『蓮の道』විරාගය Virāgaya (Devoid of Passions) "The Way of the Lotus" by Martin Wickramasinghe මාර්ටින් වික්‍රමසිංහ マーティン・ウィクラマシンハ 野口忠司訳 නොගුචි ටඩාෂි හේතුව(スリランカ・シンハラ文学)読了

サラッチャンドラサンと抗争を繰り返したシンハラ文学界の巨匠、ウィクラマシンハサンの作品が、大同生命国際文化基金の三部作以外に邦訳されていると知ったので、借りて読みました。結論から言うと、ガンペラリヤ(変わりゆく村)より全然面白い。サラッチャンドラサンが世田谷区奥沢を描いた『亡き人』『お命日』は『蓮の道』の次のベストセラーだったそうで、ということはこれもベストセラー。

蓮の道 スリランカ・シンハラ文学:南船北馬舎

カバーデザイン・井竿真理子 南船北馬舎という出版社は、神戸の出版社だそうで、スリランカ関係の本もそれなりに出しているようです。しかし小説はこれだけ。あとはエッセー、ルポかな。上智大学の第13回ヨゼフ・ロゲンドルフ賞を受賞した『スリランカ学の冒険』や、「お気楽コマダム紀行」のキャッチコピーの『恋こがれてスリランカ』とその続編の子連れ旅行の本、スリランカカレーの本その他。ウィキペディアに項目もないし、公式に概要経緯がないので、出版社の成り立ちは分かりません。

原書も英訳も出ませんでしたが、音読は出ました。

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映画化もされてるとか。

スリランカ映画特集「蓮の道」

下はアレな動画投稿。後半の面白いところ。テレビドラマ「ヤサ・イスル」のように、スリランカ公式が配信すればいいのにと思う。

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下は日本語版著者ウィキペディア。数日前に見た時より、更新されてる気瓦斯。

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英語版シンハラ語版は本書の項目もあります。あらすじもそこに。

Viragaya - Wikipedia

විරාගය (කෘතිය) - විකිපීඩියා

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/3/3e/Viragaya_novel.jpg左は英語版に載ってた原書表紙。

アーユル・ヴェーダ医の息子として生まれた主人公が、解剖や血を見るのが嫌で医学の道に進まず、父親が急死、公務員試験に受かって公務員になるまでが前半。ここまでは面白くないです。姉が守銭奴で、嫁ぎ先から毎日実家に帰ってきて子どもと自分とでタダ飯食って夕方庭の果樹のココナツなどをとって新婚家庭に戻るなどの描写はありますが、なんだろうなあ。

姉が父親の後をついでアーユル・ヴェーダ医になればよかったのではと読んでて思いました。それくらいなら母が夫の後を継ぐ方がすじが通ってると本書にはあるのですが、そのロジックが分かりませんでした。頁89。父親は別のアーユル・ヴェーダ医の内弟子として薬草の知識などを身に着け、実戦に入ってからサンスクリット語を読めるようにしたそうです。本書も日本の少女漫画同様、娘による母殺しの一面があり、父親の死後、実家に夫と引っ越してきた姉とそりが合わない母親は家を出て借家に引っ越し、息子からの仕送りなどで生きます。

頁38、父親は村中で尊敬される名医との声がある一方、「あらゆる悪徳商法に手を染めたジャヤセーナ旦那だが、やっとひとかどの人物におなりに」などの記述があり、逝去の後、惜しむ声や名声があっても、だれでもひととおりは言われるもの、二巡三巡ずっと語り継がれてやっとホンモノ、みたいな辛辣な客観評価も出ます。そういうのがウィクラマシンハサンの考えなのでしょう。

頁134

 姉の食事は速くすむ。彼女は指先で皿のご飯を少しかき回す。カレーの煮汁をかけない姉は大半の人がやるようなご飯とお菜のカレーを捏ね混ぜることはない。ダルマダーサはカレーとご飯を捏ねくり返し舌鼓を打って食べる。彼の食欲は旺盛である。食が細い私はカレーを少し口にしただけで、グラスの水を一気に飲み干し、彼らが席を立つまで我慢して待った。

カレーの煮汁をかけない人がいるんですね。こういう描写に興味があります。人々の暮らしの細部が分かる。このページは、アーッパを作るのには早起きしないと姉が使用人をしかりつける場面もあります。注釈によると、アーッパにはムフンという酵母を使うそうで。ムフンが何かは分かりません。

頁171

 ある時、父が衣類専用の棒状の固形洗濯石鹸を数本買ってきて、まず小さな四角形に切り刻み、ナイフで角を削って石臼の上で球形になるまで転がし、着色を施してからウェサック提灯用の薄い色紙にこれらを包んで売っていたことがある――とメーナカーはつい最近になって私に話してくれた。またある時には、内側には磁気を帯びた鋼鉄、外側には真鍮をあしらった指輪を手に入れ、硝酸に浸し〝ラサ・リング〟と銘打って売り出した。その指輪を嵌めていれば全身の痛みが消えると父は信じていた。父は何か新しいものを創造しようとする情熱が旺盛な人だった。

上が悪徳商法の一例。テラワーダ仏教の人にとって、チベット仏教密教はやはりあやしい、おどろおどろしいイメージなんだなと思いました。しかしここは、如何に故人を想起する場面であれ、なぜ息子は父を糾弾せずヨイショしてるのか不思議です。その辺がシンハラ社会しいてはインド社会に通底するおかしな点、カーストが上なら悪行も許容されてしまうダメなポイントのような気瓦斯。だから一神教ムスリムに改宗する人が後を絶たないのでは。

主人公は幼馴染と互いに憎からず思っているのですが、結局薬局、煮え切らないので、成金の友達のアタックで彼女はとられます。実は俺も好きだったんだとは言えない主人公。主人公は何不自由ない高給取りの公務員になったのですが、姉夫婦との同居がやはりあれなので実家を出て、借家暮らしをします。近所にやはりチョンガーの独身貴族の郵便局長がいて、親交を深めます。

頁169

(略)このような孝行息子が中年をすぎて社会からつま弾きにされるような人間になろうとは、両親は夢にも思わなかっただろう。

 私と同様、彼はさほど友達付き合いを好んだ人間ではなかった。彼が酒を口にしたのはわずか結婚式の当日だけだった。そして彼は私のように信心深い側面を覗かせていた。しかし現在はどうかといえば宗教に対しても全く無関心そのものである。(略)

 彼は両親や道徳家が口にする人の踏み行うべき正道を歩んできた。しかしメーナカーまでもがクラスーリヤを道義的な社会から逸脱した放浪者扱いをしている。

主人公と郵便局長の違いは、家政婦を雇うか自炊するか。郵便局長が言うには、家政婦を雇うと、炊事洗濯のあれこれをやる気が無くなり、その人の作る食事の味に慣れ、家政婦を解雇しようとしても出来なくなってしまう。ひとりでやるに限ると。主人公はその予言通り、家政婦の娘にあれこれやってもらうことに慣れ、パパと呼ばれ、近隣から陰口を叩かれまくります。寡婦の家政婦とデキて、さらにはその娘と… という。

娘はそうした空気に敏感で、思春期になると反抗的な態度を隠そうともせず、パパでなくだんなさん、マハッタヤーと呼ぶようになり、近所のトゥクトゥク運転手かなんかの青年と恋文を交わし、逢引きを重ねます。二転三転ののち、主人公は彼女の持参金に新車一台までつけて、娘を彼に嫁にやります。ほんと持参金問題って、難しいんですね。それがないと結婚出来ない大変な社会なのに、よく人口で中国を抜くまでになったなインド。この小説はスリランカ、シンハラ小説ですが… 考えてみれば中国も持参金はあったのですが、共産化したのでチャラに。

頁187、阿婆擦れ娘という表記が出ます。一発変換出来るのですが、ふつう使わないかな。野口サンは1944年生まれなので、『亡き人』『お命日』もそうでしたが、むかしふうの口語がウマいです。それがお堅い小説、『変わりゆく村』三部作になるとどうにも退屈なのですが、このようなラブ・ロマンスの軟派な小説だと、とてもいきいきする。

父親もさいごは姉が献身的な介護をしますし、主人公もまだ五十代くらいでしょうか、病に倒れ、娘と婿に献身的に介護されます。ここが本書の要諦かと。人の一生の幸不幸は、介護してくれる人がいるかいないかにあると。私はそう読みました。善行を積めば、その人が恩に感じて介護してくれる。現実はそうでもないのでしょうが、だからこそファンタジーとして、手厚く介護される結末が支持されると。

『お命日』の解説では、ウィクラマシンハ對サラッチャンドラの抗争と、高関税による紙価高騰の煽りを受けて、シンハラ文学は壊滅的状態にあるとあったのですが、2002年の本書解説時点では、「若手作家の台頭で文壇内も多様化し、今では先の危機は回避されていると思われる」そうです。そのわりにさっぱり邦訳紹介されないのは、①邦訳しても売れなさそうな作品ばっかり②邦訳したくない作品ばっかり③邦訳する人がいない。さてどれでしょう。

訳者あとがきで縫田健一サンへ謝辞、野口博志サンへも謝辞、南船北馬舎の陰山晶平サンへも謝辞、マーティン・ウィクラマシンハサンの四男で記念館館長のDr.H.R.Wickremesingheサンへも謝辞。本書刊行の2002年は日本スリランカ外交関係樹立50周年だったとか。それで本書の映画も東京と福岡で上映され、本書もそこでは完売だったそうで。

この小説は、後半、ナボコフ光源氏かみたいな展開がおもしろいので、その人が日本人女性とスリランカ人が付き合う小説のサラッチャンドラサンを攻撃したのが、さっぱりさっぱりです。たんじゅんに、嫉妬のパトスだったのではないか。以上