『わたしのスリランカ』මගේ ශ්‍රී ලංකාව என் இலங்கை "My Sri Lanka" by Nakamura Reiko நகமுரா ரெய்கோ නකමුර රේකෝ 中村禮子 読了

頁1

「何故、『セイロン』といっていたのを『スリランカ』に変えたりするのかしらね」

「『ジャパン』を『日本』に変えたようなものだよ。スリランカは一九四九年に独立するまで西欧諸国(ポルトガル・オランダ・イギリス)の植民地だった。そんな関係で、公用語を英語にしていた。ところが、いつまでも公用語が英語だと独立したことにならない。そこで一九五六年に公用語シンハラ語に変えた。と同時に国名が『スリランカ』になったのだよ」

「じゃ『セイロン』は英語だったの」

「それが英語じゃないんだ。アラビア語がもとになっている。ポルトガル語では、ラとロの中間音を鼻にかけて発音するのだが、日本語になると『セイン』となる。英語だと『スィロン』と発音される。スリランカの人達も英語で発音する時は『スィロン』といっているよ。バンク・オブ・スィロンとかスィロン・ティとかいうだろう」

「なるほど、『セイロン』は日本語になったポルトガル語というわけか。『スリランカ』がシンハラ語だとすると、タミル人はどう呼んでいるの」

「タミル人はタミル語で『イランカイ』という。シンハラ人だって普通はシンハラ語で『ランカー』といっているけどね」

(略)ところであなたはいつも、シンハと書いてあるとシンハに直すでしょ。あれはどうして」

「シンハ人やシンハ語は間違っているからさ。あの間違いは、英語のシンハーズを日本語読みに変えたことからおきたものだ。正しくはシンハ人、シンハ語。少なくともスリランカの人達はそう発音しているよ」

マレーシアのランカウィ島はスリランカと同源なのかしらとか、マイケル・オンダーチェサンの小説の邦訳が「シンハリ人」と書いているのは、英語表記に引き摺られてるからか、などなど思いました。

ランカウイ島 - Wikipedia

表紙(部分)

わたしのスリランカ (南雲堂): 1985|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

装丁/ヤマモト スエ カバー写真等はセイロン(スリランカ)観光局協力

中表紙(部分)

下記二冊の邦訳者サンが駐在ヨメとしてスリランカ滞在経験があり、そのエッセーをまず出版していたと知ったので、読みました。

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中村禮子サンはスラウェシのウジュンパンダン生まれ。発展途上国と日本のあいだに平和のかけはしをかけたいという夢を持って海外技術協力事業団(現:国際協力事業団)に就職、自分一人がどんなにあがいてもとうてい平和の橋はかけられない、という悲観的観測を学びました。しかし海外生活の夢は捨てきれず、ハズの人がスリランカに赴任するので、幼子を連れて家族でスリランカに飛び込みます。下記は空港到着第一夜。

頁16

スリランカに着く便が、何故こんなに遅い到着になるのか」と不審に思った。後に、”国際線の場合各国の力関係で、どうしても弱小国は、遅い時間を強いられる”ということを聞いた。

(中略)車は一路私達の仮寓となるシナモンガーデン・インへと向った。途中驚いたことに、午前一時過ぎだというのに、どの街にも結構人通りがあった。おそらく映画でも見ての帰り道であろう。

 三々五々と連れ立って歩いて行く姿は、とても真夜中とは思えなかった。しかも女性の姿もかなりあった。「女の人が夜道を何の不安もなく歩けるとは、なんと平和な国だろう」と思うと同時に、翌日からそこに住む一つの安心感ともなった。

現在はどうなのか知りません。

頁44

 私にとって、待ちに待った運転手のはずである。それが、初日はどうしても彼の運転で出かける気になれなかった。(略)

「彼の運転で外出したら、そのまま二度と家に帰れないのではないか……」という不安にかられたのである。(略)スリランカの男性に対する恐怖心からくるものであった。

ここは気に留めておきたく。

頁12、数字。スリランカインド亜大陸系、というかペルシャ語系のエーク、ドゥー、ティーン、チャハル、パーンジだった。タイやビルマチベットは漢数字系なので、分水嶺があるんだなあと。関係ありませんが、ベトナムの、モッ、ハイ、バーって、ぜんぜん漢数字系な感じがしないんですが、でも漢数字系でないと地理的におかしいので、なんだろうなあと思ってます。

頁49から調理器具の話。ナンビリヤ、という米の石取り器が出ます。細かい溝がたくさん彫られたボール型の容器で、その溝に石だけ挟まり、上澄みの軽いコメを掬い取ってやれば、石が取り除けるんだとか。土器が主流だが、アルミ製もあるとか。また、ココナッツを叩き割ったりするのにも使うので、スリランカの包丁は日本のそれよりゴツくて、ナタのようなんだそうです。日本の包丁をうっかりお手伝いさんに持たすと、鉈と同じように扱うので壊すとか。また、一度煮沸した水を濾す土器のフィルターがあって、気化熱でいつも冷たい水が飲めるスグレモノだそうですが、写真がないので、ちょっと想像がつきませんでした。

道具のイラストが何ヶ所かあるのですが、理解出来たのは一個だけでした。

頁138。不明。ナンビリヤなのか水濾し器なのか。

➢20231109追記。ナンビリヤだそう。

頁152。これだけ分かりました。ココナッツ割り器。

頁242。この鍋と薪みたいのも分かりませんでした。

➢20231109追記。タダのナベとマキではないかとのこと。

頁251。なんだろう。アーッパとかピットゥとかを作るものなのでしょうか。

➢20231109追記。お菓子を作る道具だそう。

頁55、食材に冷たいもの(体を冷やす)と熱いもの(からだに熱をもたせる)と二種類あるという話。アーユル・ヴェーダかなんかなんでしょうか。漢方にもそういう考え方はありますが、インド由来なのかどうか。牛乳はシータラ(冷たい)が練乳はウースナ(熱い)とか、ジャポニカ米はウースナとか、基準が分からない。その前は日本料理の話で、向こうの人にパーティーなどで日本食を出してもほとんど手をつけてくれないので、メインに持って来ず、箸休めの話のタネになる程度にスリランカ料理に入れておくとよいとか。当時の話。

頁59からはカレープレートほかの各種総菜の説明。シニサンボル、ポルサンボル、マッルン、チャツネ(チャトゥニー)、アチャール、それからデザートのワタラッパン。日本のコメは熱いが、あしhちらのインディカ米は籾の状態で一度煮て、それから精米するとか。そう説明されても、なにがなにやらです。バスティマ(バスマティ?)ライスという言葉は出ません。まだなかったのか。ビリヤニはブリヤニと書かれ、それ以外に祭事に出される「キリバット」という炊き込みゴハンが出ます。おごちそうですが、日本の赤飯が、慶事に出されるわりには味はすばらしくエクセレントなわけでないのと同様、キリバットも、たくさん出せる財力は分かるけどもや、という面もある感じでした。

中村サンの邦訳小説同様、ホッパーはアーッパと書かれます。それとローティ以外に、ピットゥというのも出ます。

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おもしろいと思ったのは、ギーの代わりにマーガリンを使ったりする点。スリランカはマーガリンに寛容なんですね。頁122にも、タミル人クリスチャンのお手伝いさん家庭の朝食が、マーガリン塗ったパンと紅茶という記述が出ます。パパダンに関しては、食べ過ぎると下痢するそうで、油ででしょうか。手食に関しては、手を動かしてる時は口も動くし、食べながら話すわけではないので、かえって会話がはずむという効用もあるそうです。来客のさい、お茶を出すのは最後、シメのタイミングだそうで、到着の時は喉が渇いたはるやないか、といぶかしがる人向けに、そういう時は甘いお菓子とジュースなんですう、だそうです。で、高級食材(鶏肉やサワラ)のカレーで腹を満たしてもらって、さいごにお茶を出して、そろそろおいとま、なんだとか。魚に関しては、なぜか日本からのイワシやサバの缶詰がよく売れるそうで、その理由のひとつに、スリランカの鮮魚はよく砂がかけられていて、そういうものより罐詰のほうが目方をごまかされないから安心なんだそうです。当時の話。頁72。また、邦人はちょくせつ漁港に買い付けに行ってしまい、その残り物が首都の市場に出回るともいえる、とも。

スリランカも買い物は男性の役目で、十歳くらいになると男の子はそのように仕込まれるとか。回教徒女性が男性親族のエスコートなしで外に出れないから男性がかわりに買い物する習慣が出来た、だと、インド亜大陸ではヒンディーも仏教徒もクリスチャンも男性が買い物に出る習慣が説明出来ない。回教圏でも、イランやマレーシアインドネシアはあの手この手で女性が外出しますしね。「はじめてのおかいもの野郎」はインド亜大陸の文化ではないかと。今日もクリエイトSDで、遠赤外線だか何だか知りませんが、女性用モモヒキを買いに行かされたゴツイ髭のムスリムアニキが、若い邦人店員にあれこれ聞くも、帰ってヨメもしくは母親から「何アンタ使えないわねー」と言われる危惧を拭い去ることが出来ず、イヤーな汗をかいて右往左往してました。最後は返品しようとしてやっぱり思いとどまって去って行った。女性が来店して直接品定めすればすむ話なのですが、男性をパシらせて文句だけ言ってればいい特権をなかなか手放す気にはなれないのでしょう。

➢20231109追記。最近は女の子も平等にお使いに行かされるそうです。昔は女の子は家のことをさせられていた。

そこから外出の話になります。木陰でも日傘をさして歩くのは、鳥の糞除けだとか。それだけよく落ちてくる? で、市場の肉売り場は、豚肉全盛で、読んでてヒヤヒヤしました。仏教やキリスト教はだいじょうぶなはずですが、タミルの主流のヒンディーは牛肉ダメなので、牛肉はそれなりのところに行かないとないそうで、ちゃんと書いてませんが、インド同様、ムスリムの店なのではないかと思います。鶏肉は、それと分からない、一見民家みたいなところで売られていて、注文すると裏でしめて、羽根をむしったのをおもてに持って来るとか。生きたままのをカゴに入れて市場で売ってて、トリを自転車に縛り付けて家に帰る中国とだいぶちがう。

まだ保育園の入れない幼児を、リーダーが認めた親同士でかわりばんこに面倒見る、結のようなものを在留外国人ママさんたちがやっていて、中村サンも混ぜてもらうのですが、そのグループにナイジェリア人がいて、ただナイジェリア人と書いてあるだけで、人種は分かりません。ラルセン夫人という名前からも、人種は分からない。そのグループはリーダーが帰国すると雲散霧消します。外国人子弟は日本ならインターナショナルスクールに入るのですが、スリランカではオーバーシーズ・スクールと言うそうです。言い方。中村サンとこの子は、スリランカのええしのぼんがかよわはる、カソリック系の幼稚園に、入園許可をもらって入ります。最初はスリランカ人の中で拒否反応を起こしますが、邦人の子が三人もいるクラスに移って、すぐ元気が出たそうです。良家の子弟が通う名門幼稚園に、邦人の子が三人もいるってのにおどろきました。今だとどうなんだろう。韓国人や中国人の子どもと、クラス内オリエンタル閥を形成しそうな気がします。邦人だけしかオリエンタルがいない時代ではないので。この辺から教育の話。

高等学校の試験が二つ出ます。”Ordinal rebel”と"Advansced rebel"、後者は大学入学資格試験、バカロレアみたいのだそうです。優がD”Distinction”で、良がC"Credit"、可がS"Safe"で、不可(失格)がF"Fail" 頁114。D,C,S,Fの順番の成績って、「ディーマイナー」とかの世界の人と会話すると、混乱しそう。また、この時期はシンハラ語公用語の時期で、タミル人も公教育をシンハラ語で受けるため、タミル語しか話せない親とシンハラ語世代の子どもで意思疎通がアレになったりしたそう。そういうシンハラ語教育のことを、シンハラ・ミディアムと呼ぶそうで、以前見たインド映画の「ヒンディー・ミディアム」って、ヒンディー語による基礎課程の教育ってことか、と改めて思いました。

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で、今のスリランカは確か、シンハラとタミル両方とも公用語で、國語が英語になったんだったかな。うろおぼえですが。

マスコミの話。頁128。シンハラ語新聞とタミル語新聞はともに白紙の部分がけっこうあって、検閲あるんだなという感じだったそうですが、英字新聞は白紙ほとんどないかったそうです。外国人が見るもので、そんな言論統制やってないデスヨムードを出したいし、さらにいえば英語の分からない層の一般大衆は読まないので、アレな記事出しても影響力が限定的。

頁131、空きビンがないと液体飲料が買えないのは、七十年代チリを描いたホーン岬の話といっしょ。で、最初のビンはデポジット払って買う。たしか。頁135は停電の話で、スリランカ水力発電なので、干ばつ時にもろに影響が來るそうです。しかし停電の影響があるのは電化製品に囲まれた暮らしをしてる層だけなので、ガスもしくは薪で煮炊きし、食べ物は冷蔵保存しない、ランプと手洗い洗濯の大衆への影響は限定的だとか。

頁139から衣服の話。スリランカレストランでサリーの着付け教室やってたなあと、そういえば。こういうのは、インド人の店でもスリランカの店でもバングラディシュの店でもネパールの店でも、ちょっと前の、夫婦で始めたようなお店だからこそやれる異文化交流の一環で、最近の、野郎ばっかのインドレストランじゃ逆立ちしても出来ない気瓦斯。話を戻すと、スリランカのサリーの着方は二種類あって、コロンボ・スタイルがインド風、キャンディアン・スタイルがスリランカ風で、タスキふう肩掛けベルトふうにラインを見せる、のかな。写真が載ってますが、よく分かりませんでした。江戸と京のキモノ着付けの違いではないと思います。で、色や柄の流行は、スリランカはインドの後追いをしてて、スリランカで手に入らない超人気の反物が、インドでは流行遅れだろうから買い叩いて転売じゃーとマドラス(当時)に行くと、もう古いので売ってまへんとすげなく言われたりだとか。おそるべしインド亜大陸オサレ事情。

➢20231109追記。キャンディアン・スタイルはアッパークラスの装いで、コロンボ・スタイルは別名インディアン・スタイルだそうです。

次がバティックで、スリランカにもバティックがあるとか。ただし柄は東南アジアのよりおおざっぱというか、細かくないそうです。バティックを着る利点のひとつとして蚊よけがあり、足元に寄ってくる蚊を、長い裾のバティックひらひらで防御出来るんだとか。

その次がサロン。これも東南アジアと共通。スリランカのランカはやはりランカウイのランカなのか。オンダーチェサンの『アニルの亡霊』で、ヒロインがよくサロンをするのは、男装の麗人キャラだから、みたいなのを思い出すとおり、本書のサロンは男性のものです。のみならず、英国時代、英語が話せないと帯刀、否ズボンの洋装が許されなかった名残で、今でもサロン常用者=英語不懂者なんだとか。そこから話が飛び、農村出身で英語が話せる人たちはカリサンカーラヤと呼ばれ、買弁というか、進駐軍の二世将校というか、支配階級の言語に通暁したバイリンの常として、ときたまヒドいしとがいるそうです。ヴァージニア・ウルフサンのハズ、レナード・ウルフサンがセイロン滞在時に書いた"The Village in the Jungle"には、カリサンカーラヤに騙されて無実の罪を着せられる場面があり(読めない英語の書類にサインさせられる)中村さんはその映画を観たそうです。

Leonard Woolf - Wikipedia

The Village in the Jungle - Wikipedia

බැද්දේගම (චිත්‍රපටිය) - විකිපීඩියා

www.youtube.com

ヴァージニア・ウルフサンもスリランカ体験者だったとは。アーサー・C・クラークサンがいて、あとひとり意外性のあるキャラがいれば、三題噺というかトリムルティというか三馬鹿扱いが出来るのに。

話を戻すと、中村サンがいた時代のスリランカの映画館には一等席と他の席があって、一等席はサロン姿では座れなかったそうです。運転手のスニルくんを映画に誘ったら、一等席だったので、常時サロンのスニルクンが狼狽してしまい、むりやり座らせたら、恥ずかしがって、映画の内容も覚えてるかどうかというありさまだったとか。まあスニルクンは外国人の運転手やってるくらいなので、英語話せるわけですが。それゆえになのか。で、中村さんのいた頃、もう、英語話せなくてもズボン履く若者は増えていたとか。

頁160は、祝日の話から、多民族国家の祝日は宗教の数だけという話になり、というかそれとはちょっと違う話に飛び、中村さんのレジデンスの近くに日本山妙法寺があって、毎朝五時半にドンツクドンドンドンツクドンドン、南無妙法蓮華経をやるので、それでええんかと寝床で思っていたりする日常があって、横塚上人という人が、シンハラ・タミル紛争に平和の道を唱えてタミル人支配地域ジャフナに行って射殺された話がぽつんと挿入されます。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/55/2/55_2_1028/_pdf/-char/ja

頁162

TI-SARANAM(三宝に帰依する)

Buddham Saranam Gacchāmi 我は御仏に帰依し奉る

Dhammam Saranam Gacchāmi 我は法に帰依し奉る

Sangham Saranam Gacchāmi 我は僧侶に帰依し奉る

 これを三回くりかえす。但し、二度目は vDutiyampi を、三度目は Tatiyampi を頭書に加え、唱える。

頁170、スリランカには月一回、ポーヤダーと呼ばれる満月の祝日があり、それは大切な仏教行事だそうです。JETROのサイトなどでは”Poya Day”と英語混淆で書いてるので、デイをダイと読むオージーイングリッシュもしくはコックニーが混ざってるのかもしれません。

祝祭日 | スリランカ - アジア - 国・地域別に見る - ジェトロ

පොහොය - විකිපීඩියා

その日はお祭りをするだけでなく、お寺にお参りし、不浄とされる金銭は扱わず、肉や魚は食べず、酒も飲まないとか。日頃の破戒行為をこの日は守ることで功徳のバランスをとっているんだとか。中村サンはこの日に大家さんに家賃を持ってって、あら困ったワ受け取れないじゃないと言われたとかなんとか。

頁209、この頃、日本でスリランカといえば宝石で、ブルーサファイヤ、キャッツアイ(執筆時より前)ガーネット、トパーズ、ムーンストーン、ホワイトサファイヤなどが取れるそうです。ここは、友人関係から買ったのにニセモノと鑑定されたり、そのへんに転がしといたらホンモノと鑑定されてびびったり、の悲喜こもごも。

頁216、前金だけもらって施工しなかった悪徳電気屋と、警察もまじえたバトルののち返金ゲットして、そのお金を児童養護施設に寄付しようと行くと、そこは西洋人たちがマスコミで宣伝しまくったので、要りもしない慈善物資が次から次へ山のように送り込まれていて、それを仕分けして僻地の施設に送り直すだけで一苦労、手数がそっちに割かれてしまうという愚痴を聞かされます。冬物衣料は高地に送らなければ意味がないとか、さまざま。最近、ガーナでも同じ話があったような。

b.hatena.ne.jp

受け取った側が選別すればいいというコメントだと、そりゃ違うような。

で、この仏教系孤児院の院長は、仏教だけの時代はよかった、キリスト教が入ってからおかしくなったと矛先をキリスト教に向け、中村サンは反論しますが、ガンとして主張を変えず終わります。ええはなしや。

このあたりで、「西洋人に養子として子どもを売る」シーンが出ますが、もうないはず。成長してどうなったのか。西洋で育った韓国人養子の話は有名ですが、スリランカ人の養子だと、どういうふうになるのかなあ。

頁208、スリランカ人はお礼を最後に言う、の場面だったかな。手持ちの布(サールワというそうですが、検索で出ません)を敷いてその上で土下座というかひれ伏してお礼を言うのが農村流とか。それとは関係なく、タイ人も最後にお礼を言う箇所があり、タイ人はそこしか出ません。ウジュンパンダン出身の中村サンは、なんかミッシング・リング的にスリランカインドネシアをつなげたかったのか。でも、アラカン山脈のあちらとこちらで文化の分水嶺になってるのは有名な話なので、海路としてもどうでしょうと。越境例を出そうとすると、ベンガル語を話すロヒンギャになっちゃう。

頁221

Aさん「あーら、お宅はサーバント(家事使用人)に卵をあげているの。そういう人がいると困るのよね。うちもあげなければならないでしょ。あんな人達によくしていたら、つけあがるばっかりなんだから」

Bさん「そうよ。あの人達、自分の家では、卵や魚はめったに食べられないのよ。魚の頭でもあげれば上等な方よ」

Cさん「話は違うけど、色の黒い人って何となく不潔な気がしない。食事の支度は色の白い方のサーバントにしてもらっているの」

邦人有閑マダムたちの会話。ローカル使用人への猜疑心は万国共通ですが、インド=アーリヤ系の色が黒い人への先入観は、実は私も見聞きするところです。スリランカ料理店に対してそんなこと思うんだもの。上のほうで中村サンはスニルくんという運転手を第一印象で怖がってましたが、私はそういう理由だと推測しています。後半、ガミニくんという居候が毛嫌いされますが、農村出身の巨漢だったとか(でも写真を見るとそうは見えない)こういうのは邦人だけでなく、たしか『島国チャイニーズ』という本でしたか、円高だった頃の渋谷などの日本語学校で、「色の黒い人はこわいので同じ学校はイヤ」という中国人留学生の声が紹介されていました。

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駐在邦人とはべつに、スリランカ愛に満ちて、農村開発ほかで東奔西走の邦人が二人出ます。鈴木友子サンと佐藤孝夫サン。前者は検索で何も出ず。後者は論文が出ます。佐藤サンは「佐藤マハッタヤー(旦那という意味)」と呼ばれていたそうで、インドのサーヒブがスリランカではこうなるのかとも思いました。マハトマ! 東南アジアは、トワンかな。頁235。「大旦那」はロクマハッタヤーになるそう。頁242。

頁238に親日スリランカ人として、ドナルド・ピーリスサンという人が出ます。ウィッキーサンではなく。この人も検索で出ませんでした。スペルが正しくないのかもしれませんが。

dic.pixiv.net

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

茶園のことを英語で"tea estate"と書いてます。スリランカではそう呼ぶとか。日本では直球で"tea plantation"

Japanese tea culture and tea plantations | iN HAMAMATSU.COM

オンダーチェサンの『家族を駆け抜けて』に、「サラゴヤ」というトカゲが出るのですが、まるで探し出せず、しかし本書頁251に「タラゴヤ」という名前で出るので、エスでなくティーエッチか!と即開眼しました。

www.youtube.com

シンハラ語があるのはウィクショナリーだけで、ウィキペディアタミル語ベンガル語カンナダ語など。

තලගොයා - Wiktionary

ta.wikipedia.org

頁254、スリランカの《计划生意生育》

1953年,家族计划协会成立。

1980年1月,动手术给一百卢比(相当于一千五百日元左右)的发布。没人来过。

同年10月,涨价了五百卢比(相当于七千五百日元)人人排队。平均说,每天一百三十五个人来动手术。其中,一百二十五个人是男人,女人仅仅是一十个人。大部分是僧伽罗人。

ここで、スリランカの民族別人口構成が書かれ、シンハラ人約70パーセントタミル人約25パーセントはいいのですが、現在ではムスリムスリランカ人と書かれてる人たちが、「マラッカラ人」(タミル語を話すイスラム教徒)と書かれていて、へーと思いました。マレーシアの回教王国マラッカと関連あるのでしょうか。また、マイケル・オンダーチェサンなどが所属する、バーガーもしくはブルガーは、「ランシー人」(スリランカを植民地としたヨーロッパ人の子孫)と書いてあります。ブルガーと言ってスリランカ人に通じなかったのですが、ランシーと言ってみて、通じたら勝ち。また、スリランカの原住民、ウェッダ人というのも書いてあります。シンハラ知識層は、この調子でシンハラ人ばっかり避妊してったら、人口バランスが崩れると危惧したそう。

➢20231109追記。ランシー、マラッカラでシンハラ人に通じました。

頁275は「邦人主婦がスリランカで自動車運転免許をとる話」スリランカの初心者マークは、四角い紙に赤字で「L」と書いて、「ラーナ」"Learner"の意味とのこと。検索すると、宗主国イギリスの初心者マークがそれでした。そのものズバリの写真が、はてなブログの英国留学記にありました。

頁293、フィールドワーク。焼畑農業は、「チェーナー・カルティベーション」というそうです。

巻末に、田中宏さん、金容権さん(南雲堂編集者)ビヤダーササン、シャムガラトナムご夫妻、大江正章さん、野中耕一さん、タンガラージャさん、渋谷利雄サンへ謝辞。

頁300。やっぱり色白は目立ちますね。べっぴんさんの人妻… 以上です。

【後報】

右はお湯で一分をうたったインスタントホッパーの袋。

PURE CURRY
Ready in 1 Minute
INSTANT STRING HOPPERS
ක්ෂණික ඉඳි ආප්ප 
உடனடி இடியப்பம்
Product of Sri Lanka
ශුද්ධ බර Nett Wt
200g
CURRY INSTANT STRING HOPPERS 
ARE MADE WITH 100% NATURAL COUNTRY
RICE STRING HOPPERS ARE PRODUCED 
IN THE TRADITIONAL METHOD WITHOUT ANY

商品名だけタミル語が併記されています。

インスタントでないスリング・ホッパー。サンボルと、サツマイモペーストみたいなものと、カレー。さびしいので、上にコロッケとロールを載せました。一枚づつ、手でつまんで食べやすいといえば食べやすいのですが、煮汁(カレー)によく浸して食べようとすると、ポロポロ細かくちぎれてしまうので、食べ慣れも必要かと。また、ふつうのスリランカプレートはこれにマッルン、モージュ、アチャール、パパダンがついてきますので、お得感を求める人にはあれかも。イディ・アーッパ求道者みたいな人が叩かないと、ホッパーはその門を開いてくれない。

(2023/11/9)