『飲んで死にますか やめて生きますか―アルコール依存症ものがたり』読了

飲んで死にますか やめて生きますか

飲んで死にますか やめて生きますか

この本は、断酒が出来てうれしい時期、
断酒が続いても何も変わらないのではないかともやもや焦燥の時期、
そしてその後に渡って執筆したそうです。
はじめの頃の記述としては、例えば

頁21
会場には大勢の人がいた。大きな部屋に長テーブルがびっしり並べられ、顔が向き合うようコの字に配置されていた。座ってる人は六十年配が多く、四分の一は女性だった。百人以上はゆうにいる。机には、銘々にお茶と飴が置かれていた。黒板に、妙なマークを描いたセンスのない旗が張ってあり、旗の前の議長席のような一列に十人ほどの男が並んでいた。中央の男は薄いサングラスをかけ、鋭い目で会場を見わたしていた。隣は肌のドス黒い角刈りの男だった。胸に太い金のチェーンがのぞき、腕にも金のブレスレットが揺れている。その隣は、やはりいかつい角刈りで、足元を見ると派手なツートンカラーを履いていた。いずれの面構えもハンパではなかった。まわりを見わたすと誰も似たようなものだった。机の上にお茶と飴さえなければ、どう見てもナントカ組の総会だ。
 とうとう落ちるところまで落ちた――。それが僕の第一印象だった。

自助グループの第一印象です。
後年筆者は積極的にグループにかかわり、
社会復帰施設を営むまでになったそうです。

頁324
 アルコール依存症の正体は「酒」ではない。
 僕は、これが言いたくてこの長いものがたりを書いた。
 酒を飲み過ぎれば「アル中」になるのはきまっている。なってしまえばたどる道は、皆、同じだ。問題は中毒になったことではなく、なぜ中毒するまで飲んだか、だろう。僕は、酒を飲み過ぎてアルコール依存症になったのではない。依存症になるまで飲まなければ生きられなかった。酒がなければ成り立たない僕。そんな「升々ナンあり」の僕をそのままにして、酒がやめられるわけがない。

頁325
 帰郷して、山口大学の臨床心理学教室で中高生の「ひきこもり」を勉強する機会があった。僕は、ひきこもりという「症状」とアルコール依存症があまりに似ているのに驚いた。その成り立ちの複雑さ、ひきこもり(飲酒)という逃避的な手段、常習性、生い立ちに帰する問題、強い自己愛、自己喪失感、愛情への飢餓感、家庭内暴力、自責の念、さらに、泥沼化する家族、社会的孤立、もたれ合う母親(妻)など、実に共通点が多い。とりわけ、周囲もまた本人も、登校する(酒をやめる)といった見かけの行動に一喜一憂し、その「根」に触れようとしないところが何ともよく似ている。ギャンブル、ショッピング、過食・拒食、フーゾクマニア――。およそ依存症あるいは嗜癖おいわれるもののほとんどが同じ仮面をつけているのではなかろうか。「根」は、誰もソッとしておきたいものだからだろう。

ここから先は終りがないのでしょうね。一生、お迎えが来るまで、いちにちいちにち。