チャランケは「難癖」とか「いんねん」をつける、というふうに暴力的な次元の低い意味に使われ、言葉のもつ文化的な魂は、すりかえられてしまった。

本作でも、そうさなあ、といった感じ。手塚治虫『シュマリ』を先に読んどくと、正しい「チャランケ」理解から始められるのですが、しかし戰下手なので夜盗団にほぼ負ける。

頁186、バロオは禁酒宣言します。

頁186

 バロオは今までに、幾度も禁酒し、それを破り、くりかえして来たのであった。土人としての屈辱を感じると、彼はそれを酒のせいにして断然やめて見せ、自分の心がようやく平静になると、ささいなことに慶賀すべき理由をつけて、また吞みはじめていた。ことに呑みはじめの頃の呑みぶりが凄ごかった。渇えていたものが、水の上に襲いかかるように、くりかえし喜びの声をあげ、精神を失うまで呑んだ。

 部落のものは、吞むことにはなれていた。女も子供も濁酒をのむ習いがあったから、バロオほどの男としては当然の振舞にしていた。しかし、禁酒するということは驚異であった。禁酒を不可能事としている土人たちは、例い(たとい)一と月二た月にせよ、それを実行するバロオの精神に、彼等を圧倒する熱情を感ずるのであった。

蘭毛重太郎サンが禁酒をしたのは、学校が駅チカに移転すると聞かされ、反対するためです。蘭毛サンは札幌まで単身乗り込み、二泊してやっと道庁学務部長に面会出来ますが、借りてきた猫のようにおとなしくなって帰ります。靴の場面にあるように、実際に学務部長は現地視察に来てくれるのですが、蘭毛さんは使いから、役人が来て学校に来いと言ってるよ、とだけ聞かされるので、また血を採って検査するのかとかそういうふうに早合点して、家でフテ寝してます。昭和17年の発表で昭和7年の取材の本作でも、都会からやってくる連中は調査ばっかりして帰るという感じだったようです。

本作のオチはハッピーエンドで、これで勘弁してけさいみたいな感じで終わるのですが、現実には学校は移転して尋常小学校になったんだな、と小冊子で分かります。

ツェラン・トンドゥプという東北チベットの作家さんの小説に『ラロ』というのがあり(邦訳は勉誠出版『黑狐の谷』所収)蘭毛重太郎をどんどんダメにして愛される与太郎にした感じの、ラロという人物が主人公なのですが、ラロと作者が刑務所に入っている時に、漢人チベット人の混血青年に出会います。

頁177

(略)新参男は二十歳になったばかりの漢人チベット人の混血であった。名を趙ツェテンと言い、そこから推察するに、父は漢人、母親はチベット人らしい。趙ツェテンはチベット語は何とか聞き取れるが、話ができるほどではなかったので、会話はもっぱら漢語になり、僕はラロのためその与太話を通訳させられることとなった。(略)

「父の肉にかけて誓ってもいい」(これは彼が正しく発音できる数少ないチベット語のひとつであった)

bensei.jp

人口もちがえば文字の有無もちがいますし、多数派民族の考え方も異なるわけですが、やはり『ゴールデンカムイ』の頃、明治末期ならこのような状況もあったのかもしれないと思いました。ここから未来の話に飛ぶとして、どういう相手と話すかで、止まらなくなりそうですし、その気力もないなあと思いました。

toyokeizai.net

以上