『チリユキエ カンピ シロカニペ』『知里幸恵遺稿 銀のしずく』"Yukie Chiri's Posthumous Manuscripts. SIROKANIPE (DROP OF SILVER)" 読了

装丁・構成ー菊地信義(大物*1

版元草風館公式

http://www.sofukan.co.jp/books/52.html

「銀のしずく」のアイヌ語が「シロカニペ」"Sirokanipe"であることは上記とウィキペディアから。

銀の滴降る降るまわりに - Wikipedia

知里幸恵サンの英文表記は、"Chiri Yukie"と書きたかったのですが、表紙や奥付、英文ウィキペディアなどが"Yukie Chiri"ですので、尊重しました。

en.wikipedia.org

「遺稿」のアイヌ語は、国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブで検索した、「紙、書類、手紙、読み書き、学問」を意味する沙流方言のことば「カンピ」"kanpi"を置いてます。

国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブ

「紙に字を書く」が「カンピヌイェ」"kanpinuye"で、「~について紙に字を書く」が「エカンピヌイェ」"ekanpinuye"だとか。知里サンのアイヌ語幌別方言だそうで、沙流方言とはそりゃ違いがあるんでしょうけれど、国立アイヌ民族博物館アイヌ語アーカイブで出たことばが田村すず子アイヌ語沙流方言辞典』1995年収録のことばなので、それで。ちゃんとオフィシャルな辞書単語検索サイトがあって助かりました。日本の国内少数民族政策のありかたについて、まんずまんず。

単語と単語のあいだにスペースを空けてるのは、下記ウィキペディアに書いてある文法に準じました。

アイヌ語 - Wikipedia

  • 単語は分かち書きする。人称接辞は等号「=」ないし中黒「・」で区切って書かれることがある。それ以外の記号は日本語と同じつかい方をする。

「人称接辞」というのは、アイヌ語特有の文法だそうで、東京外語大のウェブサイトを見ると、下記のように、外語オタを挑発するような文章が書かれてますが、それは閑話休題

【アイヌ語文法基礎】単数人称接辞|外大.net

人称接辞は、アイヌ語の基礎の基礎となります。
頑張っていきましょう!

遺稿は、13歳くらいでしょうか、大正五年の手紙から始まり、19歳、東京の金田一邸の寄宿時代から心臓発作での急逝までの手紙と、晩年(!)上京してからの日記。逝去一、二ヶ月くらい前に書くのをやめてます。

手紙を見ると、非常に利発で聡明で、クリスチャンで、父母への孝も尽くしていたことが分かります。アガペーと忠孝が両立している。

頁38 大正九年(17歳)母宛

(略)お医者様が滋養をとって、(略)にと仰ったので、此の間から、卵を二十程もふちと二人で食べました。食パンを買ふやらジャムを買ふやら種々なものをたく山買ふて戴いて、それこそ自分でも気を注けて養生をしてゐます。

初期の手紙では「ふち」と、ゴールデンカムイでもお馴染み*2な、祖母を意味するアイヌ語をひらがなで書いています。でもページをめくると「だんはん」を意味するニパがカタカナで「ニシパ」と出ます。頁40。フチも後の手紙(頁88など)ではカタカナになります。本人の中で、ナニが何語か、混然一体だった言語世界が、体系化され、整理されてゆく。頁40には「丸山コリミセ」という、そのニシパの家の飯炊き女中サンだと思われるのですが、「コックのばあさん」が出て、「コリミセ」の意味が分かりませんでした。アイヌ語で弓の舞を「クーリムセ」と言うそうですが、たぶん関係ない。

頁40 同

(略)外には月が出てゐるのでせうが、おへやの中は真っ暗闇、それでもそこにぶら下がってゐる電燈の白い笠を見つめてゐる中、いつかうと 〱 とまどろむのでありました。ところが私の後の方で、幸恵さん幸恵さん、ときれいな声がきこえますので、そちらをむき直って見たところが、七つか八つの男の子が、あらい絣の着物をきて、かはゆい顔に笑くぼをつくってニッコリしてゐるので、私はびっくり、誰方? 彼は答へました。あのね、あたしはワルデンガーラの子ですよ、と。おやさうですか、とは申しましたが、ハーテな、ワルデンならば、今朝、私が来る時にうまやへよってさよならをした馬なのに、それに種馬の資格もないと云ふ話なのに、どうしてこんなきれいな子を持ってゐるのか、と、首をひねって考えました。これはをかしい、と今一度その子を見なほすと、コハ如何に。彼の小童は身体はもとのわらべながら頭はいかにもワルデンの如く、しかも大きな其の眼光は爛々と輝いて私の全身を射るが如く、額の星は大きな穴のやうにくぼんで、真赤な口をあいて今にも私を飲まんずありさま、ヒヤア、これは大変、逃げんとすれば、両足は棒のやうになって一歩も動かず、助けを求めんには声が出ない。さうかうする中にかのばけものは一歩一歩近寄るかと思へば、反対に後退りをして、後ろの柱にドンとつきあたった其の音でハッと気がついたら、あたりはまっくら、これは不思議をよく見れば、私は相不変コックさんのそばでねてゐたのでした。(略)

ちょっと何かから借りて来たような、小賢しいところも見受けられますが、文才がゴイスーなことには変わりなし。生成AIも使わず、よくこんな空想癖まる出しの小噺、否、夢で見た出来事が描けるものだと。

下記は上京後の手紙。

頁73 大正11年6月9日 父宛

(略)奥様は一円二十銭出して三人分の炭酸水と蜜豆をとって下さいました。炭酸水は苺ので、真赤な色の水がこっぷ一ぱいになってゐて箸の様な「かや」の棒がついてゐるのです。ハテナ飲むものに箸がつくなんて面白いものだと思って奥様に言ったら、笑ってそのかやは一度にガブ 〱 のんでもあまり見っともよくないから、かやで少しづゝ吸ふのです、と教えて下さいました。成る程かやで吸って見たらいゝぐあいに喉へスー 〱 と流れこんで如何にもしとやかな令嬢になった様な気がして成るべくつゝましやかに、口をすぼめてのみました。下においては取上げてのんでる中に、ひょっと忘れて持前の大口でコップから直きに口へ当てやうとしたところで気がついて心の中で頭をかいたりしました。(略)

母親宛でなく父親宛にこんな手紙書けるんですから、令和の宿六が号泣すること請け合いかも(号泣はしないかな)まあ、郷里への手紙ですし、誰宛でも家族で回し読みしたと思います。

この本はアイヌ語のカタカナ表記に、日本語の注記ナシでそのまま攻めてくる本ですので、頁83のようにドカッと出ると、けっこうめんくらいます。全部分からない単語ばかりなので。

「イクパシュイ」

イクパスイ - Wikipedia

「イナウル

萱野茂二風谷アイヌ文化資料館

アイヌカラペ」

不明

「ニマ」

平取町立二風谷アイヌ文化博物館 食べる

「チポンニマ」

茶托?

「ニペシ」

アイヌと自然デジタル図鑑

「ムリリ」

https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/museum/pdf/ilm-bulletin003-07s.pdf#page=4

「ウトキアツ」

葬送用の紐?

「カナウンタラ」

不明

「アラシヌカタラ」

不明

頁95、八月一日の手紙は、鉄道自殺を遂げた金田一家のご近所さんの十七八のお嬢さんの話と、博覧会で見た南洋人の話。「南洋人の子供はほんとうにかはいらしいのです。アイヌによく似てゐます」

頁111(逝去四日前消印)の手紙に、ゴールデンカムイにも出て来た野菜汁「キナオハウ」が出ます。一緒に出て来る「エンドサヨ」は不明。郷里の食事を恋しがる文章。

同じ手紙に、「坊ちゃんは毒むしにさされて、チン 〱 の先がピセみたいになって医者へ行ったりして、二日休学」とある「ピセ」は、熊やトドの胃袋だったり、熊の膀胱だったり。

https://www.ff-ainu.or.jp/manual/files/2002_05.pdf#page=52

以下日記。頁123「アコロイタク」はアイヌ語の意だとか。ウタリ協会のアイヌ語教科書の名前もそれなんだとか。

頁125「シュプネシリカ」は、青空文庫などをやっておられる大久保サンという方によると、ユーカの「蘆丸の曲」のことだとか。その次の「此方のイアクニシパの遺稿『身も魂も』」は、金田一京助サン実弟の遺稿集だとか。

以下の資料を探している。 『身も魂も 金田一他人遺稿集』発行者:我妻栄、大正10年 非売品(自費出版... | レファレンス協同データベース

頁144「オンネシサム」は意味不明。「エンユク」も不明。「ユク」が鹿の意味らしいので、そういった単語かなと思いますが、「エン」は一人称単数だそうで、しかし「私の」ではなく「私に」だとか。この次のページで、アイヌ人子弟を差別せず教育した恩師を回想。

頁172「ウナラペ」は検索で意味分かりました。阿姨,아줌마。オバア。同じページの「ヅレプ イルプ」は分からず。フレップ・トリップとは違うだろうなあ。

www.iwanami.co.jp

頁173の日記に出て来る「ヤイペカ 〱 」の意味が分からず。同じページ、夢に「アイヌの兵隊さん……」が出て来ます。

頁183 日記 七月二十四日 晴

樺太のニマポを見せていたゞいた。何れ程古いかわからぬニマポ、ピカ 〱 光っ
てる。私は涙が出た。ワカルパアチャポの事をうかゞって思はず涙にくれる。
ワカルパアチャポ、ワカルパアチャポ……あいぬは滅びるか。神様、何卒……。
いゝえ、聖旨のまゝに為させ給へ。

「ニマポ」「ワカルパアチャポ」ともに意味分からず。

頁177 日記 七月十二日 晴、終日涼

岡村千秋さまが、「私が東京へ出て、黙ってゐれば其の儘アイヌであることを知られずに済むものを、アイヌだと名乗って女学世界などに寄稿すれば、世間の人に見さげられるやうで、私がそれを好まぬかも知れぬ」と云ふ懸念を持って居られるといふ。さう思っていたゞくのは私には不思議だ。私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。何処にシサムのやうなところがある?! たとへ、自分でシサムですと口で言ひ得るにしても、私は依然アイヌではないか。つまらない、そんな口先ばかりシサムになったって何になる。シサムになれば何だ。(以下略)

下記が現代の共通認識ではないことを信じてますですが、黒鉄ヒロシとかは信じてるのかなあ。先日星野之宣の宗像ナントカというまんがで、渡来した遊牧騎馬民族モンゴル人が蝦夷になった説をやってましたが、星野サンもどさんこだし、下記をうすうす見聞きしてたのかなあと。すごいなあネット。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

頁166 六月二十九日

魚をとってばけつに沢山入れる。此方ではいまに池へはなしてやらうと思ってるのに、生悧巧な魚は逃れようとあせってピン 〱 飛立ってばけつの外に出てバタ 〱 して、とう 〱 砂まみれになる。おとなしいのは、終りまでじっとしてゐて池へ入れられる時を待つ。さういふお話を承って成程と感じた。運命に逆らはう、自然の力に抵抗しようと思ふのは罪ぢゃないか。おのれたゞ人ではないか。小さい、いと小さい人の力が絶大無限の神の力にさからはうとするのはあまりに愚な事ではないか。何故神は我々に苦しみをあたへ給ふのか。試練!! 試練!! 胸に燃ゆる烈火の炎に我身をやききたへ、泉とほとばしる熱血の涙に我身を洗ふ。さうしてみがきあげられた何物かは、最も立派なものでなければならぬ。

私たちアイヌも今は試練の時代にあるのだ。神の定めたまふた、それは最も正しい道を私たちは通過しつゝあるのだ。捷路などしなくともよい。なまじっか自分の力をたのんで捷路などすれば、真っさかさまに谷底へ落っこちたりしなければならぬ。

あゝ、あゝ何といふ大きな試練ぞ!(以下略)

自分に言い聞かせながら、それでも抑えきれぬ気持ちがある。

図書館本なのですが、左記の書き込みがありました。意味は調べてません。

民族的要素ではなく世代的な特徴なのですが、例の、「シ」と「ツ」の書き分けが、ギリ。

読んでいて、モンゴル人のオーノス・チョクト先生が楊海英であるくらいな距離感が、アイヌと日本の、マジョリティーとマイノリティーの文化的な距離感かなと感じました。

巻末に載ってた、「アイヌ民族青春遺稿三部作」の広告。

草風館サマは、他にもいろいろアイヌ関係の本も出しておられるようです。下記

http://www.sofukan.co.jp/ainu.html

さいごに、もうひとつ情景描写の手紙を引用します。

頁90 七月十七日の手紙 父母宛

此の頃、夜飛行機が飛ぶので随分賑かです。奥様と坊ちゃんと夕涼みに出ては見物してゐます。高いお空を赤や青のあかりをつけて飛ぶのです。昨夜などは飛行機で花火をあげた、いゝえ花火を下げたのかも知れません、隈なく晴れた夕空に二つ三つ星がまたゝいてゐる時、ズドンと微かな音とともに、星ともまがふ金色の玉がパッとあらはれて、アッと思ふ暇も無くそれがパーッと砕けて赤く青く太陽のもとに天空を照らしたかと思ふと、一時にスッと消えてしまふ美しさはなんとも云はれません。

飛行機でなくても此の頃はよく花火があがります。上野の方であがるのださうです。昼は暑いかはりに、夜はかうしたたのしみがあるのです。此処は場所のいゝ割に静かで、近所に工場もありませんから煤煙で空気がよごれる事はありません。

それに大学には樹木が沢山ありますから、鳥の影さへ見られます。夕方赤ちゃんを抱っこして大学の銀杏の木の下のベンチに腰をかけてゐると、何だかペナイキペナイかヲカチペにいた時の事が思出されます。

大正時代の夜の東京の情景が、あやしく描かれていて、とても好きな箇所です。飛行機飛んでたのか。とても美しい。以上