これもビッグコミックオリジナル『前科者』に出てきた本。装画 林武《うつむく女》1953年(昭和28年)頃、油彩・画布、横須賀美術館蔵 装幀 関口聖司 初出 日経新聞2021年2月6日~2022年2月26日の土曜版
巻末に『「書く女」とその父 あとがきにかえて』あり。その後主要参考文献。下記が出てくる女性(と父親)ぜんぶで9人です。女性は。合計で九人だと割り切れないですよね。
(1)
2.26で殺害された側の父と、それを眼前で目撃した娘。当然凶行現場は自宅。
「教育総監」という役職が分からなかったので、検索しました。英語版だと「教育総監部」が出る。
Inspectorate General of Military Training - Wikipedia
(1)の父と(2)の父は北海道第七師団で師団長と参謀長の関係にあったとか。不死身の杉元との関係は不明。アシリパとの関係も不明。
(2)
2.26のバックボーンになった側とその娘さん。ともに歌人。お父サンは済南事件の責任を押しつけられて退役将校に。日本語版ウィキペディアだと戴帽の写真で、英語版だと無帽です。魚豊『FACT』によると帽子は電磁波を防ぐそうですが、その漫画のミーティング参加者自体、戴帽派(若年層)と無帽派(高齢者)が半々なので、早晩分裂するのかもしれません。
2002年におなくなりになっているのですが、なぜグーグル検索の結果でえいえんに存命中の115歳になっているかというと、各種アーカイブで享年何歳と明記していないから。享年何歳と明記してあればAIはそれを拾ってくるが、生没年が書かれただけだと、AIはそれをもとに自分で計算しないという。おなくなりになられたのが誕生日の前か後か、歴史上の人物の場合、数え年でやるのかなど、いろいろ判定要素が複雑で、間違えた時だけ人間から指摘されるので、AIスネてるんだと思います。あまりこじらせるとスカイネットみたいに核戦争起こしたりして。
(3)
なぜか日本語以外はロシア語版がある島尾ミホ。「父親」は加計呂麻島の名士で、養父です。ウィキペディアはアリマセン。
著者の梯(グーグルは「かけい」と読ませますが、「かけはし」)サンは島尾ミホに関しては評伝を書いてる*1くらいなので、お手のものという。
(4)
「石垣」姓を沖縄のものと勝手に私が思い込んでいて、それで島尾ミホの次にこの人が來るのかとカンチガイしていた石垣りん。しかも漫画家だと思ってました。父親はモテのパロパロで、一般人。渡辺和子サンは修道女になりましたが、この人は民間で生涯独身。退職金で完済して死ぬまで住んだマンションにはいっさいお客を入れず、死後、椅子が一個しかないのが発見されたとか。
(5)
次は茨木のり子サン。濁って「いばらぎ」なんですね。石垣りんが出たので、仲のよいこの人がネクストバッターなんだろうと思いました。この人のウィキペディアはハングルを載せたかったのですが、ハングル版ないかった。日韓不可解あるあるのひとつ、かなあ。ハングル作ると誰か荒らしに來るんだろうか。「이바라기 노리코」で検索すれば、茨木サンを取り上げたあちらの記事はそこそこ出ます。
なんだろう、この人の父は、本書登場の父親のうち、一、二を争う人格者で所得もあって、かつ、いちばんふつうに人生を終えた人です。時代とかナントカで悲劇にみまわれなかった。夫も理解ある男性で、浮気もなんにも明るみに出ないし、それは茨木サンも同様。ひとりくらいそういう人が出てもいい。
唯一不穏なのは、頁143の写真(遺族提供)を撮ったのが、百万回生きた猫の宿六、稀代のモテ詩人なことくらい。
(6)
次はお聖どんアドベンチャーのしと。イバラキなので吹田千里枚方高槻なんでもよかったのでしょう。生家は此花区。船場の山崎豊子は荷が重かったのかも。お父サンは一般人で、個人商店を営んでいて、大阪空襲で資産のすべてを失ったら別人のように酒びたりになって死んだとか。昭和二十年九月四日のお聖サンの日記に「薬を浴びるほど飲んでいる」(頁164)とあり、ヒロポンもしくは睡眠薬もやってる気瓦斯。ちょっと今出て来ないのですが、この人のエッセーで、男は天下国家を論じるが、女は恋愛ばっかしと言われ、天下国家と恋愛重さはいっしょやろ、優劣つけんなやと反論する場面があった気がするのですが、本書に登場する、戦前勤労動員田辺サンはマッチョな軍国少女です。頁168、昭和二十年四月には美濃部達吉の天皇機関説支持者の父親と論争し、敗戦後の同年九月十四日には東条英機の自殺失敗を「とんだ死に恥をさらして気の毒ともあさましいともいいようがない」と日記に書き綴ってます。ほんらい日記は非公開で、こういうふうに使うものだったりしたんですよねえ。
(7)
次は辺見じゅんと角川源義。「源義」って、読めなかったんですが、「げんよし」でいいんですね。日本を代表する文化事業の担い手、巨大出版社を一代で起こした企業人が湯桶読みだったとは。しかも石川県人富山県人なので、藩閥と無縁。折口信夫の門下生だったとか。頁179
前が田辺聖子サンだったので、田辺つながりでポイチの人、紀伊国屋書店創業者田辺茂一とその娘サンのストーリーでもやろうとしたら、娘さんがいなかったので、同じ出版業界で探して、サクッとこの父娘にしたんじゃいかと睨んでます。そう睨まんといて、好かんタコ。
ちなみに私はキム兄初代ヨメ辺見えみりと辺見庸を親子だとカンチガイしていて、辺見じゅんと来たら辺見えみりも出さなアカンやろと勝手に憤慨してました。正確には辺見え㍉の父親は西郷輝彦。
しかも辺見庸は統一教会に洗脳された娘を脱出させたと思い込んでた。それは飯干晃一と飯干景子やって。
本書に出てくるものかきの人の本は、読んでたりもするので、新規に読もうとはそれほど思わないのですが、じゅんサンの『呪われたシルクロード』は、ちょっと迷ってます。地元の図書館で郷土資料のコーナーにあったりするし。
「呪われたシルク・ロード」辺見じゅん [角川文庫] - KADOKAWA
(8)
stantsiya-iriya.hatenablog.com
次は、文豪ストレイドッグの娘。他の方の写真は遺族提供が多いのですが、この父娘の写真はなべて水と緑と詩のまち前橋文学館提供です。葉子サンは結婚して別れた夫が東大航空研だったのもあってか、参宮橋とかに住んでたようです。
(9)
最期は苦界浄土のしと。祖父が石工の棟梁で父も石工でしたが、入り婿という感じだったのかな。ラストなので、この人をという感じで出たのかもしれません(その前の前橋は地元盛り上げ)天草方言なのかな、方言がまあまあ出ます。
・権妻殿(ごんさいどん)隠し妻
・餓死(ひじに)
・山芋を掘る(しつこくからむ)
・ぐらしか(愛おしか)
道子サンは1947年、二十歳で結婚し、翌年長男を出産します。その前、代用教員だった18歳の時に服毒自殺をはかり、結婚直後も二度自殺未遂をしたと頁160にあります。最初の自殺未遂の頃なのかな、通勤帰りの車内で、無賃乗車のまま水俣まで来てしまった兵庫県の戦災孤児・浮浪児15歳と知り合い、家に連れて帰ります。父がすぐに水とお茶を飲ませ、祖父が風呂を焚いたとか。タデ子というその子は夜中に大量の下痢をしたそうですが、道子サンの母はよく面倒を見、父親は彼女の分も配給を受けられるよう役場に日参して交渉したとか。医者に連れて行くと、医者は診察料も薬代もとらなかったとか。とか、とか、トカトントンですが、タデ子は一度も笑顔を見せず、地元に帰りたいというので、それが彼女の幸せならばと、復員列車に便乗させて加古川迄帰したとか。野坂昭如サンも石牟礼サンのその話を聞いたんじゃいかと思いますが、感想どうだったんだろう。私は、出来ることではないと感心しました。神奈川県央のこの辺にもそんな人いたかなあ、どうかなあ。孤児院はいっぱいあったみたいですが。
まとめ
(1)
娘:渡辺和子(1927~2016)随筆集を出版した修道女
父:渡辺錠太郎(1874~1936)軍人 2.26で自宅で銃弾43発と銃剣により死亡
(2)
父:齋藤瀏(1879~1953)元軍人、退役後はイデオローグ及び歌人
(3)
父(a):大平文一郎(1868~1950)養父。琉球士族の末裔。村役人、事業家 妻と死別後、晩年は寝たきり。逝去時ミホは兵庫県の神戸にいて、米国統治奄美の葬儀に参列出来ず。
父(b):長田實之(?)実父。妻の死去後、東京で萬世軒という料理店を経営。芸者上がりの女性と暮らす。
(4)
父:石垣仁(?~1957)薪炭商で貸家持ち(東京大空襲で焼失) りんの母と死別(関東大震災の影響)後三度結婚し、ひとりと死別、ひとりと離婚。晩年は寝たきり。
(5)
茨木のり子(1926~2006)詩人
宮崎洪(ひろし)(~1963)医師
(6)
田辺聖子(1928~2019)小説家
田辺貫一(1901?~1945)写真館二代目店主 大阪空襲で資産を失い、失意のうちに逝去
(7)
辺見じゅん(1939~2011)歌人・小説家 新田次郎文学賞、大宅壮一ノンフィクション賞受賞
角川源義(げんよし)(1917~1975)実業家、国文学者、俳人
(8)
萩原葉子(1920~2005)作家
萩原朔太郎(1886~1942)詩人
(9)
娘:石牟礼道子(父母が長く事実婚だったため、旧姓は母の吉田)(1927~2018)作家 マグサイサイ賞受賞
父:白石亀太郎(?~1969)石工
(9)は頁261、伊藤比呂美との対談で、自殺未遂について聞かれていて、伊藤比呂美の名前が此処に出るのかと驚きました。
(2)は1997年、平成9年、宮中歌会始の召人(めしうど)に選ばれ、数ヶ月後に道浦母都子と対談します。道浦母都子の名前が此処に出るのかと驚きました。
頁53
「お父上は、齋藤瀏さんでしたね、軍人で……」
史は「初めは軍人で、おしまいはそうではなくなりました。おかしな男でございます」と答えた。(略)
史はこのときのことをこう詠んでいる。
「おかしな男です」といふほかはなし天皇が和やか(にこやか)に父の名を言ひませり
以上