タプウフナク アイヌ イソイタク ネワ ヤイサマ『現代アイヌ文学作品選』川村湊[編](講談社文芸文庫)"Selections from Contemporary Ainu Literature." edited by Kawamura Minato (Kodansha Bungei Bunko) 読了

https://cv.bkmkn.kodansha.co.jp/9784062900799/9784062900799_w.jpgアイヌ三大歌人のうちふたりの著作を読み、最後のひとり森竹竹市サンのを読もうと思って借りました。したっけ、アイヌ関連で次に読もうと思っていた鳩沢佐美男サンも入っていたので、よかったです。

だいたいアイヌ文学のアンソロジーは、鶴田和也『コシャマイン記』など、大和民族作品含めた多民族構成になっているのが常で、「アイヌ民族の出自であることを明らかにしている筆者たちの作品」だけ(編者川村湊による)というのも冒険に思えましたので、それもあって手に取ったです。

グーグル翻訳がまだアイヌ語に対応してないので、表題のアイヌ語は国立民族博物館アイヌ語アーカイブと公益財団法人アイヌ民族文化財団の単語リストを参照しててきとうに書きました。

「タウフナク」は二週間程度の時間軸で「つい最近」を指すことばだそうなので、現代の意味じゃないなと思いましたが、歴史的過去、例えばシャクシャインの時代と対比した現在を指す言葉が分からなかったので、使いました。口承文学の民族だったことと「現代」を意味する単語が見つからなかったことと関係あるのかないのか知りません。

「物語」は「イソイタ」と「「ウウェペケレ」の二つが出ました。後者は有名な言い方ですが、伝説やおとぎ話も包括する単語らしいので、前者にしました。詩や俳句、短歌、弔辞を「ユーカ」と言ってしまっていいのか分かりませんで、「即興歌」の意味の「ヤイサマ」という単語が見つかったので、それに飛びつきました。

「現代アイヌ文学作品選」既刊・関連作品一覧|講談社BOOK倶楽部

デザインー菊地信義 巻末に編者解説、林芳郎サン作成の著者紹介、アイヌ文化史年表がありますが、かんじんの林芳郎サンが何処の誰だか分かりません。検索しても出ない。川村湊という人は、検索して今回初めてこの人も法政大学なんだと知った以外は、まあ、満州など外地文学をやると必ず出てくる人なので、私にとって不思議はありません。むしろ、池澤夏樹サン編でなくてヨカッタカナと。巻末には、それと、各種底本と、原文の何を変え、何を変えなかったかのルール記載。

ぜんぶで九人登場しますが、四つのパートに分かれています。知里姉弟から始まり、アイヌ三大歌人が出て、鳩沢佐美夫の小説、さまざまな活動を行った三人。

トップバッターは、この人しかいない、という知里幸恵。私がいつ登別や旭川に行けるのかさっぱりさっぱりですが、編者の考える「現代アイヌ文学」を十二分にその身で体現していた。

川村湊サンによると、1995年から出版された岩波講座日本文学史は第十五巻に沖縄、第十七巻にアイヌを置いた画期的な企画だったが、アイヌは口承文学のみ収めていて、だいたいどの言語でも近現代に発足する言文一致体文学(日本なら二葉亭四迷スタート漱石鴎外のアレ、東海道中膝栗毛南総里見八犬伝はギリ文語でその黎明以前)が入っていませんと。今なら動画サイトがてんこ盛りで、言語問わず、エックス(舊ついった)で文字発信するより動画で音波でべらべらまくしたてたほうが相手に刺さる時代になりましたので、口承文芸のままでもイイのかもしれませんが、でもその前に、アイヌにも近代文学の時代があったはずでしょと。一度そこを掘り下げて集めてみようよというのが本書。

川村サンはふれていませんが、1970年代などにもあった「北海道文学全集」に各種アイヌ文芸者の作品が収められることはあったです。しかしそれは、大和民族に属する鶴田和也や長見義三の作品も一緒に収められた一種民族横断的作品集ともいうべきアンソロジーでした。それはそれでアリだけれど、それだけしかないと、やっぱちょっと違和感じゃん。アイヌを自称した者たちだけのアンソロジーがあったって、いいでしょ?

で、そうなると、なぜそれを日本語で書くの? アイヌ語で書けばいいじゃん、という意地の悪い見方が出てくるわけですが、たとえばそれを、中国の少数民族作家が漢語でしか作品を発表しえない現状に対しノー天気に無知がそうした質問を投げつけたとしたら、背景も何もしらないくせにと私は絶対怒ります。理由があって漢語で作品を発表している人もいるわけですから、同化原理主義ハンターイと言ってそれで終わりにするわけにはいかない。牧田英二サンが日本語訳した中国少数民族小説はすべて漢語のものですが、だからといってその輝きが失われるということはない。アーライ阿来之《尘埃落定》がダメ、ザシダワ扎西达娃がダメなチベット文学なんて、ありえないでしょ? 其の執筆言語を根拠に民族文学を恣意的に壟断するなど、あってはならないこと。警戒すべきは内容におけるプロパガンダ、それだけでいい。

もうひとつ、少数民族言語だけで「書かない」メリットはあって、少数民族言語と多数民族言語りょうほうでひとつの作品を書く、作者がひとりで訳し下す作業になるわけですが、そうすることによって、作品は多数派言語人口の読者も当てに出来るようになります。ソルケー・モー*1というメキシコのマヤ語作家サンの創作状況について、訳者のひとがそう書いてました。マヤ語というローカル言語で書くのみならず、それをスペイン語化して両文併記で出版することで、ソルケー・モオは広範なスペイン語文化圏全土に読者を持ち得た。これは、私が、何人かのチベット人作家の作品が漢語訳されて両文併記で中国で販売されている現状を見ても思うことです。これまではアイヌ語文学に対してそういう視座はなかったかもしれませんが、今後は①動画の世界で音声としてアイヌ語を展開(すでにウポポイ等でやられていること)②作品を話者人口の多い言語と併記出版してその話者世界の読者をあてにする(もしそれがロシア語とアイヌ語、漢語とアイヌ語で、内容が完全に日本に弓引くものだったらその批判者側に私が入ることもあろうかと思います。呵呵呵)オナクラクンのようにまったく活字を読まない邦人を見てると、併記する言語に日本語を選択するのがよい方法かどうか分かりませんが…

どうでもいいんですが、私の日記のアクセス上位が、ヒサエ・ヤマモトサンの英文小説の、原文と邦訳を引き写した箇所のある読書感想だったりするのも、それを裏付けてると思います。英語と日本語両方で攻めると意外や意外(もしくはどこかの英文科大学のチート教材として使われてるのかもしれませんが)

知里幸恵サンに話を戻して、だから、彼女のパートは、コンカニペシロカニペランラン、の神の祝詞序文と現代語訳ユーカラ一篇だけでなく、例の日記の一下りも収録されています。この日記の引用がかなり長い。えっ、まだやるの、って感じでした。岡村千秋という人との有名な論争場面、内地にいるんだからアイヌという出自は隠した方がプラスにならないか、に対する、私はアイヌだ、口先だけシサムと言ったって、アイヌであるという真実には変わりがない、偽りのエスニシティ―をまとって、それでどうなるのだ、だいたいシサムを名乗らずアイヌを名乗ったら、それで劣ったことになるのか? ならない。ならいいじゃないか。という火を噴く部分で〆ていて、確か私はこの部分、感銘は受けたんですが、アジテーションぽいので、引用はためらった記憶があります。でも今日記読み返したらチャンと引用してた。岡村という人は下記の人でしょうか。謎です。

kotobank.jp

stantsiya-iriya.hatenablog.com

次は実弟マシホサン。アイヌ語の専門的な考察と、それから金成マツサンの晩年についてのエッセー。「チえ」"chiep"と「ちェ」"chep"のちがいについて、「( ´_ゝ`)フーンそれがなんなん?」というのをえんえん続け、現世に顕現したカムイはすべて化身という概念紹介までした上で「チ」"chip"というまた別の単語を出し、バイリンガルだけがクスリとするというオチです。この落ちに笑える人口がまた上昇カーブに転じる日が来ますように、という地の底からの祈り。なんとなく私は、アイヌ現代文学を謡うなら、閉山した筑豊炭鉱から採集された『地の底の笑い話』的なものが多くなるのではと思っているので、こういう表現をしてみました。マシホサン(全然関係ないですが岡野玲子サン『ファンシィダンス』のヒロインはマソホサン)のこのエッセーは、当時のマシホサンの主張を反映して、日本語が我々のティピカルな日本語でなく、「てにをは」を「てにおわ」で書いてるそうです。「へ」も「え」で書いてる。川村サンは、短歌ならそのままにするけど、散文は現代仮名遣いにしたいと著作権継承者にお伺いを立てて、「こんにち、どちら?」「帽子買いに」を、「こんにち、どちら?」「帽子買いに」みたいな文章にしてます。頁276。

次がバチェラー八重子サン*2 川村さんもカムイ=万世一系の現人神=天皇陛下、という金田一京助サンの解釈に異を唱えてますが、私としては、岩波現代文庫和光大学名誉教授の村井紀サンが異を唱えてないだけでじゅうぶんですので、ぞんぶんにこういう文学の内ゲバはやってけさい、と思うだけです。カムイ=万世一系の現人神=天皇陛下という概念が階級闘争史観マルクス史観のカムイ伝を打ち砕いて、第三部を描かなくさせた、のならさらに痛快ですが、じっさいは印旛沼であそびすぎてサボってただけだろうしなあ… 白土三平が。

次が違星北斗サン。この人に関しては、この人の角川ソフィア文庫の感想でたくさん書きました。角川ソフィア文庫が歌集を出してるというのがすごい。ガッチャキ!キトビロ!ケマフレ!

stantsiya-iriya.hatenablog.com

次が三大歌人最後のひとり森竹竹市サン。違星北斗サンも「はしたないアイヌだけれど日の本に生れたことの仕合せを知る」なんて自虐的な歌を詠んでますが、森竹サンも、外見は白髪三千丈のエカシ然とした人物にまでなったのに、「同族の同化向上に喜びの心躍るを禁じ得ない」と歌集の序文に書いてたりします。

視察者に珍奇の瞳みはらせて「土人学校」に子等は本読む

「舊土人保護法」が「アイヌ新法」に変わったって理解でいいのかも不明な状態で、ここに蕃人公学校のウィキペディアを貼ろうとする私。違星北斗さんは「朴烈や難波大助アイヌから出なかった事せめて誇ろう」と歌ってますが、森竹サンバージョンだと下記です。

ウタリからガンヂー出でよ耶蘇出でよ殉愛の士が一人出たなら

この「一人」が誰なのかの注釈は本書にはないです。

ウタリ等の為にも君の禁酒をば喜ぶと云ふ師の便り来る

師が誰なのかは不明。

ウタリ等よ酒だけ止せと幾度叫んだ俺は何だ此のざま

でもけっこう長生き出来たんじゃないでしょうか。上の歌は1937年刊行の歌集で、下の詩は1966年の詩。

これでいい! これでいいんだ!!

アイヌの風貌が

現代から没しても

その血は!

永遠に流るるのだ

日本人の体内に。

川村さんは「彼の持論」と書いてますが、森竹サンなりの同化敢行論なんだろうなあと。問題は最終的に解決済ですという。「血」の話をやられると、金城一紀サンの『GO』を思い出したりして。(私は『GO』は逆にあちらの両班の選民意識の強さを表わしてると思ってます)

次が鳩沢佐美夫サン。草風館から『沙流川』という遺稿集が出ているわけですが、なんで版元が週刊金曜日のこんな評を載せてるんだろうかという。

http://www.sofukan.co.jp/books/81.html

■1996.04.05■週刊金曜日

民族の行く末を案じた若きアイヌの魂の叫び
川上 勇治

(略)1986(昭和43)年まで佐美夫君と私のお付き合いは続いていたが、この年の秋突然不仲になってしまった。(略)「いや-川上さんを見そこなっていた。川上さんは僕らの同志だと思っていたのに、二嵐谷の連中と同じことを言う。そんなことを言っているから、(略)その剣幕の凄いこと、まるで座敷犬のスピッツ種が吠えたてるように痛い言葉で噛みついてくる。(略)萱野さんは笑いながら言った。――「勇治さん、俺たちと佐美夫さんとは境遇が違うんだよ。君も俺も小学校を出てすぐに造林人夫・測量人夫で手に汗して働いて家族を養わなければならなかったから、生活の苦しみは十分味わっているが、佐美夫さんは少年時代から病弱で母覿の庇護のもと、病院で療養生活ばかり続けていた人だよ。だから生活苦なんて知らないんだよ。病院で書物や新聞など読んだだけで世の中を知ろうとしても、それは無理だよ」。  

アイヌであることを公言しつつ文筆業で身を立てようとしたが、36歳で夭折した人です。写真を見るとベレー帽をかぶっていて、おまいも文化人気取りかと思いました。農民哀史の渋谷定輔もベレー帽だし、私のようにベレー帽と言えば大きな眼鏡と団子っ鼻の手塚治虫しか思いつけない人には酷です。女性と手塚治虫以外ベレー帽をかぶってはいけない大統領命令に明日トラソプサンが署名してくれないかなあ。

頁172『証しの空文』「祖母の神様」

 バスは国鉄駅に着いて、(略)それでも私は、祖母の手を曳いて列車に乗り込んだのである。一歩踏み入ると車内の眼がいっせいに私に集まった。私は来たな! と思った。が強いてそのような意識を持つまい、と自分を叱った。列車内の祖母はじっと眼を瞑って、手で口元を蓋っていた。そうすることによって、手の甲から腕にかけてのシヌエ(入れ墨)はまる見えであった。そのせいか、私はずいぶんと不快な光景に衝き当たった。

 ある乗り換え駅であった。(略)男たちが「おい、あらアイヌ……」「ほう……」「俺本物のアイヌ見るの初めてや……」(略)私はよほど、ここにも本物のアイヌが居りますよ、と名のってやろうかと思った。

この小説はたぶん鳩沢サンの代表作で、祖母の思い出を縷々書いてます。祖母はオニギリが握れなかったこと、山鳩の鳴き声を鳩沢さんがデデッポッポーと言ってると、あの音はクスエツ・トイタ、クスエツ・トイタと聞こえるんだ、あれはトイタチカップだと言われたこと(別にだから鳩沢サンというペンネームを名乗ったわけでもなく実名)戦中食糧難の時は祖母の山菜取りにずいぶん助けられたこと、etc. etc. 

左は森竹サンの歌集表紙で、右は最近公開された、江戸初期の松前藩の交易を描いた映画のサヘル・ローズサンですが、こういう人が電車に乗ってくるわけですから、ちょんまげの男性が二本差しで乗ってくるよりさらにインパクトがあったのでは。サハラ以南のアフリカ人男性が半裸で槍持って乗ってくるとか、ピストルに実弾装填して安全装置外したカウボーイが乗ってくるとか、いろいろ比較はあると思います。チマチョゴリやシャルワールカミース,旗袍は実際に現代でも着られる服だからそういう意味での比較はないでしょうが… ちなみにこの映画は、大和民族の既婚女性も眉を抜いて(たぶん剃っただけだと思いますが)お歯黒みたいな習俗を忠実に再現してくれているはず。アイヌだけだったら片手落ちなので。大和民族も再現しないと。

natalie.mu

戦後あちこちで雨後の筍のように出現した新興宗教のひとつを祖母は信仰していて、その地に行くのですが、「高山の神様」とあるだけで、場所などは分かりません。検索すると、岩内郡という、日本海に面した積丹半島の下の方に「高山神社 閉業」というのがありましたが、そこかどうか分かりません。下は2012年4月のストビュー。

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下は、祖母の葬儀の場面。

頁184『証しの空文』「証しの空文」

 翌日、チカルカルペ(模様縫いをした礼服)で被われた祖母の遺体は、北向きにのべられていた。首からは玉サイ(首飾り)が、耳からはニンカリ(耳環)がかけられてあった。顔面はナンカムツ(白布)で被い、額はチバヌブツ(黒い鉢巻)で、きっちりしめられている。生前から、「オムラの晴着だ……」といって、支度していた物で祖母の門出が飾られた。死んだときそれらの物の整っていないことは、老婆としての恥辱である。祖母は他に、ホッツ(脚絆)やテクンベ(手っ甲)なども用意してあった。

脚絆と手甲なんて、日本仏教の死に装束じゃないですか、と思ったら、鳩沢さんチは日本仏教でした。また、「オムラ」を「オラ」だと空目していたので違和感なかったんですが、よく見ると「オムラ」なので、元鞠の代表DFじゃないし、なんだろと思ってアイヌ語単語一覧検索しましたが、「むら=コタン」しか出ませんでした。オムラ、なんなんだろう。ミムラなら舊女優名ですし、ムッシュムラムラならあれなんですが、オムラはほんと元鞠の代表DFくらいしか。

頁184『証しの空文』「証しの空文」

 戸数七十の小さな部落に、いまでは三分の一ぐらいしかアイヌと呼ばれる人びとはいなかった。私が幼いころ二十名近くいた古老たちも、年々歿して、いまでは祖母の弔いに顔を見せた三人の老婆を残すのみとなった。比較的恵まれた生活をする者の多いこの部落のアイヌ人たちは、風習や生活に至るまで一般化して、純然たるものは全く形を潜めてしまっていた。

 以前に、部落でも豪農の部類に属するアイヌ人の家で、古老が亡くなったことがあった。そのときこの豪家は、宗派を法華から禅宗に切り替えて、その野辺送りを営んだのである。この部落のアイヌ人たちは、皆法華経信者であった。それがこの豪家の体面を傷つけるからであった。(略)

その頃から、ライチシカリと呼ばれる、別に人を雇うわけでなく、縁故の老婆が泣きとおす行事がうとんじられるようになったのだと。泣き女はアジアあっちこっちにあるわけで、それ専門に泣いてお金をもらうのとはちがうアイヌの行事が、なぜ嘲笑われるのかよく分かりませんでした。村の有力者のひとりが、喪主の長男である鳩沢さんに、参列者も多いのだから、あれ(三人の老婆の慟哭)をやめさせたらどうかと言ってくるのですが、鳩沢さんは、最後なんだから、いいでしょうと止めません。出来る人がいなくなったら、再現不可能なふるまい所作。最後だから、いいでしょうと。

その後、鳩沢さんは、祖母が呼び屋に呼ばれて静岡などで実録・アイヌの見世物に出た時に、払われなかった賃金の空手形をみせられます。あとできっと払います、的な。皆行かなくていいと言ってるのに、小銭稼ぎなのか、いそいそと行って帰りの汽車賃もない状態で放り出された日々。

こういう小説です。アイヌ語で書かれなかったですが、日本人向けに方便で日本語で書かれた気もします。ぜんぶカタカナで書くのが煩わしくなければ、鳩沢サンはアイヌでも書けた人なんじゃないかなあ。で、これがもしロシア語や漢語で書かれたもので、それを邦訳で読んでたら、どう感想を抱いていたでしょうか。なぜ日本語で書かなかったのかと強く思ったかもしれない。

次は山本多助サン。写真を見るとこの人も長い髭。この人は一族が釧路に強制移住させられたそうで、若いころは力仕事を転々としていて、ソ連沿海州に渡って現地のアイヌと出会ったことで民族関係のタスクに目覚めたそうです。講談社文芸文庫収録の『言葉の源泉を訪ねて』は北大図書刊行会1991年刊『イタ カシカムイ』(言葉の霊)収録作品。言葉の源泉を尋ねて森に入り、火をおこして野宿していると、高野聖というかリップ・ヴァン・ウィンクルというかという話。

頁201

 この広大な原始林の山中に人がいるとするならば、昔からアイヌの間に語り継がれてきた裸族のオササンケ族かそれとも穴居族のコロボックル族か。いずれの人々でもよいから会って話をしてみたいと思った。(略)

出た!先住民族、という感じで、例の「後発侵略民族・アイヌ」論に揚げ足取りの引用されてる文章かしら、と思って「オササンケ」ということばを検索しましたが(私も初めて聞いたので)ウェブでヒットするのが宮下英明サン『"アイヌ民族" 否定論作法』pdf版だけで、それも結局薬局山本多助サンが『釧路アイヌ系図と伝説』という文章で発表した「オササンケ・カムイ」に関する記述です。山本さんの姪っ子のチカップ美恵子サンが『森と大地の言い伝え』(2005年)北新に採録再録したのを宮下サンが見つけたようです。今ならまだ肯定派のひともろくすっぽオササンケについて発表していないので、「オササンケはキロランケ*3、チャランケ*4と並ぶアイヌ三大ンケーであり、ほかにインドネシアのラッサッサーヤンゲーが松任谷由実によって録音保存されている*5」くらいのイキオイで言いたいホーダイやってもいいんじゃいかと思います。フゴッペ遺跡はオササンケでしよ、とか、ならぬものはなさぬものですオササンケ、とか、オササンケい新聞とか。

チカップ美恵子 - Wikipedia

アイヌ先住民論に対するアイヌ後発・侵略民族論はビッグコミック連載の『宗像教授世界篇』にも出て来て、宮下英明サン『"アイヌ民族" 否定論作法』も参考にしたのかなあ、アイヌがいないなら(定義出来ないなら)モンゴルがアイヌに混じってても分からないよね、というカッキ的な論孜を展開していて、平和的な先住民社会に中世、好戦的な別民族が侵入し混淆、ラージプート族のような新民族を形成、それが現アイヌであるというもので、海を怖がるはずのモンゴル人たちが手漕ぎ船で大挙して外海を北上、北海道に到達するさま(家畜を同伴出来るような規模の船ではないので馬などは連れて来ず、また帆を利用する葬法の船でもない)が描いてあって、想像力の翼をはばたかせるにもほどがあると思ったものです。『宗像教授世界篇』はブリヤートモンゴルの描き方もヘンで、どっちかというとモンゴルに何か遺恨があるのかという感じですが… 

同化の結果というか、アイヌ固有の生活習俗の喪失がほぼ完成し、それがゆえに却って自己のアイデンティティとしてアイヌを過信、偏重せざるを得なくなった時代が本書の最後の三人の時代ではないでしょうか。鳩沢さんの小説で、埋葬に使用するチクベニ(槐)の鬼皮を剥いだ木材の上部を丸く加工し、太いウトキアツ(黒縄)を巻くその順序を誰もが忘れてしまっているくだりと、巻末の「アイヌ文化史年表」に見える1961年北海道アイヌ協会北海道ウタリ協会と改名し(ふたたび北海道アイヌ協会を名乗ったのは2009年)風雪の群像が1970年建立され批判を受け、無関係の東アジア反日武装戦線がそれを爆破しにやってきて1972年10月に爆破したりと(1977年修復)プロレタリア文化大革命日本支部大・活・躍!!!って感じで、何を以てアイヌを名乗るか、奪った側がやいやい云うな等、何もかも中国の少数民族問題を日文に翻译して出てきたセリフのようなものにさっしがつき過ぎました。1973年には砂澤ビッキの名前も出て来ますし、伊達火力発電所反対との連帯みたいな言葉も出て来て、政治の季節だなあと思ったことです。ザオ・ファン・ヨウリー、グー・ミン、ウーズイ!!!早饭,有力。股民无嘴!

風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件 - Wikipedia

http://www.hongoshin-smos.jp/coll/coll_19.html

年表の1974年アイヌ訪中団(まだ文革期バリバリじゃナイデスカ)について検索すると、下記和光大学リポジトリが出ました。書いた人はモンゴル人のようです。

アイヌの海外交流と民族の復権 1970年代のアイヌ中国訪問がもたらしたものムンクルジルガラ Mongkjargal  和光大学リポジトリ

社会党のパイプを通して廖承志サンに打診して実現したそうで、事前にウェンホイバオの記者たちを二風谷に招待したこともあり、廖承志さんもアタマ痛かったと思いますが(ウチが文革まだ正式に収束してへんの知っとろうが)(だいたい中国共産党自民党としか話はせんのんじゃ、社会党は野党じゃろう)先に接待されてしまってるので受けたんだろうなあという。日方はオロチョン、エヴェンギ、モンゴル等の少数民族と交流したいという要望があったのですが、まあこんなのすげなく却下で、かわりに北京の中央民族学院のよいこたちと交流出来るというボーナストラックがありました。年表では割愛されてますが、1976年にも第二次訪中団が組織され、延辺朝鮮族自治州迄行ってます。延辺には満族などもいるのですが、さてどこまで交流したのか。今だと中国のネット愛国者たちがチベットウイグルへのカウンターとして北海道のアイヌ、沖縄を盛んに書いていて、オロチョンやエヴェンギほどの自立、自由がベイハイダオのアイヌー民族にあるのか(いやない)などと煽ってる時代ですが、文革終了前夜は斯くも時代が違った。

ちなみに宮下英明サンはスターリンの民族定義をまったく知らなさげで、それだから1989年の学会の見解を完全に誤読してます。数学者は数学で遊ぼ! ってしてるだけでよかったのにorz 民族定義には自己同一性という要素がなぜ大切なのかこれほど無理解なのに突っ込んでくなよ、という。円周率でもフェルマーの定理でもずっとやってればよかったのにな~。本来の専門分野ではとっくに行き詰ったんですかねえ。ハブられてるわけではないと思います。外見上まったくロシア人と変わらないタタール人など、センセイがどのように詭弁を弄してくれるのか興味が尽きない、の反対です。どうでもいい。

頁203

 待てども待てども顔を見せてくれない男たちは裸族のオオサンケ族であった。私は研究していたので、裸族の音声信号も解読できた。(略)

山城新伍が「メルヘンですねぇ~ファンタジーですねぇ~」と言いそう。

頁207

 彼らの話を聞くと、この人々は「コロポックル」とアイヌ族が名づける一族であった。二人の長老のうち一人はコロポックル頭目で、いま一人の長老はアイヌ族が父親で母はコロポックルだという。したがって、私との会話にはなんの不便もない。

 コロポックル頭目がさらに語るには「私たちの遠い祖先は、年中、裸で暮らす常夏の国から魚群を追っているうちに風に押され、海流に流されて、この国に到着。(略)私たちの遠い祖先がこの国に流れ着いたそのころには、すでに多くの先住民族がいたと伝えられています。(略)

コロポックルコロポックル族と書かないのに、なんで「アイヌ族」って書くのかなあ、とか、いろいろ思います。伝統文化にフタをした後は、謎の特殊技能、超能力が民族の証しとして出て来て。「陋習と笑った側(=大和民族)が言うなや」

次は貝澤正サン。この人は平取という地名の人で、戦中は満蒙開拓団満州に行って疲弊して帰国、戦後は農業で成功して「成功したアイヌ」のひとりになるが、二風谷ダム建設反対運動に萱野茂サンとともに中心人物として関わり、その中で逝去とのことです。

貝澤正 - Wikipedia

岩波から自伝が出ていて、このアンソロジーにはそこから父母の思い出と、「舊土人學校」の思い出が抽出されています。元の自伝は近隣の図書館にはないかったです。他館本リクエストですぐ回ってきそうですが… 

フチのこと』「父は学校で受けた教育で、先生の影響を受けて日本人化した代表的なアイヌとなった。天皇を崇拝し、日本民謡を唄い、晩年には、酒が入ると軍歌「戦友」をうたい自己満足していた。父の先生は、元士族で封建制丸出しの教育者であった。この老先生から私も六年間学んだ。先生の教えは絶対と信じていた。先生の教えを守り、早くシャモ化して行く子供がほめられて、得意になっていた一人であった」その一方で、貝澤サンの母はアイヌの家にもらわれてきた大和民族の養女で、もらったアイヌの家は「赤貧洗うが如し」だったそうです。「父と母とを対照すれば、父はシャモ的、母はアイヌ的であった」「母の血の中にはアイヌは入っていない。だが母を育てたアイヌ社会はすばらしいアイヌメノコを育てた」(頁225)いつも一歩下がって夫唱婦随がアイヌ的というならアイヌ的なんでしょうが、大和民族的でもあります。アイヌの生活儀礼に詳しかったという意味でそう言うなら、それは当たっています。そして父親の脱アイヌ的動きは、そのまま下の世代に引き継がれ、具体的な地に足の着いた生活(収益面からも再現不可能)より、抽象的な少数民族者としての自覚に重心がおかれるようになったかと。貝澤サン自身は「結論として「宗教は阿片だ」と説いた学者の意見が正しいと思うようになった。そのことは、アイヌの信仰である天地自然すべてが神だという宗教観に不信をもつことにつながった」人間として形成されたとか。世の中こういうアイヌの人ばかりだったらカムイ伝第三部は描き切れたのかも。

「舊土人學校」に學んで』父親の項でもあるとおり、定年間近のでっぷり太った元士族の先生ひとりしか教師がおらず、その先生ひとりで六十人の生徒を教えており、日本は教科書が無償ですから(ということは戦後の話かな)教科書だけ配布して、地理歴史理科唱歌図画は何もせず終わったとか。ときどき習字、算数は半分程度しか進まず終わる。監督官庁の視察もかたちだけ、「アイヌは文字で記録する習慣はなく」どういう教育が日々行われていたかの記録もなし。校舎自体は1892年萱葺き、1897年木造柾屋根、1911年本州建築そのままの耐寒性のない校舎、1954年「コタンの子どもにはぜいたくだ」という地元有力者の意見をはねのけてアイヌ父母らが自費で(公費は木造予算のみ)水道水洗便所コンクリブロックの耐寒校舎を建てて新聞に載ったほど、何回も建て替えています。たぶん時代的にもアイヌ利権なし。

この元士族の先生も、二十歳で赴任した当初はアイヌ教育に情熱を傾けていたとか。しかし手紙の代筆から役場交渉のアジャスト、名付け親になったり、腹痛やケガなどへの医師に代わっての処置、役人がコタンに来た時の接待宿泊アテンド、などなどに忙殺され、次第に授業はその片手間となり、子どもはかくほったらかしになったそうです。貝澤さんの父親は日本化したアイヌなので、老教師の排斥運動を展開しようとしましたが、とにかくみんな教え子なので温情から実現せず終わりました。

頁230

 アイヌ児童の数は圧倒的に多かったので、子どもの間では何もなかったようです。ただシャモの子どもは身なりもきれいにしているのと、昼食の弁当がアイヌはヒエかキビなのに、白い米なので違うのだなあと思いました。

(略)

 私が晩年気がついたことですが、先生が同級生のシャモの子どもを前に並べて「お前たち、しっかり勉強をしていないからアイヌにまで負けるのではないか」と説教していました。その時は私たちは得意になって聞いていましたが(以下略)

こうやって叱咤激励することも差別の素因と貝澤サンは言いたいのでしょうが、不公平な勝負しか出来ないような惡ルールを作られたり、逆に勝ったアイヌの子に体罰を加えるような無茶苦茶でない分、軽いと思いました。

最後は萱野茂サン。参議院議員サンを一期務められたです。

萱野茂 - Wikipedia

この当時八重山で会った女性が二風谷で萱野さんに会っていて、その女性は北海道の鮭工場や沖縄のキビ刈など、全国で働きながら自転車水彩画スケッチ旅行を続けている人だったかな、もともとは滋賀でカップヌードル工場で働いていて、熟練のオバチャンたちが一掴みで正確なタマゴや肉の数を把握してカップに散らして、チェックオッケーで機械がフタをするライン作業職人芸を競い合っているのを見て、そうやって人生を過ごしたくないと思った人だったらしいです。二風谷と萱野サンにはその人格やら思想やらにスッカリいかれて傾倒し、思慕していました。「あんなー、聞いて聞いて、アイヌ大変やってんて!」たぶん杉田ミャクミャクサンが、私はそうやって洗脳オルグされたくないと勝手に妄想して怯えてそうなタイプ。

左は頁287解説の写真。1997年、二風谷ダム訴訟一審勝訴を受けた記者会見の写真(提供者撮影者未記載)

ウィキペディアの萱野サンの項目が画像提供依頼をしてるので、これの所有者は提供してあげればいいと思います。とにかくこんな人なんだと。

『樹木と共に』という、各種樹木のアイヌ語名とその利用法を並べた小文と、貝澤正サン逝去時のアイヌ式葬儀(故人の遺志)の際に読み上げた弔辞が本アンソロジーには収録されています。前者は、小卒で山に入った萱野サンが坂本三太夫というアイヌの老人から教わった知識。それはいいのですが、後者、アイヌ語日本語両文併記で書かれている弔辞なので私たち日本語話者にも理解することが可能な、繰り返し現れる自信のなさと神へのその謝罪が、とても胸を打ちました。

イタップリカ ソモネヤッカ タネアナッエ アイヌイタッ アイヌプリ アパンテヒネ シサプリ アエイカウヌ ネヒアナンエ コヨイラク

言葉のあやではありませんが 今はもうアイヌの言葉アイヌの風習うすめられ和人の風習が多いことを忘れているわけではないけれども

解説で、アイヌ語校閲について「ゴールデンカムイ千葉大学中川裕サンへ謝辞。

チコイタッカ タパンペネナ

アイヌ語を上手には言えないが

編集実務でサッポロ堂書店石原誠サンへ謝辞。

エアシ イレンカサッペ クネクスネ ドイタックカ レイタックカ クコハイタレ クキアヤッカ ケライノピト ケライノカムイ アネロックス アオゥペカレ アコプンキ ピカヒケ アンクニタネ コヨイチパチパ クキネナ

本当にいたらない者 私なので 二つの言葉三つの言い方 まちがえたかも知れないけれども それらのことを神であるあなたの方でそれをなおされ 火の神が守ってくださることを 心から期待とともにお願いを申し上げます

草風館の編集者で故人の内川千裕サンへ謝辞。

タタィヨタ イレンカサッペ クネコカ アパセケゥト゜ エコイタッカ クキヒアシキン イト゜リカリケ コシケラナ ウアッテクニ クネワシラン

そこで私は言葉の下手な者ではあるけれど 仏であるあなたにお話をするについては あなたのそば近くへ 遠慮しながら目をふせてものを言いたい

 

アイヌイタッ カムイカイタッ エネネヤッネ オト゜サスイリシ オレサスイシリ オオマクニ アエサンニヨ

アイヌの言葉 神が作った言葉を どうしたならば 後の世まで生きた言葉として受け継ぐことが出来るだろうか

 

タパンニタニ コエト゜レンノ ハンケト゜イマ アンコタンタ アイヌイタッ イタッラマチ シシピピパワ アウタリウタ アイヌイタッ エラマンパ エカイタッ カムイカイタッ イタッラマチ ラマッコパワ アナンコ タパンシリキカ

この二風谷 ここばかりでなく遠い村や近くの村で アイヌの言葉を教えられる場所を作られ アイヌたちがアイヌ語をおぼえるために努力している 先祖の言葉アイヌの言葉がたましいをもって歩けるようになりつつあります

 

テエタウタネノ ニパネノ アイヌイタッ クイエニタンペ ソモネコカ チホッパイタッ エペカク チカパオッテ ネルウェネナ クコパポ コンカミナー

昔の人のように偉い人のようにアイヌ語を上手には言えなかったが 遺言にしたがいまして 引導引き渡しの言葉を私は言いました 兄上よ、さようなら 私は礼拝をいたします

礼拝じゃなくて跪拝じゃだめなんですかとちょっと思いましたが、アイヌの祈りはひざまづいて頭を地面にこすりつけてのお祈りなのか、立ったまま手を合わせる祈りなのか、それも私は知らないなと思いました。以上