『明日はそんなに暗くない』හෙට එච්චර කලුවර නෑ "Tomorrow will not be so dark" එදිරිවීර සරච්චන්ද්‍ Ediriweera Sarachchandra エディリヴィーラ・サラッチャンドラ 著 中村禮子 パドマ・ラタナーヤカ නකමුර රේකෝ පද්මා රත්නායක Nakamura Reiko & Padma Ratnayake 訳 読了

段々社「アジアの女性作家秀作シリーズ」スリランカ『熱い紅茶』の邦訳者中村禮子サンのほかの訳書が図書館にあったので、読みました。

明日はそんなに暗くない (南雲堂): 1991|書誌詳細|国立国会図書館サーチ

カバー表はキャンディー(シンハラ王朝時代の王都で学園都市)の街と湖の写真で、ドローンのない時代にサラッチャンドラサンが撮影したそうです。この位置に大文字山みたいな山があるんでしょう。函館のような感じなのか。

maps.app.goo.gl

カバー裏はボロンナルワという中世の王都で仏教遺跡が多くあるところの、守護神獅子像。鎌倉のようなものなのか。セイロン観光局提供だそうです。

ja.wikipedia.org

これほど原題の言語表記を探り当てるのが楽なケースも珍しかったです。ツールの性能向上もあるんですけど、著者が有名な作家さんだったのもあるのかな。

まず、奥付の著者名アルファベット表記から英語版ウィキペディアが出ます。実際の作業は、アルファベット入力すら省略して、紀伊国屋のウェブサイトからコピりました。現地語で創作してる作家さんの中には、英語版ウィキペディアのない人も多いのですが、ここは流石ウィッキーサンの国、英語準標準語國と言うべきか。

en.wikipedia.org

で、英語版ウィキペディアに、ご芳名のシンハラ文字表記があるのみならず、シンハラ語ウィキペディアへのリンクもありましたので、簡単にシンハラ文字での著者名表記に辿り着けました。

si.wikipedia.org

で、そこの小説一覧をグーグル翻訳して、簡単に原作が分かりました。しかも、邦訳ではいつ発表された小説か記載個所が見つけられなかったのですが、1975年の小説であることを知ることも出来ました。

私がグーグル翻訳でシンハラ語を試し出した数年前は、箸にも棒にもかからなかったのですが、AIの進歩は驚異的です。あっという間にこんなに的確に。

KBOOKS.LK - Heta Echchara Kaluwara Na - හෙට එච්චර කළුවර නෑ

https://www.kbooks.lk/image/cache/catalog/godage/heta_echchara_kaluwara_na_ediriweera_sarachchandra-500x500.jpg冒頭に、サラッチャンドラサンによる、「日本の読者のために」(19901030)があり、1971年の人民解放戦線の反乱を題材にしてるとあります。実在の大学を舞台に、登場人物はフィクションという、ちょっと日本からすると不思議な構成です。東大全共闘の小説を全編架空の登場人物でやるようなものでしょうか。後世の読者大混乱。学生たちは当然マルクス思想に影響を受けていて、中には中国プロレタリア文化大革命の影響から、壮麗な仏教遺跡はすべてブルジョワの建造物でブルジョワの記念碑なのだから、破壊して打倒すべきみたいなことを言うキャラも出てきます。頁108。本書はどちらかというと教師側からの記述になりますので、学生のロジックは受け入れられないが、背景にある社会の不平等に対しては同様に怒りを覚えている、という描写が続きます。スリランカは日本より比較的中国から遠く、英国教育の伝統もまだ保たれていますので、学生の教師への思慕敬愛は踏みにじられていません。

上の写真は頁11。本書にはこういうふうに、数葉写真が入っているのですが、撮影者未記載です。たぶん中村サンだと思います。スリランカの四大大学は、このページ段階では、ペーラーデニヤ大学、コロンボ大学、ヴィディヤランカラ大学、ヴィディヨーダヤ大学だそう。

頁2 日本の読者のために

 物語の背景になった一九七〇年代は、スリランカの大学の変動期でした。一九五〇年代の大学生は、都市の中産階級の子弟が多く、設備の整った学生寮で学んでいました。卒業後も高い地位に就くことが約束されていました。ペーラーデニヤ大学は、英国のケンブリッジ大学やオックスフォード大学を手本に築かれた、西洋風のキャンパスです。学生は全員キャンパス内の尞に住み、食事のときなど英国の習慣に従わねばなりません。ズボンの着用を重視し、サロンを腰に巻いて食事をすることは禁止されていました。一九五〇年代の学生は、そのような慣行に疑問を感じることもなく、英語で学び、語ることが自然だと思っていました。

 しかし、一九七〇年代に近づくと高等学校までシンハラ語で教育を受けた農村青年が、大学に入学するようになりました。彼らは従来の慣行に馴染めなかったばかりでなく、エリート主義的な制度をなくす運動を始めました。学生寮内の生活に混乱が始まりました。農村出身の学生にとって、大学は階級社会を映す鏡のような存在です。教師たちはキャンパス内に立派な住宅を構え、外国車に乗っていました。そして、夕方になると構内のクラブ・ハウスに集い、ウイスキーを飲みながら歓談していました。

まるで60年安保と70年安保との差異のようです。バラモン左翼から農村の都市包囲の一環へ(そこまでじゃないか)21世紀の現在はまた一周回ってバラモン左翼。

人民解放戦線 (スリランカ) - Wikipedia

ජනතා විමුක්ති පෙරමුණ - විකිපීඩියා

この、著者冒頭文やウィキペディアで人民解放戦線と呼ばれている政治結社は、やったらいろんな名称を持っていたそうで、頁77には、「デーシャプレーミ・タルナヨー(愛国青年)党」やら「プラガーティシリ・ジヤナター(進歩主義者)党」やら「ヴィローダ(抵抗)党」やらいろいろ出ます。左翼が愛国を名乗るのは、ラオスのパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)みたいなものだと思いました。作中では、共通名称として、チェ・ゲバラのシンハラ読み、チェーグゥエーゲワーラ、チェーグループと呼んでいます。ゲラがゲラになるのは、ワダとかワデとかと同じですし、『世界の引きこもり』で、インドの引きこもりが、日本語のアルファベット表記で、「w」を「v」で書いたのを思い出しました。

stantsiya-iriya.hatenablog.com

『世界の引きこもり』頁115

vatasino namayeva Bhurana desu! vatasiva Indo karakimasita!

(私の名前はブラーナです!私はインドから来ました!)

ものみの塔の禁書絡みをまた出したので、しばらく海老名を中心にまた侃侃諤々かな。あの人たちは、ブラジルスーパーにポルトガル語版の宣材を置いてってる点からも、ホントに世界中でやってる団体なんだなと思う。

目次。こんな感じです。夜、銃声(マシンガン)が聞こえてくるのを、ムスリムは婚礼を夜に行うので、彼らの爆竹や花火ではないか、なんて、強いて平静を装うとする会話があって、そこはスリランカ的と思いました。頁125。なぜか借りた本はこの箇所に付箋がついてたです。下の写真は頁13。

中村サンは1979年から1981年までコロンボ大学に留学していたそうで、それはちょうど人民解放戦線が武装蜂起した1971年と1987年のはざまの時期に当たります。中村サンが邦訳したスリランカ小説は、このふたつを題材にしていますので、なんでかなあと思いますが、平和な時期のスリランカを知ってる方が、暴動の混乱に心を痛めて、それはなぜ起こったのか、訳すことで身体に納得して留めよう、沈殿させようと思ったのかもしれません。混乱や戦火のただなかの記憶を持った人は、逆にそれが出来ないこともあるかもしれません。

共著者のパドマサンは、80年代バブル前夜に来日して新潟大学神大で刑法を学んだひとだそうで、訳出の最中に佐賀県に引っ越してしまい、京都の中村サンはzoomもEメールもない時代ですので(FAXはちょうど普及期だったと思いますが、個人家庭にどれだけあったか)泊りがけで佐賀に行って翻訳を完成させたとか。

左はカバ折りのサラッチャンドラサン。

そのパドマサンの巻末寄稿「シンハラ文学と著者について」によると、スリランカ全島が英国直轄植民地になった1815年、公用語が英語となったが、印刷技術の発達により1860年シンハラ語新聞が発刊され、シンハラ語による散文、詩、小説などもあらわれたが、通俗的なものが多く、時代を越えて現代まで読み継がれるというほど残っているものはほとんどないそうです。パドマサンも「皮肉にも」と書いているように、ロンドン大学にシンハラ学科が創立された1927年以降、シンハラ文学のじゅうようせいがスリランカ知識人にも広く共有されるようになったとか。まるで、「ハングルは日本が作った」と同じ話のようですが、たぶん違います。

Mala Giya Aththo - මළගිය ඇත්තෝ

https://www.kbooks.lk/image/cache/catalog/godage/mala_giya_aththo_%20ediriweera_sarachchandra-228x228.jpgパドマサンによると、著者のサラッチャンドラサンは知日家であり、1955年に来日した時の見聞がきっかけになって、処女作『マラギ・アットー(亡き人)』(1955年)と続編『マラウンゲ・アウルダ(亡き人の命日)』(1965年)を書き、「多くのシンハラ民衆は、本書を通じて日本社会や日本文化を理解しているといっても過言ではない」んだとか。1950年代、世田谷区奥沢を舞台に、ロンドン帰りのスリランカ人画家と、近くのバーの邦人女性とのあいだの、恋愛と別れの物語だそう。やけに具体的でナマナマしいと思いました。こっちを訳せばよかったのに。

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Malawunge Awurudu da - මළවුන්ගේ අවුරුදු දා

https://www.kbooks.lk/image/cache/catalog/godage/malawunge_awurudu_da_ediriweera_sarachchandra-228x228.jpg『マラギ・アットー(亡き人)』は英語版ウィキペディアの"Geethulata hina (1959)"と思われ、ギースラタ・ヒナのどこがどうマラギ・アットーになるのか分かりませんが、シンハラ語版のමළගිය ඇත්තෝ をグーグルで音声にすると、ちゃんとマラギ・アットーになります。"Geethulata hina"はタミル語カンナダ語ではないかとグーグルが推測してますが、じゃあその言語だとどういう意味になるの?というところの回答はありません。『マラウンゲ・アウルダ(亡き人の命日)』は問題なく"Malwunge Awrudhuda" (1965)になり、මළවුන්ගේ අවුරුදු දා (1965)です。

物価高騰で大学の学食が経営困難になっても、運営側が私財持ち出しでなんとか学生の食生活を守ろうとしたり、いろいろありますが、ホッパーとかアーッパと呼ばれるクレープも出ますし、頁220には、相模大塚スリランカレストランのメニューにある、ビーフンにカレーをかけて食べる、スリランカ独自の食事が出ます。店ではスリングホッパーと書いてますが、小説ではイディヤッパ。

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こんなのです。オイシイとかより、世界にはこのような料理があって、日常食なのかという驚きの方が大きい。

どこでも暴動鎮圧はなまぐさいもので、本書にも、大学構内の描写で、古タイヤを首にかけて焼かれた死体が出ます。こういうのも国境を簡単に跨ぐ。頁203。大学関係者は学生ではないだろうとしています。

本書の邦訳のしかたはすごく変わっていて、パドマサンが中村サンに、口頭で一語一句、日本語に英語を交えて原書文章の意味を伝え、それを中村さんが日本語の文章語にして紙に落とし、それをさらに小説っぽく長文にしていって、それを編集に送ったそうです。ので、二年もかかったとか。シンハラ語の辞書を引いての翻訳でないところが、不思議でした。ふたりで角突き合わせての作業になるので、あいまに食べたインスタントラーメンやカレーの味が忘れられない、と、巻末「翻訳をおえて」に中村サンは書いています。

「翻訳をおえて」は、湾岸戦争の時期と重なったこともあり、いささか世界情勢についてナイーブな記述もありますが、著者本人に許諾を得ての邦訳なので途中放棄出来ない、海外滞在して滞在記一冊書いて承認欲求満たされておしまいが主婦には多いと言われて、なにくそとむきになって頑張って、それがモチベーションになったことなど、が面白かったです。

本書もトヨタ財団の「隣人を知ろう」プロジェクトの女性を受けていて、姫本由美子さんという友人の方がそこにいたりしたそうです。南雲堂もそういうのやってたんですね。出版社では、佐藤武司さんという方への謝辞、編集者金容権さんへの謝辞もあり。この金さんが、南雲堂の隣人を知ろうプロジェクトのキーマンなのかな。

第一章、第二章、第三章にはそれぞれ上のイラストがついてます。意味不明。暗号なのか。

巻末の南雲堂関連書籍広告。『わたしのスリランカ』は読んでみます。そして、南雲堂サンは、ヒサエ・ヤマモト短編集邦訳を再版してほしい。あるいは岩波現代文庫でもちくまでも河出でも講談社文芸でもなんでもいいので、どこかで文庫化してほしい。切に願ってます。以上