紀伊国屋書店で「ペルー」で検索して出てきた本。80年代、どんどんペルーが経済的ににっちもさっちもいかなくなる中、ペルーの陸上競技指導に邁進したしとの自伝。福井県出身の方で、金沢大の教育学部を出て、金沢の別の大学に奉職中、最初は海外青年協力隊で休職派遣、それから国際交流基金スポーツ専門家派遣となり、最後はペルー教育省直接契約となるも、フジモリ当選前に経済破綻したペルーのハイパーインフレで勤務継続を諦め帰国。帰国後はひとまず八ヶ岳のJICA関連施設で働いた後、長崎の大学の国際交流課で働いたり、整体院を開業したりして、本書出版時の2023年は、古希なんですが、介護福祉施設で、スポーツコーチの経験を活かした人材育成に取り組んでいるそうです。公務員から団体団体へと渡り歩いたのなら、あまくだ… と思ってしまいますが、JICAとの関係は切れずとも、一貫して在野、民間畑で働いてきたのだから、ちがうのでしょう。
表紙は「ワカティナの合宿道場」だそうです。緑と水の多い合宿所なんだなと思うと、ぜんぜんちがった。

こんなところ。ヤバくないですか。周りは砂漠。リゾート地だそうですが、80年代はこういうところでスポーツ合宿も出来たのか。ウィキペディアによると、近郊のイカの街からタクシーか三輪タクシーで約10分とあり、ペルーにも三輪タクシーがあるのかと驚きました。
本書にはほかにも6ページ、カラー写真が載った口絵ページがあり、何も書いてませんが、たぶんぜんぶ著者提供です。中も写真多数。
プロジェクト・ヒストリー『ペルーでの愉快な、でも少し壮絶なスポーツ協力―国際協力をスポーツで』出版記念セミナー開催 - JICA緒方研究所
上の記事によると、本書は佐伯コミュニケーションズという会社が出している「JICAプロジェクト・ヒストリー・シリーズ」の第36弾ということで、それまでの35冊とこの後出た37冊目のタイトルを全部見ましたが、庄野護サンがあれほど熱く本*1に書いた、スリランカの青年協力隊は一冊もありません。庄野護サンほかのスラム開発事業などスリランカの海外協力隊事業は、立派な「JICAプロジェクト・ヒストリー」だと思うんですが、JICAスリランカ支局が入ってたホテルの隣が陸軍本部なので何度もホテルはテロの標的になっていた、なんて記事が飛び出すのは必然なので、JICA的には、黙殺するにしくはなし、なのかもしれません。だから古希を迎えた本書著者のペループロジェクトは本になっても、スリランカはまだ出ない、な~んてわけあるわけないじゃないですか、きっとそのうち出ますよ、このシリーズから、スリランカの青年協力隊の活動記録本が(棒
『ペルーでの愉快な、でも少し壮絶なスポーツ協力 国際協力をスポーツで』 - JICA緒方研究所
ペルーでの愉快な、でも少し壮絶なスポーツ協力 | 株式会社 佐伯コミュニケーションズ
巻末の参考図書、資料を見ますと、例の大使館人質事件の際のペルー大使だった青木盛久・青木直子夫妻の『されど我ペルーを愛す』読売新聞社1998年など、読んでみたいと思いましたが、近隣の図書館に蔵書がないので、少し考えます。また、山本紀夫という人の『インカの末裔』(NHKブックス)も興味があった。著者の綿谷サンがペルーで体育指導をするにあたっては、先行して成功した邦人スポーツ指導者の存在があったそうで、メキシコ五輪でペルー女子バレーボールチームを4位入賞に導いた加藤明サン*2がそれだったそうです。綿谷さんとセニョール・カトーとの出会いは、綿谷さんが下宿していた日系人オーナー光増サンが経営するペンション・ミツマスに直接アキラ・カトーがキャディラックで訪ねてきたところから。頁39。ペルー女子バレーボールは次の指導者に韓国人朴萬福(日紡貝塚大松監督の門下)が就任、1982年のペルー開催世界選手権では準決勝で日本を破ります。五万人の観客の地鳴りのようなどよめきと紙吹雪は、頁65。
頁182には、綿谷さんが加藤明さんの日本のお墓をお参りする場面があります。鎌倉の建長寺にお墓があるんだとか。
綿谷サンがペルーに到着した1980年は民政移管の年ですが、何かとドタバタしたようで、グアテマラで一ヶ月スペイン語を学習したのち、八月末に到着してペルー陸上競技連盟会長とスポーツ庁長官を表敬訪問した際には「よく来てくれた、よろしくやってくれたまえ」だったのが、両者ともに8月31日付で解任されてしまい、後任者は日本のJICAとの取り決めなんか知らん、帰れ、と、ムチャクチャな扱いをします。笑いました。さすが南米。そして、さすが白人以外への塩対応。ちなみに、八月末に解任されたスポーツ庁長官は、タンという名前の中国系の人物だったそうです。ちょっと調べようと思ったんですが、スポーツ庁にすら辿り着けませんでした。しかし、フジモリ大統領が政権をとる十年前から、閣僚にはアジア系含む少数民族系が入りつつあったんですね。イイ話。
頁25
リマでの第一歩、(略)セントロ(中央地区)の街並みを散歩した。驚き、意外だった。大統領府や教会など洋館がぎっしりと立ち並び、街路を先住の民が我が街のごとく闊歩している。スペイン風コロニアル洋館群に色とりどりの民族衣装、その風景がミスマッチではなく、自然な印象を受け唖然としたのだ。私の既成概念にない、あたかも超高層ビルの前に武士集団が陣取っている風景だ。おもしろい。どうして? というワクワク感がこみ上げてくる。この違和感をきっかけに(略)少しずつ知っていくうちにペルーが大好きになっていった。
マリオ・バルガス=ジョササンの小説にも繰り返し、コンキスタドーレスの末裔たちが仕切っていた街に、ケチュア語話者が徐々に浸透するさまが、ある意味黄禍論的に描かれますが、1980年よりもう少しあとのイメージだったので、この1980年のリマの描写はよかったです。もっとも、綿谷サン的にはリマはセンデロ・ルミノソなどのテロの標的になることも多く、貧富の差から来る犯罪もひっきりなしで、ほかにも「汚職」「麻薬」「人身売買」「暴力」などてんこ盛りの惡の根源のような街で、「呪われた首都リマ」と書いてます。頁58。
話を戻すと、朝令暮改のペルーでいきなり失職した綿谷サンは、モグリで毎日陸上競技場に通い、選手に個人的サジェスチョンを行い、一ヶ月後、大会でペルー新記録を叩き出した選手が「セニョール・ワタヤのおかげ」と答えたインタビューが新聞に載り、慌てた新会長が10月6日綿谷さんを呼び出し正式にコーチ就任を依頼、ぶじ仕事をおぜぜをもらうかたちで(ボランティアでなく)出来るようになったそうです。自分の前に道はなくとも、自分が歩む道は自分で切り拓くという、そのまんまですね。すごい話。
その後、綿谷サンはペルー各地を巡回興業というか、あちこち回って陸上指導しながらダイヤの原石を見つけるという業務に従事します。頁70はペルーの長距離バス移動。
頁69
長距離バスはリマを抜けると乾燥した土肌があらわになった地区を走り、ついに砂漠の中を縫うように進んで行く。砂漠に入ると家屋は一軒もなく、あたりは真っ暗。(略)バスのライトだけが前方の道を照らす。対向車もほとんどない。日本では考えられない、暗黒の中を走る。2時間程走ると橙色の点々が見えてきた。その点が徐々に大きく、複数になって、1つの村を通過する。そしえまた漆黒の中に突入する。途中一度だけトイレ休憩。(略)深夜にもかかわらず子どもたちが親と一緒に声を張り上げて捕食を売る。「タルマ(ちまき)」「プラタノ(バナナ)」「マニー(ピーナッツ)」と連呼。裸電球が少なく薄暗く人の顔がはっきりしない。15分休憩してバスは発進。運転手の「スぺ!(乗って)」「バモス(行くよ)」という掛け声で乗車する。(略)盗難、置き引きに要注意だ。自分の手から離れたものは誰の物でもない。置き去りになっているから拾った、ということになる。
上の「タルマ」は「タマル」の誤植だと思います。複数形はタマーレス。お菓子のアルファホールも複数形はアルファホーレスなのかな。ブラジルのフェイジョンみたいなもんですかと言うとペルー人が顔を真っ赤にして怒る「フリホーレス」は、豆一個のパターンがありえないので、単数形の「フリホール」とは呼ばないのか、いやでも呼ぶのか。(※私の以上の文章は"L"と”R”の違いが聴き分けられないので無視した暴論になっています)
Frijoles refritos - Wikipedia, la enciclopedia libre
地方巡業は陸上競技連盟会長の地元であるトルヒーヨという街からのスタートを命令され、綿谷サンは地元のテレビ局のお昼のコーナーに15分ほど出演することになり、現地の人々が通訳として探し出した、田中両蔵さんという熊本出身の飲食店経営兼日系協会日本語教師の人が来るのですが、綿谷さんが日本語の自己紹介をまちがえてスペイン語でしてしまい、とっさに通訳の田中さんはそれを全部日本語に訳すという荒業を見せ、視聴者から大爆笑オオウケ拍手喝采だったそうです。この田中さんは熊本出身というフリでもしやと思った人を裏切らず、藤森直一サンと同じ船でペルーにやってきたと後で書いてあります。藤森直一サンはペルー初の日系大統領、アルベルト・フジモリサンの御父君。
本書は綿谷サンのライフヒストリーですので、ほかにもときどき思いもよらない人名が登場します。綿谷サンは陸上の人ですが福井の中学時代はバスケもやっていて、さらに相撲人気が高かったので相撲大会にも出場し、のちの天龍源一郎サンに勝利したこともあったそうです。頁35。
地方巡業に話を戻すと、頁79、アレキパが出ます。クスコよりインカの残照と言うか、帝国の首都にふさわしい町並みだったとか(もちろんコンキスタドーレスが建設した町なのですが)アレキパから見えるミスティ山は富士山に似ていて、邦人なら誰もが望郷の念に駆られる山だそうです。

Misti - Wikipedia, la enciclopedia libre
どっちかというと浅間山では(ボソッ
頁80、綿谷さんは懇親会でサルサを踊る羽目になりますが、やはり邦人のかなしさ、「リズムに乗れてない」と一刀両断の評価を受けます。ここの、マリネラ紹介が非常によかったので、写します。
頁80
マリネラとはペルーの国民的伝統舞踊で、とても優雅な踊りだ。無形文化遺産に指定されていて、ブラジルのサンバ、アルゼンチンのタンゴと共に南米3大ダンスの1つだ。男女ペアのダンスで、男女とも白いハンカチを右手に持ち、6/8拍子のリズムで対面し交差しながら、あるいは肩を接しながら踊る。速い足の動きが注目される。ここトルヒーヨではマリネラ・ノルテーニャ(北部マリネラ)といわれている。ただ、マリネラを鑑賞するとなぜか私は悲哀を感じる。踊りの内容にペルーの歴史が詰まっており、インカの民の歩みが刻み込まれているような気がするのだ。
私はついつい忘れてしまうのですが、ペルーは南半球なので春夏秋冬が北半球の日本と逆で、クリスマスも正月も夏です。頁83はその風景。ペンション光増のおせち料理と紅白歌合戦視聴を、トルヒーヨで発見した原石第一号と堪能。原石第一号にとっては生まれて初めてのニッケイ体験。さらには日系ラ・ウニオン競技場という整ったスポーツ施設での練習で、環境の違いから原石は成長を見せる。
頁106、ボリビアのラパスで開催された陸上南米選手権へ参加。同じホテルに宿泊していたブラジルの日系人選手ナカヤサンとそのコーチのアキオサンの知遇を得る。
いったん帰国した綿谷サンは、1982年国際交流基金スポーツ専門家としてペルーを再訪。体育庁附設体育専門学校でコーチング理論、身体運動学、運動生理学を講義することに。この学校の校長も中国系で、ユイ・カスティジョという名前。綿谷さんをイロイロサポートしてくれたそうです。
頁125、陸上のワールドカップ参戦場面。国別でなく、大陸別のチーム、それも南北縦断のパン・アメリカンチームとして参戦したため、綿谷さんはベン・ジョンソンをマッサージするというものすごい展開になります。
頁125
(略)すると隣にいた選手も「自分もお願いしたい」というので、引き受けた。
ベン(ベンジャミン・シンクレア)・ジョンソンだった。疲労が溜まっている様子で、もみ返しがこない程度の強度で対応した。彼はカナダの選手だが、生まれ育ちはジャマイカだ。英語圏だがスペイン語も十分理解できるので会話には不自由しない。
彼の大腿筋をマッサージして実に驚いた。女性のウエストくらいの太い、発達した筋肉がとても柔らかいのだ。両手の親指で大腿三頭筋を押さえると、スーと中に食い込んでいく。通常、表面で固い、凝っている筋肉にぶち当たるのだが、その感触が全くない。なるほど、トレーニングでこのような筋肉をつくらなければならないのだと改めて認識した。(後略)
頁162、経済状況の悪化により辞職してペルーを離れる決断をする場面。ボランティアで無給で働き続けることは出来ないというプロの判断。この頃ペルーから日本へのデカセギが本格化しつつあったんだよなあとの思いと共に読みました。
綿谷さんはすぐには帰国せず、チリ国境から100kmのモケグア州イロという漁村にこもって、報告書を作成し、自身の気持ちにも整理をつけます。水道は一日三回、食事の時間にそれぞれ一時間だけ出るので、その時バケツを3つ用意して溜める。電気は日没前から22時までしか供給されず、停電も多い。下記の街ですが、ストビュー見ると、今でも相当殺伐とした町です。
ここで綿谷さんは全身まひの少女に、のちに整体院を開業することになる石原流施術を施し、回復させたそうです。そういうことも書いてある。
綿谷さんが帰国しても、指導陣コーチ陣の育成現地化を進めていたので、彼らがその役目を担って、ペルー陸上界はその後もたゆまず歩んできたそうで、2019年6月に綿谷さんはペルーを再訪し、教え子たちと再会してます。あの頃と今との大きな違いは、ペルーもモータリゼーションが進み、教え子たちはみな自家用車持ちになっていたことだとか。
頁195
彼らとセビチェをつまみにセルベッサ(ビール)を飲み、旧交を温めた。
ここで大事なのは、昔のペルーを知っている綿谷さんが、「セビーチェ」と伸ばさず、「セビチェ」と書いていること。「セビチェ」でいいんだ、無理にのばさなくてもいいんだ、と、私も決意を新たにしたことでした。
英題迄入れるとタイトル文字数を越えるので、ここにグーグル翻訳を置きます→ "In Perú, The Pleasant but a bit Fierce Sports Cooperation: International Cooperation Through Sports. " by WATAYA Akira (JICA PROJECT HISTORY SERIES)
以上